糸ならば切れても
来ようと思って、来たのではない。
心中で同じ言葉を繰り返していると気付き、ヤルスは深紅の目をしばたいた。
宰相様の持ち物にはいささかそぐわない手編みの袋を提げ、宰相様のご友人にしては少々行儀悪く杏飴をくわえた青年を連れて、宰相様が足を運ぶとしたら監査だか捜査だか不穏な目的でしかなかろうと思われる店の前に、宰相様の――ええいしつこい。
要するにともかく、どこをどう取っても、不自然で珍妙な状況だった。
ヤルスが立っているのは、様々な織物や色糸を扱う店の前だった。さほど大きな店ではないが、客は結構入っている。仕立て屋、お針子といった服飾を生業とする者もいるが、趣味と実用を兼ねて手芸をする裕福な家の女たちが、主な客層のようだ。
花畑のような店内を、女達が鳥のようにさえずりながら、賑やかに、かつ驚くほど精力的に動き回っている。その中に男が割り込もうと思ったら、ちょっとした勇気が必要だった。
「……俺、外で待ってるから」
もごもごと杏飴をくわえたまま、アテュスが早々に敵前逃亡を表明する。いつもならじろりとひと睨みくれるヤルスだが、しかし、今日ばかりは一瞥もくれなかった。
この店を選んだのは、自分ではない。
またしても心中で言い訳し、ヤルスは困惑気味に店の奥を見つめた。普通の視力ならば暗がりに隠されて気付かなかっただろうが、朗らかに客の応対をしている女店主の後ろに、彼の見知った顔があったのだ。
彼の頭脳をもってしてもなかなか次の行動を決められず、ただ呆然と立ち尽くすことしばし。まず店内の客が、次いで女店主が、そして最後にはその顔見知りが、彼に気付いた。
「宰相様!?」
頓狂な声を上げたのは、顔見知りの娘ただ一人だった。他の者達は、気付いてもあえて挨拶することが出来ず、好奇の目でちらちら盗み見ながらひそひそ噂するだけだったのだが。
そんな客達をかきわけて、娘が外までやって来た。先日、裁判で顔を合わせたアルテュストネだった。
ヤルスは何をどう切り出したものかと困り、いつものように無表情のまま、ただ小さくうなずいた。素っ気ない反応にもアルテュストネは怖じることなく、深々と頭を下げて丁寧なお辞儀をした。
「先日はお世話になりました。改めて、御礼申し上げます」
「礼には及ばないと言ったが」
「はい」顔を上げてアルテュストネはにっこりした。「ただ、私の気持ちでございます」
「…………」
そう言われたら、返す言葉がない。目をしばたいたヤルスの背後から、アテュスが興味津々と首を突っ込んできた。
「お、なんだなんだ。おまえ、いつの間に彼女なんか」
皆まで言わせず、ヤルスはアテュスの眉間に一突きくれて黙らせる。振り向きもせずにそんな離れ業をやってのけたもので、アルテュストネは目を丸くした。
そこへ、客の相手を終えたのか終わらせたのか、女店主がいそいそとやってきた。
「宰相様、初めてお目にかかります、アルテュストネの母でございます。先日は娘がお世話になりまして。もしや、様子を見においで下さったのですか?」
「いいや。買い物だ」
ヤルスは端的に答え、数種類の糸の色と太さと必要な巻き数、それに飾りに使う布の色柄と長さをすらすらと告げた。その内容を聞いて、ああ、と店主は合点する。
「大奥様の御用ですね? 先日、お家の方が買いに見えましたが、その折はご所望の品がすべて揃わなくて、大変申し訳ございませんでした。今日は大丈夫だと思いますが……もう一度、確認させて頂けますか?」
淀みなく応対しながら、店主は小さな石板と白墨を取り出す。流石に一度には覚え切れなかったのだろう。注文内容を間違いなく書き留めると、店主は愛想良くにっこりした。
「畏まりました。すぐにご用意いたしますので、少しお待ち下さい。よろしければ、奥にお入り下さいませ」
「いや、ここで結構」
ヤルスはどこまでも素っ気ない。店主はいささか鼻白んだが、では、と頭を下げた。
「アルテュストネ、宰相様に失礼のないようにね」
小声で言い置き、急ぎ足に店内へ戻って行く。アルテュストネは母親の姿が見えなくなると、ふうと小さく息をついた。無意識に出たものらしく、すぐに彼女は、あっ、と目をみはって失礼を詫びたが、もとよりヤルスは気にしなかった。
