この親にして……
題して『冷血宰相を結婚させよう大作戦・その1』。
デニス帝国宰相家に隠居している前宰相の奥方は、病気がちだが常に笑顔を絶やさない、心優しい母親でもあった。
そしてまた彼女はその儚げな外見に似合わず、自分と夫を騙して我が子に成りすましていた――それも良からぬたくらみのために――見知らぬ青年を、しかしそうと分かった後でも温かく受け入れるだけの、ある種の剛の者でもあった。
その事を当の養子ヤルスが思い出したのは、あるうららかな春の昼下がりのことだった。
「ねえヤルス、あなた、宮仕えして長いけれど、仕事一筋なのですってね?」
そんな言葉で切り出され、ヤルスはいささかきょとんとして母親を見やった。先を促す彼の視線に応じ、彼女はいつもの穏やかな笑顔で続けた。
「あなたに懸想する娘さんたちもいらっしゃるというのに、あなたときたら文のひとつも受け取らないのですって? 心に決めた人がいる様子でもないし、あなたは仕事と結婚してしまったのだという噂だけれど」
話の成り行きに、ヤルスは落ち着かなくなって身じろぎした。どうせ宮中のゴシップを母の耳に入れたのは、毎日のように昼食をたかりにきて殆ど第二の養子のようになっている、あの近衛兵だろう。憎らしいほど天真爛漫な彼の笑顔を思い出し、ヤルスは苦虫を噛み潰した。
そんな息子の表情には構わず、母はなぜか上機嫌に話を進める。
「私もね、あなたのような人は自分で姫君をさらってくるよりも、堅実で釣り合いの取れた家柄のお嬢さんを、まわりが世話する方がいいのじゃないかしらと思って」
「母上、私はまだ……」
慌ててヤルスは断ろうとしたが、母の方が一枚も二枚も上手だった。彼女が召使に合図をすると、隣室から一人の若い娘が連れてこられたのである。これには流石にヤルスも、絶句したきり開いた口がふさがらなくなってしまった。
「ヤルス、この子はイシャーラよ。あなたにとっては義理の従妹にあたるのだけれど、会うのは初めてね。優しくしておあげなさいね」
ヤルスは呆然と立ち尽くし、目の前の小柄な少女を見下ろした。髪は淡い金色で目は深い石榴色。肌は白く、いかにも深窓のご令嬢といった容貌だ。おずおずと臆病そうな笑みを見せ、上目遣いにこちらを窺っている。
「………………」
――この時、ヤルスは生まれて初めて、真の窮地というものを味わっていた。自分の置かれた状況を表す言葉のひとつとして思考回路に浮かばず、どうすればこの危機を脱することが出来るかはおろか、次にどういう行動を取るべきかさえ、まったく計算できない。早い話がフリーズ、お手上げである。
固まってしまった息子に、病弱な母は豪気な台詞を投げかけた。
「あらあら、二人とも照れちゃって。可愛らしいこと」
神よ。
非論理的かつ非科学的と知りながら、ヤルスの頭脳がはじき出せた単語は、それひとつきりであった。
(困った……)
二人で居間に取り残され、無言のまま時だけが過ぎることしばし。ヤルスは眉間を押さえたきり、どうにも身動きが取れずに進退窮まっていた。
母の頼みを断るわけにはいかない。現にこうしてイシャーラが家に迎えられたということは、親戚筋にも話が通っているはずだ。反故にすれば父の顔に泥を塗ることにもなるし、何よりこの少女に『突っ返された不良品』のレッテルを貼ることになってしまう。
(……困った……)
ひたすら虚しくその単語を繰り返しているヤルスに、とうとう少女の方が思い切って声をかけてきた。
「あの、ヤルス様。私、精一杯努力いたしますから」
健気な宣言ではあったが、ヤルスの心を動かすにはあまりにも浅はかだ。努力で愛が得られるわけではない。それを彼は痛いほどよく知っている。何と応じたものか思案しつつ、ヤルスは少女を見つめた。途端にイシャーラは頬を染め、恥ずかしそうにうつむいた。内気で世間知らずの、籠の鳥。
「嫌だとは思わないのか」
半ば答えを予想しつつ、問うてみる。案の定、イシャーラは小さく首を振った。
「良いお話だと、両親も申しております。わたくしにはもったいないほどだ、と」
本当に勿体無いと思うなら断ってくれたらよかったのに。ヤルスはうんざりとそう考えた。それから、どう言って聞かせたものかとさらに思案する。
と、そこへ、案内の者も通さずに無遠慮な来訪者が割り込んできた。
「よう、ヤルス、元気か? 部屋に行ったら休んでるっていうから、病気でもしたのかと思って見舞いに来たんだけど……何やってるんだ?」
誰かと問うまでもない。近衛隊の一員、アテュスである。すっかり顔なじみになっているせいで、門番も召使も、彼の侵入を見逃してしまったのだろう。常ならばヤルスは怒声か嫌味で歓迎するところだが、今日ばかりは心底本気で喜んだ。両手を広げて抱きつきたくなるほどに。
もちろん実際にそんな真似はせず、彼はただにっこりして言った。
「よく来たな、ちょうど良かった。なに、母が客人を招いたので、もてなしのために休んだだけだ。紹介しよう……」
かくして十日ほど後。
「ヤルス。私の目には、イシャーラはあなたよりもアテュスさんと親しいように見えるのだけれど、どういうことかしら?」
かすかに眉をひそめて案じた母に、ヤルスはあっさり応じた。
「ああ、取られました」
「取られました、って、あなたそんなあっさりと」
流石に母も呆れた口調になる。珍しく小言のひとつも来るかとヤルスが待ち受けていると、彼女は中庭を散策する若い二人を見やり、ふうっとため息をついて肩を竦めた。
「……変なところでお父様に似たのねぇ、あなたときたら。仕方ないわね」
「は?」
父親似、と言われてヤルスは顔をしかめた。実の父のことを彼女が知るはずはない。ヤルス自身も実母の口から愚痴を聞かされただけで、そんな男に似ているとは思いたくなかった。
もちろん養母が言ったのは彼女の夫、前宰相のことであった。昔を思い出したらしく、彼女はくすくす笑って言った。
「あの人もね、最初の婚約者をお友達に取られてしまって、それでも二人が幸せならその方がいい、ってあっけらかんとしていたのですって。私の時は四回目の縁談だったそうよ。あなたのことも、気長にいくしかなさそうね」
「………………」
気長にいかなくていいですから。
言いたくても言えない台詞を飲み込み、ヤルスは無理にひきつった笑みを浮かべた。案外父も、棺桶に片足を突っ込むのが嫌でのらりくらりと逃げている内に、4回目になってとうとう失敗したというのが真相ではなかろうか。
(まあ、それで結果が円満にいっているのだから、彼らはそれで良いが)
果たして自分はどうなるのだろう。いつまで逃げ続けられるだろうか。それともいつか、自分も一人の女に夢中になる日が来るのだろうか。
(アテュスが羨ましい……)
あんなに自然に、恋に浮かれることができるなんて。
初めてそんなことを思い、ため息をつく。それから彼は、一瞬でも妙なことを考えた自分に呆れたように、やれやれと首を振ったのだった。
(終)




