雪上の足跡 ◆
クシュナウーズのその後。身の上に関するネタバレ有。
つくづく雪が似合わない……。
酒場の猥雑な空気は、土地の者もよそ者も区別なくまきこみ、いつから、誰が、そこにいようとも気に留める者はいない。行く当てのない旅人が足を休めるには、ちょうどいい場所だ。
外には冷たい風が吹き荒れていたが、屋内はこれでもかと燃える暖炉の火と、大勢の酒に酔った男たちの吐く息で、むっとする熱気がこもっている。
そんな中で、深くフードをかぶったまま隅の席で酒をちびちびやっている男がいた。周囲の多数を占める北方の民に比べると、小柄で華奢だ。目立ちそうなものだが、不思議と彼は誰の注意を引いてもいなかった。
「やたら甘いな、こいつは」
ちぇっ、と小さく舌打ちして呟く。その独り言はデニス語だ。マグになみなみと注がれた液体は、ヒースの蜜から作った酒だった。北方の名物だ。というか、この地方で飲める酒といったらこれぐらいなのだが。
〈がぶ飲みすると悪酔いするぞ〉
頭の中で声がする。酔っ払いなら幻聴かと思うところだが、生憎これはそうではない。実際に彼の『中』にいる生き物の声なのだ。彼はしかめっ面になった。
「がぶ飲みできるような代物かよ。ったく、ジジイのお薦めは信用できねえな」
そうぼやいたと同時に、向かいの席に一人の男がやってきた。
「やあ、あなたはデニスの方ですね。相席しても構いませんか」
闊達な印象の声と口調だった。男が顔を上げると、デニス人らしい黒髪と日に焼けた褐色の肌をした青年が、にこにこと笑顔で立っていた。男はふと懐かしそうな表情をすると、鷹揚に手を振った。
「ああ、構わんよ。どうぞ」
「ありがとう。こっちは寒くてかないませんね……おまけに酒といったらこの蜂蜜酒ばかりで。商用ですか?」
「いや、まぁ、当てのない旅さ。うまい酒を探してぶらぶらとな」
そう答えて男は苦笑した。その言わんとするところを察し、青年も同情的に微笑む。
「じゃあ、ここに来たのは間違いでしたね」
「蜂蜜酒がお気に入りの年寄りに、ぜひ行けとごり押しされたんだ」
男は渋面で答え、恨めしげにマグカップを睨んだ。青年は堪えきれず朗らかな笑い声を立てる。ティリスの乾いた風を思い出すような、明るい声だった。
「あんたは商売か? こんなところまでご苦労なこった」
「でも、リズラーシュを越える道が開けましたから。前ほど大変ではありませんよ。エンリル帝のおかげです」
「エンリル帝、ねえ……」ちびり、と蜂蜜酒を嘗める。「最近あっちはどうなんだい」
「情勢ですか? 皇帝陛下はご健在だし、平和なものですよ。相変わらず道路と治水の工事が多いですけど、おかげで商売には便利になりました。ここ数年は天候も穏やかで豊作だし。皇太子様も利発な方だとかで……ええと、この前の春でもう二十歳になられたんだったかな」
「もうそんなになるのか」
へえ、と男は感慨深げな声を出した。青年は小首を傾げる。
「国を離れて長いんですか?」
「ああ、まぁな」
「戻られる予定は?」
「ないね。あんたはどうなんだい」
はぐらかすように、男は青年に質問を返した。青年は蜂蜜酒を飲みつつ少し考えて、うん、とうなずいた。
「明後日には多分、発ちます。そうだ、もしデニスに戻られることがあったら、うちにも寄って下さい。ティリスのテマで店を出してるんです」
客人を招くのが好きなティリス人らしく、青年はもうすっかりその気で話を進める。男は曖昧に手を振り、返事をごまかすようにマグに口をつけた。
「きっとですよ。イシャーディーの店にきて、アーロンの友達だって……」
途端に男が派手に噴き出したので、青年はびっくりして身を引いた。男はむせて苦しげに咳き込み、しばらくは声も出せない様子だった。
「……誰だって?」
ようやくのことそう問い返した男に、青年はきょとんとして答える。
「アーロンです。……大丈夫ですか?」
「ああ、うう、なんとかな。ったく、ご大層な名前つけられたもんだな、おい」
「別に珍しくもありませんよ」
むしろありふれてるぐらいです、と青年は苦笑した。皇帝の片翼アーロン卿にあやかって、同じ名をつけた親は多かったらしい。自分と同じ年頃の友人知人にも、『アーロン』はごろごろしているのだという。
呆れ顔になった男に、青年は「それで」と問い返した。
「あなたのお名前は?」
「クシュナウーズ」
思わずといった風にそう答え、男は一瞬、しまったというように顔をしかめた。青年が何か言いかけて口を開いたが、それを素早く制して首を振る。
「おいおい、勘違いするなよ。俺がそんな歳に見えるか?」
「あ……ああ、そうか、そうでしたね。じゃあ、偶然ですか」
叙事詩に謳われる常勝の海軍元帥クシュナウーズならば、今頃六十歳前後になっているはずだ。眼前の男はまだ、どう見ても三十代。あやかって同じ名をつけた年齢でもなかろうから、まったくの偶然ということだろう。
「そういうこった。……少し飲み過ぎたな。そろそろ失礼するか」
言うだけ言って、男は代金を置いてふらりと立ち上がると、酒場を後にした。
外に出ると、いつの間にか静かに雪が降り始めていた。デニスでは見られなかった、天からの白い花びら。
はあっと息を吐き、彼は灰色の空を見上げた。フードが背中にずり落ちて、黒髪がこぼれた。傷痕の残る右頬を歪め、ひとり皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「二十年か」
〈瞬きひとつの間に、人の世はせわしなくうつろうものよな〉
声が言った。彼は答えず、目を瞑る。
しんしんと静寂の降り積もる中、額に雪を受けながら、そのままじっと祈るように立ち尽くして。
ややあって彼は首を下ろし、いまいましげにぼやいた。
「あー、気分悪ィ。最悪だぜ蜂蜜酒ってのは。なぁ爺さん、悪酔いに効く薬草とか知らねえのか?」
〈そうした感覚とは無縁じゃからの〉
「役に立たねえな、クソ……医者のところにでも、弟子入りすっか」
何しろ時間はたっぷりある。長い長い時を生きるのに、替えの体があるでなし、自分で手入れをしながら大切に使うしかないだろう。
「するってえと、次の行き先は香料半島かねぇ。あっちの方が医術は進んでるって噂だしな。どうする、爺さん」
ぼそぼそとつぶやきながら、雪の中を歩いて行く。行く先は見えない。
「なに? その前にヒオカに行く? どこだよそりゃ……知るか、今度またつまらねえ酒しかなかったら……」
見えない相手と口論しながら歩く男に、目を留める者はいない。いつしかその声は途切れ、雪の上に残った足跡も、新しく降り続ける白い花びらに埋められて行った。
(終)