「あのご母堂なら、裁判の世話にならずとも店の一軒や二軒、守り通せたという気がするな」
ふむ、とヤルスがつぶやく。アテュスが額をこすりながら立ち直り、なんだ、と残念そうな声をもらした。
「こないだの裁判の関係者か。それならそうと先に言えよ」
「言う間もなく邪推したのはおまえだ」
しれっと切り返し、自業自得だと冷たい目をくれる。アテュスは渋面を作り、それからアルテュストネに向かって苦笑した。
「こいつ、こんなんだから、とっつき難いしおっかないだろ。でもこれで結構いい所もあるから、何か困った事があったら相談するといいよ。王宮の陳情受付を通してたら大変だから、巡回してる近衛兵をとっつかまえて、俺宛に言付けてくれてもいいし。あ、俺はアテュス。一応、近衛隊の副隊長だから」
「えっ」
アルテュストネが驚きの声を漏らす。アテュスは得意げな表情になったが、一方ヤルスはため息をついた。
「私も常々、近衛隊の人事には疑問を抱いている」
何だと、とアテュスが膨れっ面をし、アルテュストネは慌てて首を振った。
「え、あっ、あの、そういう意味では」
「ああ、そう言ってくれて嬉しいよ、君は素直で可愛いなぁ!」
アテュスは大袈裟に感激して見せ、アルテュストネの肩を抱く。悪友への当てこすりしか頭にないため、彼女がぎくりと緊張したことに気付かない。ヤルスは眉を寄せた。
「イシャーラ殿に知られて困るような振る舞いは慎め」
「なんだよ、本当におまえは可愛くないな! この子を見習えよ」
なぁ、と同意を求め、やっとアテュスはアルテュストネの様子に気付き、しまった、という表情になった。
間近で大声を出され、しかもそれが冗談とはいえ罵倒だったため、彼女の顔はすっかりこわばっていたのだ。アルテュストネは慌てて笑顔を取り繕い、無理に明るい声を出した。
「お、お二人は、とても仲が良くていらっしゃるん、ですね」
言葉が変なところで切れ切れになり、声が震えている。
いつもなら渋面で言下に否定するヤルスだったが、ここで同じ行動はとれない。嫌々ながらどうにか無表情を装い、冷淡さを強引に削ぎ落とした平坦な声で応じた。
「そうとも言う」
「…………」
短い沈黙。そして、アテュスとアルテュストネの二人が同時にふきだした。
「ご、ごめんなさい」
失礼を、と言いながらもアルテュストネは笑いをおさめられない。何しろ、すぐそばでアテュスが遠慮なく大笑いしているのだ。
ようやく少し落ち着くと、アルテュストネは一粒こぼれた涙を指で拭った。笑いすぎたせいだ、と、他者のみならず自分をもごまかせるのがありがたかった。目顔で感謝した彼女に、ヤルスは何の事やらとぼけるように、眉をちょっと上げただけだった。
無言のやりとりには気付かず、アテュスがぽんぽんとヤルスの肩を叩いて言った。
「まあ実際、仲が悪けりゃ一緒に飯は食わないよな。前はよくこいつのおふく……いや、ええと、大奥様の手料理をご馳走になったんだけど、最近はもっぱら手芸に凝ってらっしゃるみたいでさ」
「図々しい野良猫が上がりこまなくなったからな」
ヤルスは皮肉を返したが、実際は、それだけが理由でもなかった。前宰相の奥方は近年また体力が落ちて、ほとんど厨房に立てなくなってしまったのだ。それを思うと、自然、ヤルスの顔つきは寂しげになった。
「……それに、編み物なら料理ほど疲れない」
ぽつりとつぶやいて、無意識に手提げ袋をいじる。アテュスもつられて悄然とした。
アルテュストネはつと屈んで、袋にそっと触れた。宰相様の持ち物にしては不恰好だと思ったのは、そんな理由だったのだ。編み目が不揃いで、素人の手による物だと一目瞭然だったが、彼女は微笑んで賛辞を口にした。
「とても素敵ですね」
これには流石に、即答がなかった。アルテュストネが二人を見上げると、それぞれなんとも複雑な顔をしている。ややあってヤルスが重い口調で応じた。
「……被害が拡大するから、世辞は母の耳に入らぬように願いたい」
「まさか」思わずアルテュストネは目を丸くした。「お世辞ではありません。確かに、お上手だとは申せませんし、宰相様が公的な場でお使いになるのは無理でしょう。でも、温かなお気持ちが伝わってくる、とても良いお品ですわ」
