失敗
カゼスの養成学校時代、魔術師の卵の卵だった頃の話。
リトルの怒涛のお小言がメインというネタ。
リトルが壊れた。
そもそも、リトルヘッドという代物が精密機械の最高峰に位置することを考えれば、使用環境次第で変調をきたしても当然である。
そしてこの場合、確かにとんでもなく使用環境は悪化していた。カゼス十五歳、初めて時空に関係する呪文を使う許可が出た時のことである。
「あー、困ったなぁ」
初めての異世界でカゼスは苔の上に座り込んだまま、軽くリトルを小突いた。反応はない。本来なら、異世界の様子を観察する窓を開くだけの呪文である筈だった。術者自身が界を渡っても良いとされるのは、もっと後のことだ。
だが唱えた呪文がどこか間違っていたらしく、開いたのは窓ではなく通路で、カゼスはそこに吸い込まれてしまったのだ。……リトルもろとも。
リトルが無事なら、魔術の行使そのものは無理でも帰還呪文や解除呪文を教えて貰えるところなのだが、いかんせん、うんともすんとも言わない。自前の脳ミソはどうしたのかというと、こちらも突発事態のせいで機能停止しているようで、役に立たない。
いまや存在意義としては置物にも近い頭をゆっくり動かして周囲を見回し、カゼスは小さな咳払いをした。空気の成分が違うのだろう、喉がだんだんいがらっぽくなってきた。
「リトル?……やっぱダメか」
声をかけてみたが、作動光が点灯するでもない。この時カゼスは知りもしなかったが、本来リトルヘッドは魔術に適応性がなく、界を渡るなどとんでもない話なのである。
沈黙してしまったリトルを片手に、カゼスはとにかく立ち上がって歩きだした。当てがあったわけではないが、さりとてこのままつくねんと座っているわけにもいかない、そう思って。
そこは、見事な熱帯雨林だった。そびえ立つ木々の樹冠が陽光を遮り、下生えとしては苔やシダが幅をきかせている。その割には不思議とあまり蒸し暑くないのが救いだ。
少し歩くと、幸運にも澄んだ水がちょろちょろ湧き出ている場所に出会った。とにかく喉の渇きと痛みを耐えかねていたカゼスは、ほんの少しためらったものの、すぐに手で水をすくった。
(どっちみち脱水症状を起こすか、肺の中まで焼けただれるんだ)
飲んで下痢したって知るもんか。
この時ばかりは己の運を信じることにして――ついさっきその運に裏切られてこんな場所に落ちてしまったのだが――カゼスは貪るように水を飲んだ。
幸い、飲んですぐに気分が悪くなったりはしなかった。ささやかながら、運が名誉挽回すべくサービスしてくれたのだろう。
渇きがおさまると、少し落ち着いてものを考えられるようになってきた。
まず頭に浮かんだのは、これは『事故で飛ばされた場合』に該当するか、ということだった。もしそうだったら、九割以上の確率で生還は不可能だ。
――否。事故ではない。
唱えるべき呪文を間違えただけであって、魔術そのものは正常に発動した。
(ってことは……ええと、界を指定した部分は間違えていない筈だから)
そこが間違っていたら、呪文はとんでもない発動の仕方になった筈だ。
(ここでも魔術はいつも通りに使える筈だよな。それで……っと、確か直前に唱えた呪文は解除呪文だけで取り消しができるんだったと思うんだけど……)
学校で習ったことを必死で思い出す。いつも中途半端な覚え方しかしておらず、テスト前に詰め込み直すといった学習姿勢なので、なかなか記憶を呼び出せない。
それでも人間、命がかかれば不可能を可能にする底力が結構出たりするものである。どうにかカゼスは解除呪文を思い出し、念のために地面に書いて何度も見直してから、慎重に唱えた。
またしても運が頑張ってくれたらしく、直前と言うには時間が経ち過ぎているにもかかわらず解除呪文が成功し、界を渡る道が開け――
……戻ってきたのは、元いた教室からしっかり歩いたぶん移動した場所、すなわちトイレの中だった。
「うわっ! なんでこんなとこにー!? あ、ああ、そっか、移動したから基準軸がずれ ……って、う? う、うう、うえっ」
突然どっと襲ってきた吐き気と腹痛に、カゼスは体をくの字に折った。
ある意味確かに、そこは一番帰還にふさわしい地点であったのかもしれない……。
