思い出は甘酸っぱく
LOST直後、カゼスの受験はどうなったという話。
治安局員資格試験の合格発表があって、十日ほど後。
「久しぶりに茶でも飲みに行かないか? コーリンも来るし」
同じく合格した学友オーツから、カゼスに誘いがかかった。しばらくお互い羽を伸ばすこともできなかったので、カゼスは喜んでそれに応じ、シティにあるお気に入りのケーキ屋『翠風館』で待ち合わせた。
来たのは剣士部門に合格したオーツと、オーツの友達で国立情報科学大学院に入学したコーリン。三人はテラスに席を取ると、ショーケースに並ぶ華やかなケーキを物色した。
「やっぱりあたしはこれかなぁ。カラントムース」
えへへぇ、と笑いながらコーリンが可愛らしいピンク色のムースを選ぶ。するとカゼスが「あー」と妙な声をもらした。オーツは小首を傾げ、それから「ああ」と納得した。
「試験の前日に、俺が差し入れしたんだっけ」
「それだけじゃないんだな、これが」
なんとも複雑な顔でうめいたカゼスに、他のふたりはキョトンとする。カゼスはとりあえずオレンジのババロアを選ぶと、席に戻ってから話しだした。
*
「う……もうだめだ……」
ばたり。机に突っ伏した青い頭が、動きを止める。
「死んだふりしたって何も変わりませんよ」
リトルの冷たいツッコミが入り、カゼスは情けない顔でのろのろと横を向いた。
治安局の局員資格試験、本番前日。
「ああ……明日という日が永遠に来なければいいのに……それか今夜辺り、治安局支部が爆発事故でも起こして跡形もなくなるとか……」
学生が試験前に抱く妄想は、いずこも似たり寄ったりのようである。窓の外は憎らしいほど爽やかに晴れ、「鳥になりたい」とかいう詩的なんだか病的なんだかのつぶやきを誘う。後ろ向きかつ非生産的な独り言を続けるカゼスに、リトルはただ呆れてため息をつくばかり。
と、珍しく呼び鈴が鳴った。
「誰だよ、もぉ……しょーもない勧誘だったりしたら訴えるぞ」
ぶつくさ文句を言いながら、玄関を開ける。そこには、悪気のない笑みを浮かべた友人が、ケーキの箱を提げて立っていた。
「オーツか」
なんだ、と言わんばかりの顔をしたカゼスに、オーツは苦笑した。
「こんな辺鄙なとこまで、わざわざ差し入れを持って来た友達に向ける顔か? 追い込みで疲れてるだろうから、甘いものが欲しいんじゃないかと思ったんだけどな」
要らないなら帰ろうか、とオーツは肩を竦める。カゼスも苦笑するしかなかった。
「どうぞ。言っとくけど散らかってるよ」
「分かってるって」
いつものことだ、とオーツは気にもとめず、玄関で靴を脱ぐ。彼は剣士部門を志望しているのだが、その資格試験は二日前に終わっていた。
既に床が見えなくなっているカゼスの自室は無視し、オーツはダイニングに向かった。勝手知ったる他人の家、である。
「おー、翠風館のカラントムースだー」
箱を開けるや、カゼスはもうすっかり機嫌を良くして、うきうきと紅茶の用意を始めた。顔がとろけている辺り、危機感がなさすぎ。
赤や黒のスグリやベリーを使ったなめらかなムースの中には、シロップ煮の果実や、微妙に味の異なるムースが幾層にもなって隠されている。底のスポンジには爽やかなリキュールがたっぷりと染みていて、魅惑的な香りが鼻をくすぐった。
ひとくち食べたカゼスは、この上ない至福の表情で陶然とした。口の中の味わいをじっくり堪能したあとで、「あ」と我に返る。どうした、とオーツが目をしばたたかせると、カゼスはフォークをくわえたまま情けない声を出した。
「今の感動で、暗記した規約の半分ぐらい、抜け落ちた……」
「知るか阿呆」
オーツは冷たくいなしてから、意地の悪い笑みを広げてカゼスの皿に手を伸ばした。
「せっかく持って来たけど、そういうことなら俺が食ってやろう」
「ああっ、それは卑怯だ! いや、抜けてない、抜けてないから取るなあぁぁっ!」
必死で自分のムースを庇うカゼス。これで本当に、二十歳に手が届こうという年齢なのだろうか。対するオーツもオーツで、なんのかんの言いつつ食い下がる。
「そんな事言って、大丈夫なのか? 後で俺のせいにするなよ。やっぱり食って……」
「いいんだってば! どうせあと一日じゃろくなこと出来やしないんだから、いまさらじたばたしたって無駄無駄」
「本音が出たな。いまさら詰め込むのは無理でも、忘れるのは一瞬あれば充分、ってことは考えてないのか?」
「だーっ、しつこーい!」
二人してばかげた会話をしつつ、ムースを平らげる。
……結局その日はカゼスも、それ以上の勉強など出来なかった。オーツ相手に鬱憤晴らしをして、夜も早々に寝てしまったのである。寝不足で明日に祟ったらいけないから、などと自分に言い訳をして。
明けて資格試験、当日。
午前中の筆記試験はなんとかそれなりの手応えでクリアし、カゼスは養成学校の食堂で昼食をとった。食券販売機の列に並びながら、ふと感慨にふける。
(ここで食べるのも、これが最後かもなぁ)
合否はともかく、この試験が終わればじきに卒業だ。受かればどこぞの治安局支部に配属されるし、落ちたら……
(どうするかなんて、考えてないよ……どうしよう)
