夜の境
完結から五十年ばかり後。ちょっと暗め。
「何をしておいでです?」
不意に問われて、エンリルは目をぱちくりさせた。明るい陽の降り注ぐ王宮の中庭、涼しいナツメヤシの木陰で。はて、何をしていたのだろうか。
「特に……何も。うっかり眠ってしまったかな」
身を起こし、声をかけた相手を見やる。いつもと同じ、アーロンの姿があった。少しばかり呆れたような、しかし忠実で好意的な微苦笑。
「その分では、私が申し上げていたことも、子守歌にしかならなかったようですね」
「かも知れぬ」
応じた途端、エンリルは可笑しくなって破顔した。
「なまじ歌など歌うより、説教なり小言なりぼやく方が、効き目があるようだな」
下手な子守歌をからかわれ、アーロンは渋面になったが、言い返さなかった。わざとらしいため息をつき、やれやれと頭を振る。
「申し上げていたのは、本日の予定についてですよ。しかと聞いて頂かなくては。よろしいですか、まずリズラーシュの峠道に関する会議が……」
峠の冬季封鎖と関所の人員については、確か先日、それなりの解決を見たと思ったが。エンリルはふと不思議に思ったが、途中で質問を挟んで余計な小言をくらいたくなかったので、おとなしく拝聴していた。まず全部、相手の話を聞くこと。ずっと昔にアーロンから教え込まれた鉄則だ。
「それから高地の杉材に関して、イシャーディー家の当主から……」
しかし、アーロンの言葉はいつまでも終わる気配がない。しまいにエンリルもうんざりして、「もういい」と手を振った。
「予定は余が決める」
言うなり、立ち上がって服についた草を払う。アーロンが眉を上げてこちらを仰ぎ見たので、エンリルは笑顔になって手を差し出した。
「久しぶりに走ろう」
「しかし、エンリル様……」
「たまには構わぬだろう。そら、行くぞ」
アーロンの手を掴んで、ぐいと引っ張る。そのままエンリルは、今日の予定などその場に打ち捨てて、草原へと駆け出した。
馬の蹄が土を蹴り上げる。たてがみがなびき、耳元で風が唸る。世界が、大地の緑と空の青で二分された。
手綱を放し、両腕を広げて風を受ける。後ろでアーロンが、ぎょっとしたように名を呼ぶのが聞こえた。それさえも、幸せな気分に水を差しはしなかった。空を仰いでのけぞり、白い雲を見た――と思ったら、ぐるんと世界が回り、背中から草の上に倒れていた。
痛みも衝撃も感じない。ただ無性に楽しくて、声を立てて笑った。
上から心配そうにアーロンが覗き込む。その横に、なぜだか青い髪の魔術師が現れ、しょうがない人ですね、と言うように苦笑した。じきにアーロンも、真面目な顔を保てなくなったように、口元をほころばせた。
三人の笑い声が、青空に吸い込まれて……
……静寂で、目が覚めた。
はてな、とエンリルは訝り、何度か目をしばたたく。ごそりと身動きして、ああ、と思い出した。
そうだった。彼らは、とうに去ったではないか。
ふう、とため息をつき、もう一度目を閉じる。だが、思い出してしまった現実は、もはや夢を許してはくれない。虚しさと落胆が一度にのしかかってきた。
室内は薄暗く、窓の外はぼんやりと灰色に見えた。夜明け前だ。起き上がろうとして、夜の間に冷えた節々の痛みに顔をしかめる。次いで彼は思わず苦笑した。
(忘れていたとは、な……)
夢とは不思議なものだ。見ている間は、そこが現実。目覚めの向こうにあるもうひとつの現実は、その片鱗すらもあらわれない。己が既に孫のある年齢であり、起居に支障はなくとも馬を駆るのはもはや叶わぬ身であることも、かつて共に草原を駆けた者の多くが不帰の客となって久しいことも。
いや、心に懸かることは、多少の影を落としてはいたか。