「気持ちは嬉しいんだけどな」アテュスが頭を掻く。
「母はひとつのことに凝りだすと、かなり深みにはまるのでな……」
揃って、ふう、とため息をついた二人に、アルテュストネは苦笑するしかなかった。
「私の母も、ちょっとそういう所があります。私が幼い頃ですけれど、刺繍に熱中していた時期がありました。食事の用意もしてくれなくて、薄暗くなってきても気付かずに針を動かしているんです。その頃は使用人もいませんでしたし……それで、仕方なく私が何か作ろうとして、鍋をひっくり返して大騒ぎになったこともありました」
笑いながら、そこまで話して口をつぐむ。楽しげな口調に反して、目には微かな痛みが宿っていた。
彼女の表情から、ヤルスは当時の光景を想像することが出来た。
幼くて、今よりもはるかに涙を抑えられなかった彼女が、自分の失敗に驚き、傷ついて、大泣きする。両親が騒ぎ、父が母の不注意を責め、母は子が勝手な真似をしたと叱り、いつまでも泣きやまない子に、しまいには二人揃ってやかましいと怒鳴りつける。もはやそもそもの原因など忘れ、少女は、親に怯えてさらに泣く――。
ヤルスが口を開きかけたその時、
「またおまえは、昔のことを」
呆れ声が割り込んだ。女店主が注文の品を揃えて戻ってきたのだ。彼女は娘を軽く睨み、客を不快にさせない程度にたしなめた。
「何を話しているのかと思えば、まったく。お客様に退屈な話をお聞かせするものじゃありませんよ」
そして、当の娘が諦め顔で「はい」と答えるのもろくに見ず、ヤルスに向き直る。
「行き届かない娘で申し訳ございません。ご所望のお品はすべて揃いましたので、お確かめ下さいませ」
「……確かに」
ヤルスは台に載せられている糸と布をさっと見て間違いないことを確かめると、軽くうなずいて清算を求めた。店主が提示した金額は妥当なものだったので、ヤルスは交渉もせず、そのまま支払いをする。銀貨を渡しながら、彼はアルテュストネに聞かせるために言った。
「娘御は良い話し相手だった」
「お気を紛らすことが出来ましたのなら、良うございました」店主は恐縮しながら、苦笑で娘を一瞥した。「家庭のつまらぬことをお聞かせしたのでなければ、良いのですが。何しろ一人身の、暇な娘なもので。過ぎたことをくよくよ考えるよりほかに、する事がないのでございますよ」
一瞬、空気が凍りついた。だが店主はまったく気付かぬまま、頭を深々と下げ、店内の客に「お待たせ致しました」と詫びながら戻ってゆく。
往来に残った三人は、束の間、呆然とした。
「……さらっと酷いこと言うお袋さんだな……」
杏飴を喉に詰まらせたように、アテュスが唸った。先を越されたヤルスが無言でアルテュストネを見ると、彼女は寂しげに微笑んで首を振った。
「母は、自分が過去にこだわらない人間だと信じているのです。それに、母が店と家族の為にずっと忙しく過ごしてきたのは、本当ですから」
忙しかろうと暇だろうと、過去に足を引っ張られる人間には関係のないことだ。自身も長年古傷に苦しんだヤルスにとって、暇人呼ばわりされるのはかなり屈辱的だった。十年前なら憤慨して、毒を塗った言葉の槍をニ、三本お見舞いしていたろう。
今のヤルスはただ、ため息をついて頭を振れば、憤懣を処理することが出来た。一応は。
「婚約の解消に、よく反対しなかったものだ」
「お店のことがありましたから。そうでなければ、母としては、早く私を嫁がせたかったことでしょう。……実は、母にはもう再婚の話が来ておりますので」
「なるほど」
ヤルスはうんざり気味に納得した。確かに、見たところあの母親はまだ若々しい。店も持っているのだから、再婚相手には不自由しなさそうだ。しかし年頃の娘がくっついてくるとなったら、何かと厄介だ。母親としては、再婚相手が若い娘に手出しせぬよう警戒せねばならないし、再婚相手の方は、じきによそへ嫁ぐ連れ子に金を使いたくはないだろう。母親の再婚より先に娘が結婚してくれたら、一番良い。
早く片付いてくれたら、と常々考えているから、何気なくあんな台詞も出てきてしまったのに違いない。
「親は子に苦労し、子は親に苦労する、か」