はぁ、とため息。途端に食欲が失せ、カゼスは野菜ジュースだけ買って、とぼとぼと中庭に出て行った。
午後からの実技試験は、応急手当と、魔術の規定・自由課題とがある。規定というのは事前に発表されているいくつかの術を実演するもので、力場位相の固定像作成や、捕縛術、転移術といった現場で必要とされる基本的なものがその内容だ。
(応急手当はアムルさんとこでやってたし、捕縛術もこないだ使ったばかりだし、大丈夫だよな)
まったく何が幸いするか分からない。カゼスはどきどきする心臓をなだめながら、順番を待っていた。一人ずつ別室に呼び出されるのを待つ間、控えの教室はいやおうなく緊張した空気に満たされて行く。
(問題は、自由課題の方だ……)
自由と言っても、まったくの自由ではない。いくつかの選択肢と条件の中から、自分がもっとも得意とするものを選ぶのだ。こちらは、呼ばれて試験官の前に出るまで、その条件が分からない。
たとえば、地上何メートルのところにかくかくの状態で取り残されたこれこれの人物がいる、これを安全に救助するにはどのような術を用いるか。ロープを持って上に『跳躍』して引っ張り上げるか、『風乗り』で飛び上がって相手を抱え降りるか、あるいは空間ごと要救助者を地上に『転移』させるか、それは受験者の判断に委ねられるわけだ。
鬱々と考え込んでいる間に、カゼスの順番が回ってきた。
番号を呼ばれ、別室に移る。まずは応急手当の実技をこなし、続いて規定もなんとかクリアすることができた。そして、問題の自由課題。
「遭難により孤立状態となり、恐慌状態に陥りかけている子供がいるものと仮定します。子供を落ち着かせる方法を考え、必要な術を実行してください」
試験官のうち一人だけが、前に置かれた椅子に座っている。どうやらそのオジサンを、雪山なり、地震で崩れた地下室なりに取り残された、問題の子供だとみなさなければならないらしい。お子様役の試験官は、口元に押し殺した笑いを漂わせている。……むごい。
(無茶言わんでください……ううう)
泣きたい気分になりながらも、カゼスはうんうん考えた。
孤立無援の状態で、子供の気をそらして安心させるにはどうするか。
もちろん暗示をかけてしまえば一発だが、それは厳密には魔術ではないし、万一救助される前に自分がくたばってしまったら、暗示がかかりっ放しになる。却下。
無理やり眠らせる方法もあるが、状況によっては眠ったまま目を覚まさなくなる恐れもあるだろう。却下。
何か幻覚を見せる。可愛らしい動物や子供番組のキャラクター……そんなもの、知りません。お話を聞かせる才能もないし。却下。
(残るは……食べ物で釣る、かな)
ただし本物の食べ物をどこかからぽんと呼び出すような真似は、いかに魔術師でも無理だ。自宅の冷蔵庫に転移陣を描いておいたのなら別だが。
(となると、幻覚術の応用だな)
いかにもそこに食べ物があるようにみせかけ、食べたように感じさせる。
カゼスは心中オーツに感謝しながら、昨日のムースの味や香りを思い出そうとした。昼食抜きなだけあって、その記憶はひどく克明によみがえる。
そうしてカゼスは、安心させるような――それこそ『ラウシール様』のような笑みを作り、試験官に歩み寄った。
(ここにいるのは子供、オジサンじゃなくて怯えた子供……)
「大丈夫、大丈夫」
自分もそう信じていると思わせる口ぶりで言い、手をかざしてごく自然な仕草で術をかける。背中に隠していた手を出してくると、そこにはケーキの箱があった。カゼスは試験官の前にしゃがみ、目の高さをあわせる。
「ほら、いいもの持ってたんだ。一緒に食べようか」
箱を開けると、本物としか思えないいい香りがこぼれる。試験官の顔にかすかな驚きが浮かんだ。カゼスは、フォークがないけどね、と苦笑しながらムースを出して渡す。試験官はなんとも複雑な顔をしながらムースに口をつけ、ふむ、とうなずいた。
「よろしい」
パン、と手を叩く音で、カゼスはホッとして腰を伸ばした。途端にムースは香りもろとも消え失せる。
「翠風館のカラントムースですね。子供にはもったいないかな」
子供役の試験官がにやりとしたので、カゼスは真っ赤になった。ほかの試験官たちも失笑し、場の空気が和む。どうやらカゼスの選択は、全くの失敗ではなさそうだ。
「実に見事な幻覚術でした。これですべての試験は終了です。ご苦労様でした」
皮肉めかした口調。食い意地が張っているね、と言われたようで、カゼスは慌てて頭を下げると、転がるように部屋を飛び出したのだった。
*
「あの時は本っ当、死ぬほど恥ずかしかった……」
はあ、とため息でカゼスが締めくくると、他の二人は抑えがきかなくなって、わっと笑い出してしまった。
「笑うなよー! おかげであんなに好物だったのに、素直に食べられなくなっちゃったんだぞー!?」
不幸な話じゃないかっ、などとカゼスは抗議する。しかしまぁ、この場合それは自業自得というか、あまり同情してもらえる話ではないわけで。
しばらくカゼスは笑いこける二人を相手に、ひとり虚しくじたばたしていたのだった。
(終)




