血も涙もない
ひどいタイトルですが内実は『宰相様を結婚させよう作戦・その2』。
以降、連続してヤルスの話です。だんだんちょっと甘くなる……かも?
帝都レムノスでは年に一回、特別な裁判が開かれる。国王御自らが裁きをつけてくださるというもので、通常の法廷で既に判決の下された件について再審を要求する者が全国から集まり、列を成す。
そもそもこれは分裂時代以前からの伝統で、“王”の裁きは温情判決が通例であるため、主に地元民が各地の王に陳情する場であったのだ。が、エンリル帝による統一後、皇帝に負担のかからぬよう裁判制度も整えられ、些細な揉め事はあまり持ち込まれなくなった。
結果として、より厄介な件だけが残ることになり、相変わらずこの時期の皇帝は頭痛にうめくはめになっているのだが、
「まあ、余には優秀な宰相がおるゆえ、楽なものだ」
皇帝オローセスは先祖に似た屈託のない笑顔を、銀髪の宰相に向けた。
「おかげで昔ながらの“慈悲深い皇帝”を演じていられる。なかなか気分が良いぞ」
「それは重畳」
宰相ヤルスはそっけなく答え、午前中に受付でまとめられた申請書の束を揃えた。愛想のない青年に、皇帝は面白くないと言わんばかりの顔をした。
「そなたもいい加減、少し角が取れても良さそうなものだがな。もう三十路に入って、情動を律せぬ若造でもあるまい。妻でも迎えたらどうだ」
「母から何かお聞きになったのでしょうが、皇帝陛下を煩わせるようなことではございません」
ヤルスは微塵も動じずに言い返し、では失礼、とすたすた出て行く。
余計なお世話にいちいちかかずらっている場合ではない。彼には彼の仕事があるのだ。年に一度の法廷には山ほどの申請が来る。いくら受付で通常法廷に回す分を除外するとしても、皇帝一人では到底裁ききれない。ゆえに数年前から、ヤルスも一部の裁判を分担してきた。
それがいつの間にか、温情判決の皇帝に対して、宰相の裁きは厳格かつ公正であるとして、ヤルスを名指しで裁判を求める者が増え、今では皇帝と同時に宰相の法廷も開かれるようになったのである。
事実と法にのみ重きを置き、被告や原告の心情はほとんど斟酌しない、そんな裁判官が支持されるのは妙なことにも思えるが、しかし実際、訴えを持ち込む者のほとんどは自分が正しいと信じているのだから、当然でもあろうか。
そんなわけでヤルスは自宅で申請書に目を通し、午後からの開廷に備えた。内容を読んだだけで、大体は裁定を下せてしまう。あとは実際に当人達から話を聞いてその裏付けをとるだけだから、法廷の進行は非常に速い。長く待たずに済むというのも、宰相法廷の好評な理由のひとつだった。
「次で最後か」
案外早く片付いたな、これならもう何件か引き受けても良かった、と考えながら、ヤルスは申請書にもう一度目を通した。
原告は商家の娘アルテュストネ。近郊の富農の息子ダウリュスと婚約したが、それを解消したいのだという。
訴えの内容はよく整理されており、これまた簡単に片付きそうに思われた。
(これなら通常の法廷で充分だろうが……わざわざここに来たということは、当人達に何かあるのだろうな)
やれやれ。午後いっぱい、わけのわからない破綻した理屈を強引に通そうとする輩の喚き声を浴び続けて、さしものヤルスも少々疲れていた。
(情動を律せぬ若造ではないにしても、椅子を投げつけてやりたいと思うことがない、わけではないからな)
十年ばかり前の、あの宝珠事件の頃に比べたら、随分情緒も安定したし、思いつめたところもなくなった。しかし、だからとて感情が薄れるわけではないのだ。
水を飲み、一息ついてから、臨時の廷吏に原告を通すよう合図する。
現れた男女を見た瞬間、ヤルスはなるほどと納得した。
嫌々ながらここに来たのが明らかな、不貞腐れた風情の若者。その横で、緊張に表情も身体もこわばらせて、いまにも泣き出しそうに唇を引き結んでいる娘。
この取り合わせでは、片付く話もこじれる一方であろう。
二人は一礼すると、用意された長椅子に、少し間を空けて座った。
「申請書は見た。アルテュストネ、ダウリュス両名に間違いないな?」
