押して駄目なら
来ようと思って、来たわけではないのだけれど。
(だったらどうして私、ここにいるのかしら)
アルテュストネは困惑と緊張でしきりに瞬きしながら、自分を取り巻く状況をもう一度確かめた。
充分に明るく、かつ涼しい木陰に設えられたテーブルには、編みかけの可愛らしい袋。その向こうにいるのは、なぜか、宰相家の大奥様である。彼女をここまで連れてきた当人は、とっくに姿を消していた。
そもそもは、店のお得意様である某家の奥方に、ちょっと分からないところがあるから教えて、と店先で編み方の手ほどきをしたのが発端だった。アルテュストネにしてみれば、それはさほど難しい技術ではなく、実際その奥方も、最初から分かっていたかのように易々とこなせたほどだった。
が、ちょっと妙なほど感激した奥方は、わたくしのお友達にも是非教えてあげて頂戴、と、アルテュストネを連れ出したのである。店を切り盛りする母親は、新しいお客様を掴めるかもしれないからと、快く娘を貸し出した。
アルテュストネ当人としては、本職でもない自分で良いのだろうかと不安だったのだが、あまりにその奥方が褒めちぎってくれるもので、お役に立つなら、とうなずいてしまったのだが。
(ここに来ると分かっていたら……)
断った? 自問して、すこし惨めな気分になる。どのみち、あの勢いで押しまくられたら、気弱な自分には断れない。相手はお客様なのだし、不興を買って喧嘩腰になられたら、また泣いてしまう。
視線を落としたアルテュストネに、大奥様が不意に、「どうかしら」と声をかけた。
慌ててアルテュストネは顔を上げ、テーブルの向こうから差し出された袋の編み目を確かめる。真剣に検分している彼女に、大奥様は少しおどけた口調で穏やかに言った。
「遠慮なく、良くない所は教えて頂戴ね。私の手が拙いのは自分でよく分かっていますから。最近は目も、手元が見えにくくなっているし。もっと早くに始めていれば良かったのでしょうけれど」
「そんなことはありません。大奥様は着実に上達なさっておいでです。先日、宰相様のお持ち物を拝見しましたけれど、これはずっと目が揃っていますし、間違いもほとんどありませんもの」
「それは嬉しいわ。でもね、ここの模様のところが、どうも上手くいかなくて」
「そうですね。目がひきつれてしまっていますね。……少し、お借りします」
アルテュストネは編み針と糸を借りると、問題の箇所をほどいてやり直すところを見せた。と、大奥様は「ちょっと待って」と止め、驚いたことに席を移ってアルテュストネのすぐ横に座った。
「向かい側から見ていたのでは、よく分からないわ。もう一度見せて貰える?」
「あっ、は、はい!」
アルテュストネは飛んで逃げんばかりの声を上げたが、なんとか震える手に言うことを聞かせ、まともな編み目を作ることに成功した。
大奥様はいたって真面目にそれを観察し、ああ、そうなのね、と納得する。それから自分で続きを編んで、また同じ模様のところに差しかかると、慎重に指を動かしながら、僅かな仕草と目配せとで、ごく自然にアルテュストネが手を添えられるように誘った。
きれいな模様編みが出来ると、大奥様はほっと満足の吐息をもらして、編み針を置いた。
「ありがとう、助かったわ。私にも娘がいたら、こんな風にして貰えたのかもしれないわねぇ」
その声に含みは感じられなかったが、それでもアルテュストネはどきりとして身をこわばらせた。よもやまさか、あの近衛兵が宰相様のお母上に、何か要らぬことを吹き込んだのではなかろうか、と。
だが大奥様は柔らかく微笑んで言った。
「難題も解決したことだし、休憩しましょう。お茶を運ばせますから、あなたも付き合って頂戴な」
「……も、勿体ないことでございます」
「あらあら。そんなに畏まらないで頂戴。あなたは私の編み物の先生なんだから」
悪戯っぽく言って、大奥様は召使に合図する。近くに控えていた召使が、一礼してさっと屋敷の中に入ると、間もなくカチャカチャと磁器の触れ合う音が聞こえてきた。
茶と茶菓子がテーブルの上に揃うのを待つ間、大奥様はアルテュストネを緊張させないようにか、庭の方を眺めていた。そして、召使が下がるのを待って切り出す。
「聞いた話ですけれど、あなたのお母様には再婚のお話があるのだそうね?」
「っ、はい」
予期しない言葉に、アルテュストネは緊張して息を詰まらせてしまう。大奥様は焼き菓子の皿を彼女にすすめ、自分は茶碗を口元に運んだ。仕草のひとつひとつが優雅で上品で、アルテュストネは家柄の違いを思い知らされて落ち込みつつも、見とれずにはいられなかった。
「それで……不躾な言い方で申し訳ないのだけれど、お母様としては、再婚する前にあなたが親元を離れる方が助かる、と――これは私の考えですけれど、当たっているかしら」
「…………」
今度はもう、声が出なかった。失礼とは思いながらもうなずくだけで答えられず、そのままうつむいてしまう。手は、お茶どころか膝の上でかたく握り締められていた。
(どうしよう。私が、身の程知らずなものを望んでいると思われているのだわ)
玉の輿を狙って卑しい女が息子に近付くな、と、遠回しに牽制されているのかもしれない。はっきり、そんなつもりはないと言うべきだろうか。それこそ下品なことだろうか。
