すれ違うこそ人の常
「もちろん、自分で結婚を申し込むのでしょうね」
笑顔で断言した大奥様に、どこら辺が「もちろん」なのかと問える猛者はいなかった。
むしろ宰相家のような高貴の家柄ともなれば、結婚は親同士の間で話が進むのが「もちろん」普通であるし、現に、最初の候補を連れてきたのも大奥様ご本人だったはず、なのだが。
「うむ、やはりそれが良いだろうな」
したり顔で前宰相までがうなずいた。自分はどうだったのだ、と問いたい気持ちを抑え、ヤルスは黙って紅い目をしばたいたのだった。
それが十日ばかり前のこと。
(しかしまさか本当に、仄めかしさえしないとは)
いつものように茶の相手をしに来たアルテュストネを前に、ヤルスは半ば呆れていた。母の考えがさっぱり分からない。息子を結婚させたいのか、それとも実はさせたくないのだろうか。
アルテュストネの態度は今までとまったく変わっていなかった。好意と親しみは見せるが、あくまでへりくだった召使としてのものだ。
楽しそうに、大奥様が、大旦那様が、と両親の様子を報告してくれるのは良いのだが、このままでは埒が明かない。
(どうしたものか……)
いきなり結婚してくれと言っても、真に受けまい。理解したらしたで、驚き慌てて必死で断るであろう姿が、簡単に思い浮かぶ。
といって、今以上に親密になろうにも、ヤルス自身どうして良いやら分からない。さり気なく手を握って甘い言葉のひとつふたつもささやけば、相手も意識を変えてはくれるだろうが、
(良家の馬鹿息子が召使に手を出した、程度に思われるのがオチだ)
真面目な結婚を考えているとは信じられまい。それ以前に、
(そんな気色悪い真似が出来るか!)
……やれやれ。
思わずため息をついたヤルスに、アルテュストネが不安げな顔をした。
「宰相様、もしやご気分がすぐれないのでは?」
「いや、考え事をしていただけだ」
答えたヤルスに、アルテュストネが気を遣って辞去しそうな気配を見せる。ヤルスは軽く手振りでそれを止め、続けた。
「近頃すこし、母上の事が分からなくなってな。そなたは、母親のことをよく理解していたようだが……」
そこまで言った時、ふと、ある思いが胸をよぎった。彼は表情を改め、まっすぐにアルテュストネを見つめる。咄嗟に彼女は目を伏せたが、じき、恐る恐る目を上げて視線を返した。相手が何か大切なことを言おうとしている、自分はそれを受け止めなければならない、そう察して構えるまなざしだった。
ヤルスは心の片隅で安堵しながら、静かに言った。
「やはり、実の親子ならばそれが当然なのだろうか」
「――え……」
微かな息を漏らし、アルテュストネが目をみはる。ヤルスは淡々と続けた。
「私は、今そなたが仕えている二人の子ではない。かつてデニスを脅かした『赤眼の魔術師』の一人、エリアンが私の母だ」
「まさか、そんな」
「かつて私はエンリル帝やラウシールの手を逃れ、復讐のために再びこの国へ来た。今の父上と母上、屋敷の者たち皆を欺いて、本来なら存在しない息子になりすましたのだ。結局、復讐は阻まれ……偽りは暴かれた。だが父上と母上は、私をそのまま受け入れてくれた。十年ほど昔のことだ」
予想もしない話に、アルテュストネは呆然と絶句している。ヤルスは寂しげな微苦笑をこぼした。
「だから時々、母上の事が分からなくなるのかと……」
小さく首を振って言葉を切り、テーブルに目を落とす。ナツメヤシの葉を通した陽光が、紅茶の上でちらちらと踊っていた。
しばらくどちらも口を開かないまま、沈黙が穏やかに通り過ぎてゆく。その裳裾にくすぐられたかのように、アルテュストネがごく小さく笑いをこぼした。ヤルスが顔を上げると、彼女は慈しみを湛えた穏やかな表情で言った。
「それは多分、親子というよりも、男女の違いかと存じます。昔から、男女の間には越え難い溝があると申しますから。私も、父の事はあまり……母の説明で理解することはありましたけれども、本当に心から納得できたことはございません」
