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拾遺集  作者: 風羽洸海
『LOST』以後
35/43

つなぐ糸



 帝都の宰相家がこれほど寂しいのは、近隣住民の記憶にある限りなかったことだ。前宰相とその奥方が、使用人の一部を連れて、郊外の別荘に越してしまったからである。

 病弱な大奥様の静養の為、という名目ではあるが、誰もが、何か裏の事情があるのではと噂していた。

 外野のかしましさに反して、屋敷の中は静かなものだった。ただ一人残った宰相ヤルスは殆どの時間を王宮で過ごしていたし、そもそもが手のかからない主である。召使達もする事がなく、屋敷がむやみに隅々まで磨き上げられていくばかり。

 今までなら毎日の食事には、屋敷で家族三人が揃ったが、それもなくなった。厨房もすっかり暇になって、宰相様が客を呼んで宴でも開いてくれたらいいのに、と料理長が愚痴をこぼす始末。

 何しろヤルスは食事に熱心でない。最高級の仔牛肉を出そうと、卵を産まなくなった鶏の筋張った肉を出そうと、何の反応もないのだ。むろん後者のようなものは、料理人の誇りにかけて出すわけにはいかなかったが。

 そんな“食べさせ甲斐のない”宰相様は、今日も夕暮れに一人で屋敷に戻り、誰もいない食堂でぽつんと座っていた。すでに食事すら、こなさねばならない職務のひとつであるかのように、出されるものをろくに見もせずに、機械的に口へ運んでいる。

 テーブルには仕事の書類が広げられていた。両親がいる頃なら、考えもしなかったことだ。

 無味乾燥な食事が一通り済んで、給仕が皿を下げる。ヤルスは視界の隅でそれを捉えただけで、何の反応も示さない。かといって、実のところ、書類に集中しているわけでもなかった。目は何度も同じところをさまよい、文字を読み取っているだけで頭では何も考えていない。

 ――と、誰かが近付く気配がして、そっと紅茶が出された。それに、焼き菓子の皿も。

 紅茶の爽やかで繊細な香りと、菓子の甘い香りが鼻をくすぐる。ヤルスは我に返って顔を上げ、深紅の目を丸くした。

「どうぞ、宰相様」

「……アルテュストネ? なぜここに」

 母親の侍女として別邸に移ったはずではなかったか。

 そう考えてから、ああ、と気付いて納得する。彼女が差し出した焼き菓子は、以前よく母が作ってくれたものだ。干しブドウと木の実のクッキー。彼の数少ない好物だ。

「これは母上が?」

 問うたヤルスが心配そうだったので、アルテュストネはその理由を考えて少し答えに詰まり、それからこくりとうなずいた。

「はい、お届けするようにと。ですがご安心を、実際に作ったのはほとんど私です。大奥様が詳しく指示を下さって、私がその通りに致しました」

 彼女の答えに、ヤルスはほっと息をついた。アルテュストネは温かい微笑を浮かべて続ける。

「ご自分で作りたいとおっしゃったのですが、大旦那様も、私たち召使も、皆でお止めしましたので。大奥様はご不満そうでしたが、お元気でいらっしゃいますよ」

「それなら良かった。ありがとう」

 ヤルスが礼を言うと、それが退去の合図だと思ってか、アルテュストネは頭を下げて立ち去るそぶりを見せた。思わずヤルスは「あ、いや」とそれを引き止める。

 怪訝な顔になったアルテュストネに、ヤルスはいささかばつの悪い思いをしながら、曖昧な声音で言った。

「良ければ、その……座ってくれ」

「えっ? え、いえあの、宰相様と同席など、畏れ多うございます!」

 途端にアルテュストネは真っ赤になって慌てる。さりとてヤルスも、では行って良し、などとは言えない。

「その宰相本人が、構わないと言っている。……正直、一人の食事が味気なくて辟易していたところだ。母上のお心尽くしを、粗末に扱いたくない」

「……は、はい」

 それでは、とカチコチに緊張しながら、アルテュストネが向かいに座る。ヤルスは微かに苦笑して、この分では茶を勧めてもひっくり返しかねないな、と諦めた。

 茶を飲むのが自分だけであっても、向かいに人が――それなりに親しいと言える誰かが――いることが、がらりと五感を変える。味も香りも、きちんと生きたものとして感覚に訴えてくる。