だが大奥様の言葉は、まったく彼女の考えから外れたものだった。
「ごめんなさいね」
「――え?」
思わず顔を上げたアルテュストネに、大奥様は申し訳なさそうな、しかし温かい笑みを見せる。
「赤の他人が首を突っ込むことではないのに、あれこれと言って。許して頂戴ね」
「そ、そんな、畏れ多い! 私の方こそ、お耳汚しで失礼を……」
アルテュストネがあたふたと言いかけたのを、大奥様は軽く手を振ってやんわりと止めた。
「私も、興味本位で人様の事情を尋ねたのではないの。あなたを連れて来て貰ったのは、編み物のことももちろん本当なのだけれど、ひとつ考えている事があって。最後まで聞いてくれるかしら」
ヤルスが帰宅して母親に挨拶しようと庭へ向かった時には、ちょうどアルテュストネが大奥様に暇を告げて立ち去るところだった。庭へ一歩出た姿勢のまま、ヤルスはその場で固まってしまう。
考えておいて頂戴ね、と大奥様が柔らかく言うのが遠く聞こえる。アルテュストネが頭を下げ、召使に案内されてヤルスの方へ歩いて来た。
一瞬、隠れようか、という考えがヤルスの脳裏をよぎった。が、
(なぜそんな必要がある。馬鹿馬鹿しい)
即座に考え直し、ただ脇に避けて道を譲る。気付いたアルテュストネは、あ、というように小さく口を開いたが、ぱっと頬を染めて、無言で頭を下げる。そうして彼女は、恥ずかしそうにそそくさと通り過ぎて行った。
ヤルスはやや呆然と彼女の背を見送り、それから我に返って母親のところへ急いだ。
「母上」
挨拶もそこのけに、きつい口調になる。だが大奥様は、いつもと同じくにっこり笑って息子を迎えた。
「お帰りなさい」
「……只今帰りました」
勢いを挫かれ、仕方なくヤルスもいつものように挨拶をする。咳払いして威厳を取り繕い、彼は客が去った方を見やって漠然と問うた。
「今のは?」
「あら、知っていると思ったけれど。糸屋の娘さんよ。知り合いの方が、あの子に頼めば上手に編み方を教えてくれるというので、連れてきて下さったの」
「そうでしたか」
ヤルスがこの上なく曖昧な顔になったのも、むべなるかな。変な画策はなかったのだと安堵したいものの、一抹の不安と警戒は残る。仮に母親の言う通りの単純な事情だったのだとしても、まだまだ手芸熱が冷めそうにない、どころか今後ますます作品が増えそうだ、となれば――怜悧で知られる宰相閣下も、途方に暮れるというものだ。
編みかけの袋をちらと一瞥し、彼はごく小さなため息をついた。
「私はまた、母上が私に誰かを引き合わせようと連れてきたのかと思いました」
やんわりと牽制を込めて言う。と、反応はまったく予想外だった。
「ああ、それはもう諦めたわ」
「――は?」
あっけらかんと言われ、ヤルスは深紅の目をぱちくりさせた。大奥様は、息子の戸惑いなどどこ吹く風、自分の思いつきに夢中の様子で喋りだした。
「こればかりはご縁ですものね、まわりがあれこれ言っても、なるようにしかならないのでしょう。ですから、それはもう良いの。でもね、ヤルス、そうなったら、いつまでもあなたが私達と一緒に暮らしているというのは少し、外聞が良くないのではないかしら。庶民の家ならともかく、宰相職にある一人前の殿御が、親にべったりなのではね」
「は……は、うえ? いったい何をおっしゃるのです、そのようなことは決して」
「ええ、ええ。私たちはもちろん、あなたが私達の息子になってからの年月を、二十年ほど差し引いて考えなければならないことは知っています。あなたが私達をこの上なく大切にしてくれていることも、それは普通の子供が親離れ出来ないのとは違うことも、分かっていますとも。けれど、ほかの皆は違うでしょう。あなたの仕事にも、障りが出るかもしれないわ」
大奥様はいたわるようにヤルスの手を取り、そっと優しく撫でた。ヤルスがうっかりしんみりしてしまった隙に、大奥様は朗らかに続けた。
「ですからね、私達夫婦はしばらくの間でも、この屋敷を出ようと思います。ああ、そんな顔をしないで頂戴な。何も地の果てへ行くのではありませんよ。少し街を離れた静かなところに、別荘を買ってはどうかと考えているの。そこへ、さっきの娘さんも一緒に連れて行こうと思って」
「え!?」
何年ぶりかの頓狂な声が、ヤルスの喉から飛び出した。優秀なはずの頭脳が、母親の話にまったくついて行けずに空回りしている。
「あの娘さんなら物静かで落ち着けるし、私の編み物にも手ほどきをしてもらえるし、何より、あちらの家の事情を考えても都合が良い話でしょう。ねえ?」
「…………それは、確かに」
「でしょう? だからヤルス、悪いのだけれど、適当な物件を探しておいて貰えないかしら。そんなに広くなくて良いのよ。お客様を呼ぶつもりはないし、私達夫婦と、身の回りの世話をする者が何人か、それだけ住めれば充分だから」
ね、と大奥様が駄目押しする。にこにこと上機嫌で、もう今すぐにでも引越を始めそうな勢いだ。
ヤルスは呆然としたまま、機械的に「分かりました」と答え、ぎくしゃくと屋敷の中へ戻って行った。
庭に残った大奥様は、編みかけの作品を手に取って、楽しそうに一人くすくす笑った。数歩離れてそばに控える、事情を知らない召使は、目をしばたたき――何も見ていないふりで、ナツメヤシの梢越しに空を仰いだのだった。