治療を受けて念のため入院――隔離――されたカゼスの元に、これまた専門家の元で治療、というか修復を施されたリトルが自力で飛んで戻ってきたのは、事件から二日後のことだった。
「うわぁ、リトルもう直ったんだ? いやー、本格的にだめかと思ったけど、まさか初期化したとかいうことはないよね?」
病室に入ってきた水晶球に手を伸ばし、カゼスは無邪気に喜ぶ。途端に、
「誰のせいだと思ってるんですか!!!」
怒号一喝。うひゃっ、とカゼスは首を竦め、いじけた顔で上目使いになった。
「なんだよー、僕だっておまえがこんな簡単に壊れるなんて思わなかったよ」
「簡単になどとよくも言えましたね」ぴしゃっ、とリトルが切り捨てる。「そもそもリトルヘッドは魔術に適応性がないんです、行使できないだけでなく、ね! しかも時空を極端に移動するようなことがあれば我々の思考や情報処理の基準となるすべての数値が変動するため個体内部に蓄積されたデータの全部に関してパラメーター計算をやり直さざるをなくなりその過負荷によって」
「ままま待った、分かった、悪かった! 僕が呪文を間違えたのが悪かったっ」
慌ててカゼスは謝った。この調子ではリトルヘッドの構造や能力について、理解できもしない講義を延々されることになってしまう。
宙に浮いたままリトルは明らかにそれと感じられる『視線』をカゼスにじとっと投げかけ、しばし沈黙した。それから、ふうっと深いため息を、見事な合成ボイスで聞かせてくれた。少なくともこの機能だけは壊れたままで良かったのに、などとカゼスは思わず修理した技師を恨んだほどだ。
「……だいたい」うんざりした口調でリトルが続けた。「飛ばされた場所からいきなりふらふら移動する人がありますか」
「げ、なんで!? 機能停止してたんじゃ……」
「出力面が全面的にマヒしてしまっただけで、入力に関しては生きてたんですよ、お生憎様ですがね。あの場ですぐに解除呪文を唱えたら良かった筈です、界を指定する呪文は間違えていなかったんですから! そんな事も分からないほど混乱していたんですか、それとも呪文を唱えた時から既に注意を散漫にしていたんですか? 時空間に絡む魔術は危険が伴うものだと先生に説明されたでしょうが。それも聞いていなかったんですか? そう言えばあの日は朝からボーッとしてましたからね。映画なんか見て夜更かしするからですよ。いったい私に何回、あなたは計画性がないと言わせたら気が済むんですか。しかもふらふら移動した先でいきなり生水を飲むなんて馬鹿にもほどがあります。警戒心がなさ過ぎるとかいうレベルではなく、もはや愚行の極みです。救い難い。末期的です。既知の細菌だけが原因だったから良かったものの、得体の知れない寄生虫だの何だのを体内に這いずり回らせて帰還していたらどうなっていたと思うんです? 学校まるごと閉鎖ですよ、しでかした事の重大さが分かってるんですかカゼス」
「……仕方ないじゃないか、おまえとコンタクトできなかったんだから」
半分聞き流しながら、カゼスは憮然と抗議した。
「僕は人間なんだからね。おまえと違って微生物や細菌の有無だの、大気の構成成分比率だのはわからないんだよ」
「そんな事は分かりきってます、誰もあなたに私並の感知・分析能力なんて求めちゃいません。だからこそ慎重な行動をすべきだったと言っているんです! 今回の修復で、ついでに開発試験もかねて対魔術処理能力を追加してもらいました。今後もしまたどこぞに飛ばされる事があっても、私の許可があるまで迂闊な行動は取らないで下さいよ」
「…………」
カゼスは無言でうなずいた。
というか……出来ればどこぞに飛ばされるような失敗はあって欲しくないし、もしそうなったとしてもリトルの助けなしで野垂れ死ぬのと、何から何までリトルにチェックされるのと、どっちがマシだろう……などとも思っていたのだが……
「よく覚えとくよ……」
言い返しても今なら百倍の厭味が返ってくるだけだ。魂まで吐き出しそうなため息をつき、カゼスはベッドに身を沈める。後悔の念がひしひしと押し寄せた。
ああ、大失敗だ。リトルなんか置き去りにして来りゃ良かったんだ……。
(終)