「そういうものか」
ヤルスは相槌を打ちながら、実母のことを思い浮かべていた。
故郷に帰されていた間に、片っ端から本を読んで、一般的な人間の心理を理解しようとしたこともあった。それは、いずれ人心を操るためだと思い込んでいたが、もしかしたら、自分が特異で孤独であることを無意識に埋め合わせようとしていたのかもしれない。
ともあれ、そうした本を読むことで、母親について多少理解できたような気がする点もある。だが本当に、他人の言葉で説明される通りの人物であったのかというと……もう、憶測さえしようがない。
ヤルスが回想に耽っていると、アルテュストネはまるで見透かしたかのような言葉を口にした。
「それに、分かったつもりでいても、人は案外すれ違った思いを抱いているものですから……分からない、と分かるほうが、分かっているのかもしれませんよ」
言ってから、なんだかややこしいですね、と自分で苦笑する。そんな彼女にヤルスは驚かされ、次いでほっと胸が温かくなるのを感じた。
(もしかして、母上は私に、この話をするかしないかを決めさせたのだろうか)
自分で求婚するのでなければ、過去を打ち明けるかどうかなど、考え付きもしなかったろう。秘密を告げることは即ち、彼女を己の人生につなぎとめる決意をすることだ。
(私にしっかりと覚悟させたかったのかも知れないな……『分からない』が)
自然と口元がほころぶ。
「含蓄のある言葉だな」
「もったいのうございます」
アルテュストネは頭を下げてから、紅茶をゆっくりと飲んで、深く息をついた。
「今のお話は、ほかにどなたがご存じなのですか」
「父上と母上、それに皇帝陛下と……近衛隊の副隊長だけだ。屋敷の者たちは何も知らない。薄々何かしら勘付いている者はいるようだが、そうした聡い者は、それゆえに口をつぐんでいる」
ヤルスが言うと、アルテュストネは、私も黙っています、と約束するようにこっくりとうなずいた。それから彼女は、ためらいがちにおずおずと問いかけた。
「……私に教えて下さったのは……信頼、して下さったと……?」
自分で言うのが恥ずかしいと見えて、指先で茶碗をいじりまわしている。ヤルスは曖昧な顔になり、小さく咳払いした。さあ、いよいよ正念場だ。
「知っておいて貰うべきだと、思ったのだ。……家族になる者には」
「……え」
アルテュストネが目を丸くして凝固する。ヤルスは覚悟を決め、彼女の方にすこし身を乗り出した。
「これからも、こうして共に過ごして欲しい」
「――――」
ぱか、とアルテュストネが口を開ける。次いで彼女は見る間に真っ赤になり、ぶんぶん首を振って叫んだ。
「そそそそんな!! もも、もったいのうございます! わたっ、私ごときが、そのような、おっおっ畏れ多い!!」
今にも飛んで逃げ出しそうな勢いでまくし立てたかと思うと、両手で口を覆って身を竦ませる。丸くなった目が潤み、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
ヤルスは彼女の顔を覗きこむと、静かに諭した。
「自らを卑下することはない。父上と母上も、このことは既にご承知だ」
「お、大奥様も……? っ、では、まさか、私を別邸へお連れになったのも」
「ああ。母上は最初からそのおつもりだったようだ」
「…………」
なんてこと、と、アルテュストネは小さく口の中でつぶやいた。ヤルスは椅子に座り直し、彼女の動揺がおさまるのを待った。
アルテュストネが涙を拭くと、彼は改めて、穏やかに問うた。
「承知してくれるか」
「はい」
小さな声で、しかししっかりと、アルテュストネがうなずく。きゅっと唇を噛んで決意を固めると、彼女は顔を上げて笑顔を見せた。
「私などが宰相様のご家族に迎えて頂けるとは身に余る光栄でございますが、ご期待に添えるように誠心誠意努めます」