夢の中でアーロンが持ち出した『予定』を反芻し、エンリルはやれやれと小さな吐息をもらした。だが、それらももう、自分の両肩に載っている重荷ではない。
「父上……? お目覚めでしたか」
遠慮がちな声に問いかけられ、エンリルは出入り口を振り向いた。息子のティシュトだ。召使に任せておけば良いものを、昨年エンリルが病で寝込んで以来、毎朝必ず自分で様子を見に来るようになった。
過保護にされては殊更、寄る年波を感じるではないか――と、エンリルは冗談まじりに抗議したのだが、ティシュトは困ったような微笑を浮かべるばかりだった。だからエンリルも、この件について蒸し返すことはやめ、かわりに言った。
「夢を見ておったよ。懐かしい人々の」
途端にティシュトが、目に見えてぎくりとした。エンリルは皮肉っぽくにやりとする。
「案ずるでない、まだそれほど異世に近づいてはおらぬ」
「お許しを」
ティシュトは小声で詫び、ぎこちなく頭を下げた。既に皇帝の位は彼のものではあるが、あまりにも高名になりすぎた父親が死なぬ限り、実際に彼の時代が来ることはない。その事が、親子の間にわずかながら暗がりを作っていた。
だが今朝のエンリルは、そんな些細な翳りを気にする心境ではなかった。久しぶりに晴れやかな、昔と同じく屈託のない笑みを広げる。
「しかし、行く先があのような場所であるなら、歩みも軽くなろうな。愉快であったぞ。憂いもなく、時すらも力を及ぼさぬ。良いものだ」
アーロンもカゼスも、今あらためて思い出そうとしたところで、既にぼんやりした姿しか浮かばない。だが夢では……鮮明だった。現実そのもののように。そしてまた自分も、とうに過ぎ去った若かりし頃の姿を取り戻していた。
エンリルは己が両手を見下ろし、夢の中でアーロンを引き起こしたあの感覚を、じっくりと味わうように思い返した。そうだ、かつてはこの手も、力に満ちていた。
「この世とて、そう捨てたものではありますまい」
不意に物思いを破った声は、かすれ、震えていた。いささか驚きつつ、エンリルは声の主を見上げる。寝床の傍らに立っているティシュトは、今にも泣き出しそうな赤い顔をしていた。遠い日にそうだった、寂しがり屋の子供のように。
エンリルは久方ぶりに湧き上がった優しい愛情を目に湛え、穏やかに「そうだな」と同意した。胸の内で、そうでもない、とつぶやく小さな泡を、この時ばかりは黙らせて。
短い静寂の後、エンリルはふとおどけた笑みを浮かべた。
「それに、異世が実際どのような場所であるかは、行ってみるまで分からぬ。期待したほどの宴ではなかったとしても、失礼、お暇する、というわけにもゆかぬのだしな」
つられてティシュトがふきだした。そして、笑った自分に驚いたように目をしばたたき、ごほんと咳払いする。
ティシュトが照れ臭そうに曖昧な言葉を残し、いつもより心温まる気配を残して辞去すると、エンリルはひとり、窓の外を眺めやった。
(夜明けか……)
地平の彼方から太陽がわずかに姿を現し、まばゆい光条が迸る。金色の光が触れる先から順に夜の色が消えてゆくその様は、この世がひとつの境界線を駆け抜けるかのよう。
もうじき召使がやって来る。それまでに、束の間の夢を標として心に刻んでおくべきかも知れない。そう、いずれ夜の境をもうひとつの暁に向かって越える時、迷わないために。
その後はもう、ふたたび目覚めて落胆する必要はないのだ。
「しかし、それまでは……やれやれ」
召使の足音を聞き付け、エンリルは諦めの苦笑をもらした。思うに任せない体を毛布の下から引きずり出し、腰を伸ばす。
動作の度にいちいち軋む体に、彼は身分に相応しからぬ悪態をついた。だがその声も、いつもに比べると明るく、楽しげでさえあった。少しばかり、若返ったかのように。
(終)