確認のためにヤルスが問うと、二人はいささか驚いた顔をして、それから慌てて「はい」と答えた。その反応は既に何度も見ていたので、ヤルスはどうかしたかと問いはしなかった。どうせ、宰相がこんなに若いとは思わなかった、というのだろう。
「婚約の解消を求めるとのことだが、アルテュストネ、具体的な理由は申請書に記されていない。今、聞かせて貰えるか」
ヤルスは淡々と事務的に問いかけた。娘がこくりとうなずき、心を落ち着かせようと息を吸う。その間に、若者の方が口を開いていた。
「解消することないんです、宰相様。だってもう結納も済ませたし、アルテュストネの親父さんが亡くなったから、女二人じゃやってけないのは目に見えてるんだし。俺だって、そりゃ街の奴らに比べたら垢抜けないけど、酒飲みでも博打好きでもないんですよ。テュスに手を上げたことだって一度もないし……」
なんでこんな事になったんだ、と言いたげに、彼は責めるまなざしを横の婚約者に送った。娘は早くも顔を紅潮させ、唇を震わせている。
ヤルスは若者の言い分を記憶に留めはしたが、今は横に置いてそっけなく応じた。
「まず本人の訴えを聞く。しばらくそなたは口を閉じているように」
「…………」
若者は不満の声を上げかけたが、深紅の目で睨まれて黙った。
次いでその目を向けられた娘は、微かに震えながら、意を決したように口を開いた。
「この婚約は、お互いの父親の間で決まったんです。私の父は街での商業権を持っていて、ダウリュスのお父様は、近郊の農場の中では影響力のある方ですから、両家が結べば商いの幅が広がると」
感情を抑えて静かに話す、その声音は少し痛々しいものの、内容は申請書と同様に整理された理性的なものだった。ヤルスはそれに気付くと、彼女の震えがちな声や、こちらを見ずに伏せられたままの目などを無視し、言葉にだけ注意を傾ける。
時々途切れながらも続いた説明によると、アルテュストネの父親は、婚約の時点で早々と商業権の相続人を娘婿に指定してしまったらしい。まだまだ自分が長生きするつもりで、ダウリュスにも商売を仕込み、妻と娘に農場と店の両方を遺せると思っていたのだろう。
だが、思いがけないことに父親は突然の病でぱったり逝ってしまった。
そこで引継ぎも何も出来なかったダウリュスは、店を売却し、婚約者とその母を農場に迎えると決めてしまったのだ。
「わ、私と、母は、父の店を、続けたいと、言ったのですが……ダウリュスが」
話がこの辺りになると、アルテュストネの目は潤み、しょっちゅう手で口元を押さえるようになっていた。そこへ名前を出されたダウリュスが、じっとただ聞いているのに耐えられなくなって大声を上げた。
「仕方ないだろう、女二人でどうやって店を続けるんだよ!? 人を悪者扱いして、何も分かってないな!」
怒鳴ったというほどの声ではなかったが、しかし、叩きつけるような口調にアルテュストネがびくりと竦んだ。見る見るその目に涙が盛り上がり、ぽろぽろ次から次へと頬を伝ってこぼれ落ちはじめる。ダウリュスは忌々しげに歯噛みし、うんざりとため息をついた。
「またか。都合が悪くなるとすぐ泣くんだからな、勘弁してくれよ」
「ちが……っ」
娘は反駁しかけたが、嗚咽に飲まれて言葉が続かない。ダウリュスは頭を振り、ヤルスに向かって、あなたも男なら同情してくれますよね、と言わんばかりの顔をした。
「いつもこうなんです。すぐ泣くから話にならないし、泣けばどうにかなると思ってるんだ。お情けをかけて貰えると思ってこちらに訴え出たんでしょうけど、女の浅知恵でご迷惑をかけました。すみません」
「情けを求めるなら、私ではなく皇帝の法廷へ行くはずだ」
ヤルスは冷ややかに応じた。二人の口調や態度や声の大きさに関係なく、言葉だけを吟味していた彼の目には、どちらがより“理性的”であるかは明らかだった。
「わざわざこちらに来たからには、その娘には正当と信じる言い分と、今後に対する考えがあるのだろう。泣こうが叫ぼうが、事実にも論理の正当性にも変化はない」
「…………」