 一人の食事には、慣れているはずだった。

 何度も彼の“機能”を制限するための手術を受け、入院している期間が長かったし、その頃の彼にとって医師や看護士は彼を役立たずに作り変える敵であったから、むろん仲良くなれるはずがなかった。

 施設では全員が揃って食事をとったが、擬似家族ごっこに付き合う気など全くないヤルスは、常に隅の席で、誰とも目を合わさず口もきかずに食べた。味わいもせず、ただ義務として。

 当時は何も感じなかった。寂しいとも、虚しいとさえも。

 それがこんなに侘しいものだったとは。

 ――そんなヤルスの思いが、顔に出ていたのだろう。遠慮しながらも、アルテュストネがそっと話しかけてきた。

「お一人で、お寂しくはありませんか」

「寂しくはない。確かに食事は味気ないが、それ以外の時間は仕事がある」

 ヤルスは素っ気なく応じたが、口に入れたクッキーの甘さが、つまらぬ見栄を張るなとささやいた。彼は紅茶を飲み、会話を打ち切られて途方に暮れているアルテュストネに穏やかな目を向けた。

「……だが、そういう状態を、寂しいと言うのだろうな。母上と父上はどうされている? お変わりないか」

「はい。お二人とも、街中にいるより具合が良いとおっしゃっています。大奥様は食事もよく召し上がるようになられましたし」

 ほっとしたようにアルテュストネが答える。その表情の温かさは、彼女がすっかり主を慕っていることのあらわれだろう。ヤルスも満足してうなずいた。

「そうか。……母上の気遣いを無駄にせぬためにも、私があちらを訪ねることは出来ない。これからも時々、様子を知らせに来て貰えるだろうか」

「はい、喜んで。大奥様も、宰相様のご様子を気にかけていらっしゃいます。きちんと食事をとっているか、仕事ばかりしてろくに眠っていないのではないか、と。そのようなことはないと、お知らせして構いませんね?」