台詞半ばで、ヤルスは、はて、と不審な表情になった。どうも彼女の意気込みは、いささか花嫁にはそぐわないような気がするのだが。
彼が不吉な予感に眉をひそめたと同時に、アルテュストネはテーブルにぶつかるほど深々と頭を下げた。
「宰相家の末子として恥ずかしくないよう、どうぞ今後もご指導下さいませ!」
「…………」
今度の沈黙は重かった。
あまりの重さに不安になったアルテュストネが恐る恐る顔を上げると、ヤルスはテーブルに片肘をつき、頭痛を堪えるように眉間を押さえていた。
「あ……の、宰相様……?」
早速失敗してしまったのだろうか、とアルテュストネが小声で呼びかける。
――すると。
「っ、あっははは!!」
いきなりヤルスがふきだし、身を仰け反らせて大笑いを始めた。会話が聞こえない距離に控えていた召使が数人、ぎょっとなっていっせいに振り向く。ヤルスが屋敷に住んで十数年、彼の笑い声が響き渡るなど初めてのことだった。
うろたえるアルテュストネをよそに、ヤルスはしばらく笑いこけ、しまいに椅子の背もたれに突っ伏してしまった。
アルテュストネは、もはや声もかけられず途方に暮れている。ヤルスはようやく笑いをおさめると、ゆっくり数回、頭を振った。
「ああ、まったく……すれ違いを口にした矢先に、まさにその通りになろうとは」
笑うしかないな、と苦笑する。アルテュストネは恥ずかしそうに椅子の上で縮こまっていたが、愉快げなまなざしを向けられてますます赤くなった。
「も、申し訳ございません! わた、私、決して自惚れるつもりではありませんでしたのに、とんだ勘違いを……」
「いや、そなたはもう少し自惚れるべきだな。私は結婚を申し込んだのだが」
さらりと自然に、口をついて言葉が出た。ヤルスは一瞬、おっと、というような顔をしたが、今さら照れても仕方がない。小さく咳払いしてごまかし、相手の反応を待つ。
アルテュストネは体を縮こまらせたまま、目は逆に限界まで見開き、耳たぶまで真っ赤になった。その様子があんまりおかしくて、ヤルスはまたくすくす笑い出してしまう。アルテュストネは口をぱくぱくさせるばかり。
彼女がいつまでも絶句したままなので、ヤルスは笑いを堪えて話しかけた。
「そもそも、なぜそのような発想になったのだ? あの言い方では、意味が通じなかったか」
「い、いえ、あの、あ、あれは……い、今、思い返せば、確かに、ですが……そのっ、わ、私、おお大奥様には目をかけて頂いて、それは本当に感謝しておりますけれども、ですから、てっきり、私を家族にというのは、大奥様が養女に迎えて下さるのだとばかり。まさかその、さ、宰相様が……」
語尾が消え入るように小さくなる。うつむいてしまってアルテュストネの前で、ヤルスはなんとも言えない顔になった。
「……なるほど。そういえば、私のことは血も涙もないと思っていたのだったな」
「そ、そうではありません! それはただの噂で、宰相様がお優しい方だというのは、よく存じております!……ですが、あの、……っっ」
アルテュストネは叫ぶように反論したものの、やはりまた、赤い顔でうつむいてしまう。膝の上で服を握り締めた手が、小刻みに震えていた。
ヤルスはそんな彼女を思いやるように微苦笑を浮かべ、静かに言った。
「もう一度訊こう。承知してくれるか、アルテュストネ」
「…………」
返事はほとんど聞き取れなかった。だがヤルスの耳には確かに、はい、と小さな声が届いた。消え入りそうな、しかし深い喜びを湛えた声が。
――後日、これからの段取りを大奥様と相談していたアルテュストネが、流石に不安をもらした。
「私に、宰相様の……お、奥……っ、など、つ、務まるでしょうか」
すると大奥様は、にっこり笑って、こう請け合ったのだった。
「自信をお持ちなさい。あなたはほかの誰にも出来なかったことを、見事にしてのけたのよ。なにしろ、あの子が声を立てて笑うところなんて、私達でも見た事がなかったのですからね!」
(終)