諦めと自嘲を込めてヤルスがつぶやく。アルテュストネも小さくうなずいた。
「でも、親と子ですから」
短い言葉だが、様々の思いが込められている響きだった。親子だから縁は切れぬ、という諦め。そして、だからこその親子なのだ、という肯定的な受容。
ヤルスは久しぶりに実母のことを思い出したが、もう胸は痛まなかった。そうだな、と漠然と受け入れる。
と、横でアテュスが「いやぁ」と天を仰いだ。
「子供の苦労の方がでかいぞ、絶対」
「ほう?」
ヤルスは意外に思って目をしばたいた。アテュスが失踪した養父をよく罵倒しているのは知っているが、彼と養父の関係は決して悪くなかったはずだが。
訝るヤルスに、アテュスは苦笑を作ろうとして失敗したにやけ顔を見せた。
「だってな、確かに子供は手がかかるし面倒だし時々本気で腹が立つけど、結局はやっぱり、可愛いんだから」
「……そうか」
そういえばこの男は、これでも既に妻子持ちなのだった。納得したような、妙に疲れたような気分になり、なげやりに同意する。
「おまえが言うのなら、そうなんだろう」
「そうそう。おまえも嫁さん貰って親の苦労を味わえよ。楽しいぞぉ」
アテュスはにやにやしながら調子に乗って、ヤルスの肩に手を回す。次に言い出すことの予想がついて、ヤルスは手に持っていた品物を袋に入れ、撤退の準備をした。
「ちょうどここに、おまえでも我慢してくれそうな……」
げふ、と奇声が言葉を遮断する。
腹を押さえてうずくまるアテュスを完全に無視して、ヤルスはアルテュストネに目礼した。
「長々と仕事の邪魔をしてすまなかった。失礼」
「あ……いいえ、」
慣れない光景と唐突な挨拶に戸惑い、アルテュストネは目をぱちくりさせてしまう。彼女が言葉に詰まっておたおたしている間に、ヤルスはさっさと踵を返して歩きだす。五歩ばかり彼が遠ざかってから、ようやく彼女は言うべきことを思い出した。
「あっ、あの! またのお越しをお待ちしております!」
焦ったせいで頓狂な声になってしまった。が、ヤルスは驚いた風もなく、いつも通りに振り返り、無言でこくりとうなずいて、また歩き出す。
アルテュストネがほけっとそれを見送っていると、わざとらしく呻きながらアテュスが立ち上がった。
「くそ、半分本気だったぞ……死ぬかと思った」
「大丈夫ですか?」
ほかにどう言ってよいものやら分からず、アルテュストネは曖昧に問いかける。アテュスは苦笑いで腹をさすった。
「なんとかね。あいつ、ああ見えてすげえ照れ屋だから」
「はあ……」
「本気であいつを落としたかったら、結構思い切っていかないと」
「は……ええ!?」
何を言われたのか、一拍遅れて気がついたアルテュストネは、見る間に真っ赤になった。
「な、なな、何をおっしゃるんですか! わ、わた、私はそんなっっ」
「あれ、違うのかい? ごめんごめん」
けろりとアテュスが詫びる。アルテュストネはその場に座り込みたいのを堪え、火照った頬に両手を当てた。
確かに宰相様は立派な方だし、今までの人生で初めて自分の話をちゃんと聞いてくれた方だし、だから尊敬しているし好意も抱いてはいるけれど。名家でもないごく普通の商売人の娘が、よりによって宰相様のお相手になど、考えるだけで罰が当たる。
「おおお畏れ多い……っ」
あわあわと動転している彼女に、アテュスは白々しくとぼけた。
「俺の勘違いだったかな。でもまぁ、あいつがさっきみたいに普通に話す相手って、少ないんだよ。だからまぁ、落とす落とさないはともかく、今後も宜しくしてやってくれよな」
「そ、そんな、私などが」
「頼むよ。あいつ友達少ないから」
本人が聞いたら激怒して、今度こそ本気の一撃をお見舞いしてくれそうだが、先に帰ってしまったのだから何を言われても自業自得だろう。
「は……はい……」
アテュスの笑顔と勢いに押されて、アルテュストネは半ば呆然と承知する。よしよし、とアテュスは満足げにうなずいて彼女の両肩をぽんと叩くと、
「それじゃ、またな!」
また、を不自然なほど強調して、軽やかな足取りで楽しそうに去って行った。
アルテュストネが漠然と抱いた不吉な予感の正体を知るのは、もう少し先のことであった――。