予想外の反応に、ダウリュスはぽかんと口を開けて絶句した。彼が何を言っているのか、まるで理解出来ないようだ。一方アルテュストネは、涙を拭きながらこくこくと何度もうなずいた。
ヤルスは再び彼女に目を向けると、淡々と命じた。
「涙が止まらぬのなら、そのままで構わぬ。話を続けよ」
優しさの欠片も感じられない声だったが、むしろそのことに救われたように、アルテュストネは深くうなずいて、少しずつ己の考えを述べていった。
長い時間がかかったが、結局、商業権の相続は実際に結婚するまでは無効、という判決が下された。店の主が死んだ時点でアルテュストネとダウリュスが結婚していなかったのだから、娘婿に譲るとした遺言は無効、店は寡婦の所有となる。他人のダウリュスが処分できるものではないし、ましてや母娘に移住を強いる権利もない。
そしてまた、意思をないがしろにされた母娘が、婚約の解消を望むのも当然のことである、ただし婚約を破棄する場合は慣例に従い、結納品の返還と相当額の違約金を支払うべし――と。
ダウリュスは当然ながら、こんな話があるかと憤慨した。が、喚いても食い下がっても情に訴えても効果がないと分かると、結婚などこっちから願い下げだ、とその場で婚約を破棄して、頭から湯気を立てながら出て行ってしまった。
部屋に残されたアルテュストネは、まだ目元にハンカチを当てていたが、無理に笑みを浮かべて深々と頭を下げた。
「ありがとう、ござ……い、ました」
「礼には及ばない」
当たり前の判決だ、と、ヤルスが応じると、アルテュストネはほっと息をついた。
「今だから、言えますけど。本当は、ほかにも、理由が……。私、あの人が、怖くて」
「……?」
ヤルスは眉をちょっと上げて、先を促す。アルテュストネは唇を震わせ、数回ゆっくり呼吸してから続けた。
「暴力は、ふるいませんけど。すぐに、怒鳴るんです。私、昔から、そういうのが苦手で……大声で、言い募られたり、したら、こ、こんな風に、すぐ、泣いてしまうんです。胸が、く、苦しくなるし、言葉が……出て、来なくなって」
実際に気管が狭まったように、彼女は胸を押さえて小さく喘ぐ。出来るだけ、見苦しい様を晒すまいと努力しているのだろう。
ヤルスは彼女が落ち着くのを待って、静かに問うた。
「なぜそれを言わなかった?」
「だ、だって」アルテュストネは苦笑した。「宰相様は、血も涙もない、って、お噂ですから。こんな事を言ったら、それこそ、あの、ダウリュスみたいに、取り合って下さらないんじゃ、ないかと思って」
「……そんな噂があるのか」
厳格すぎるだの、情に流されないだのといった程度なら構わないが、そこまでとは。
心持ち憮然としたヤルスに、アルテュストネは慌てて、すみません失礼を、と詫びた。
「きちんと、聞いて頂けたのは、宰相様が初めてです。本当に……う、嬉し、」
ひく、とまたしゃくりあげる。この涙もろさのために、昔から数々の無念を味わってきたのだろう。涙だけを見て、言い分を聞かない人々のせいで。
ヤルスはふむと思案すると、壁際でいたたまれずそわそわしている廷吏に合図し、退室させた。それから自分は、椅子に深く腰掛けて背もたれに身を預ける。
「どうせ今日はそなたで最後だ。自然におさまるまで、好きなだけ泣いて行くが良い」
血も涙もない宰相から思いがけない言葉をかけられて、アルテュストネは潤んだ目を丸くした。それから、もう礼の言葉もなく、嗚咽を堪えながらぺこりと頭を下げる。その拍子にまた、涙の粒がぽろぽろとこぼれた。
ヤルスはそんな彼女の様子を見ながら、新しいハンカチが要るかな、などと考え――ふと、思い当たって言った。
「とは言え、涙を拭こうとしてあまり瞼をこすらぬことだ。後で腫れるぞ」
ごほ、とむせたような妙な声。
ヤルスが胡乱げに見ると、笑いを堪えるアルテュストネと目が合った。言葉にせずとも、どうしてご存じなんですか、と問いたいのが分かる。ヤルスはどうとも取れる表情をしただけで、黙って明後日の方を向いた。
小さなすすり泣きの声が、押し殺した笑いに変わるまで、そう長くはかからなかった。