 ようやく少し緊張が解けたらしい。アルテュストネは悪戯っぽく笑って言った。

 ヤルスは苦笑で「そうしてくれ」と応じた。


 それからは時折、アルテュストネが焼き菓子だの、大奥様の新作手芸品だのを携えて、郊外から屋敷へと通うようになった。

 十日に一度だったのが、五日に一度になり、三日に一度になって。

 その度に、ヤルスはアルテュストネに同席を勧め、次第に彼女の方も緊張せず彼と向かい合うようになっていった。

 そうして一月ほど経った頃、ふと、改めてヤルスがしみじみつぶやいた。

「やはり、この屋敷に一人というのは寂しいものだな」

 話を聞くばかりではなく、実際に両親が一緒にここで暮らしてくれたら。

 そういう意味だということは、アルテュストネにも話の流れで分かった。そして今では、彼女も思うことを率直に言う勇気を持ち合わせていた。

「畏れながら、宰相様。……大奥様も大旦那様も、いつまでも宰相様のおそばには留まられません」

 語尾が震えた。振り向いたヤルスの顔を見るのが怖くて、咄嗟にうつむいてしまう。だが、言い出したことを途中でやめても、かえって怒りを招くだろうと、強いて続けた。

「親は普通、子よりも先に異世へ行くのですから。誰もが普段は、いつまでも生きられるように錯覚しているものですけれど」

 長く、重い沈黙が降りる。

 しばらくして、ヤルスが深いため息をついた。

「……そなたの父も、そうだったな」

 言った声は暗かったが、怒りや失望の響きはなかった。アルテュストネは「はい」と消え入るような声で答え、それから恐る恐る顔を上げた。そして。

「――!?」

 目にしたものが信じられず、彼女は息を飲んだ。

 酷く傷付けられた子供のような、深い悲しみと孤独を湛えた表情。思わず手を差し伸べて抱きしめたくなるような、それでいて触れたらあまりの痛みに凍りつきそうな。

 次の瞬間には、その表情は消え失せていた。ヤルスはいつもの無表情を装い、何事もなかったように茶を飲んだ。

 今度の沈黙は、重くはなく、ただ、深かった。アルテュストネは目を伏せて、必死で言葉を探した。何でもいいから謝罪するか。それこそ無礼ではないだろうか。

 しばらく迷ってから、彼女は思い切って口を開いた。

「宰相様は、大丈夫です」

「……?」

「お友達もいらっしゃいますし、多くの人が宰相様を頼りにしておられます。だから、決して独りになられることはないと思います」

 その場しのぎでない誠実な言葉に、ヤルスもゆっくりと表情を和らげた。そして、ふっと小さく、ため息とも苦笑ともつかない吐息をもらす。

「そうだな。むしろ私より、使用人達の方が仕事をなくして独り路頭に迷うかも知れぬな。そなたも、今さら親元には戻れまい」

「その時は、こちらのお屋敷で改めて働かせて頂きとうございます。今、大奥様から教わっている様々なことを生かして宰相様にお仕え出来ましたら、この上ない幸せでございます」

 アルテュストネは大真面目に言ったが、ヤルスの方は複雑な顔になる。

「母上から、何を教わっているのだ?」

「それは……先日のお菓子をはじめとした料理の作り方ですとか、お客様をおもてなしする際の決まり事などです。裁縫は得意ですので、あとは上流の方々の暮らしについて、教えて頂いております」

「…………なるほど」

 謀られた。ヤルスは片手で顔を覆い、がくりとうなだれる。

 むろん、母が彼女に施している教育は、高貴な家に仕えるには大層役立つものであろう。だが単なる召使にしておくだけなら、屋敷の家事全般について教える必要はない。

(私が人恋しくなると読んでらしたわけだ)

 誰かにそばにいて欲しいと、一人で暮らすのにこの屋敷は広すぎると、実感させておいて。

「宰相様?」

 アルテュストネが不安げに呼びかける。ヤルスはやれやれと諦めまじりの顔を上げ、改めて彼女を眺めた。

 今までに両親が連れてきた見合いの相手に比べたら、まあ、マシな方だろう。自分の頭で考えてものを言い、きちんとした理性がある。宰相家の大奥様に見込まれたというのに、調子付いて驕ることもない。物静かで慎ましいが卑屈ではないし、一緒にいて苦にならない。

 動揺しやすいのは難儀だが、ヤルスが人付き合いの悪い宰相であるから、彼女も大勢の客をもてなすという苦行に挑まなくて済むだろう。何より、宰相の奥方になれば他人に怒鳴られることはなくなる。

「……あの、何か」

 深紅の目にしげしげ見つめられて、アルテュストネは居心地悪そうに身じろぎする。ヤルスは彼女に対して初めて見せる、優しい微笑を浮かべた。

「いや、なんでもない。今日はもう帰って良い」

「はい」

 何だかよく分からない様子のまま、アルテュストネは目をしばたきつつ立ち上がる。

 ぺこりと一礼して部屋を去りかけた彼女を、ヤルスはふと思いついたように装って呼び止めた。

「アルテュストネ」

「はい」

 振り返った彼女は、声にこめられた感情に気付いたのか、少し赤い顔をしていた。

(少なくとも、嫌われているということはないだろう)

 今さらそんなことを思い、ヤルスは己に苦笑する。ひとつ息を吸ってから、彼はしっかりとした口調で言った。

「――母上と父上に、今度そちらへ伺うと伝えてくれ。話がある、と」


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