勝ったら負け
副題『めろめろ君パート3』
アーロンが15~16歳ぐらい、エンリル9~10歳の頃。
王宮で働く人間は数多いが、下働きの庶民と違い、高貴の方々のお世話をする者となると、侍女だの侍従だのと言っても相応の家柄の出である。純粋にその仕事を行うよりも、王宮に入ることで、より身分の高い誰かの引き立てを得ることの方が目的になっている者が大半だ。
ましてや、現在のティリス王オローセスは妻を失ったきり、側室さえ置いていない。となれば、いきおい、女たちの視線も熱くなろうというもの。しかし今のところ、王を虜にしようという目論みは、
「はい、このお花あげる!」
「まあ殿下、なんてお可愛らしい。勿体のうございます」
将を射るより先に馬の虜になる、という形で阻止されていた。
心とろかす威力にかけては並ぶものなしの笑顔で、幼い王太子が庭園の花を侍女に差し出すと、やられた方はすっかり顔を緩め、しゃがんで花を受け取った。膝を折ったのが自発的な意思なのか、単に骨まで溶かされてへなへなになったのか、区別をつけにくい。
守役であるアーロンは、やや呆れた面持ちでそれを見ていた。
「殿下、そろそろ戻りましょう。日が暮れてしまいますよ」
読み書きの宿題があるでしょう、明るい間にやらないと明日怒られますよ、と言外に脅しをかける。エンリルはちょっと情けなそうな顔をしたが、すぐに「そうだね」と了承した。むしろごねたのは、侍女らの方だった。
「もう行ってしまわれますの? 良いではありませんか、もう少しぐらい」
「殿下、こちらへいらして下さいな。お菓子を沢山、用意してありますのよ」
一緒に遊びましょう、と口々に誘惑される。守役に過ぎないアーロンはそれをはねつけることも出来ず、渋い顔で立ち尽くした。
身分は彼とてそれなりのものだが、しかし守役とは言っても実質的には遊び相手ほどのもので、指導や護衛を担っている近衛兵ではないのだ。
それに身分をさて置いても、いまだ十代の少年であるアーロンは、ふわふわ柔らかく優しくエンリルを取り囲む女達の壁を突破する術を持たなかった。
無闇と甘やかしてはいけない、という信念はあるのだが、当のエンリルが駄々をこねて大泣きしたら後が大変だし、女達の評判を落とすと、それこそどんな目に遭わされることか。三人の姉に揉まれて育った彼としては、女を甘く見るなど論外だった。
仕方なく彼は無言のまま、いけませんよ、と目で禁じる。エンリルは板挟みになって少し困った様子を見せたが、ぐるりと女達を見回して、一人一人に笑みを向けた。
「ごめんね、今日はアーロンと勉強しなきゃ。また今度、遊んで?」
そつない断りの言葉に、またしても女達がめろめろになる。
「まあそんな、勿体ないお言葉」
「勉学にもご熱心でいらして、殿下は本当にご立派ですこと」
名残惜しげにちやほやする女達の手を逃れ、エンリルはアーロンに駆け寄った。そして、勢い余ったのかわざとなのか、どしっと体当たりして抱きつく。
困惑顔のアーロンを見上げ、エンリルはにっこり笑った。
「待たせてごめん。行こう」
王太子殿下に、ごめん、と謝られて、それ以上何かを言えるわけがない。アーロンは笑みを返しそうになる己を強いて抑え、しかつめらしくうなずいた。
「はい、殿下」
アーロンはさっと侍女らに一礼すると、エンリルの手を引いて歩き出した。未練と羨望の視線が追いかけてくるのが分かり、彼はうっかり優越感を抱いてしまった。
(勝った……!)
いや待て、違うだろう、そうではなくて。
慌てて慢心を戒め、浮かんだ思いを振り払う。殿下の好意をめぐって張り合うなど、さもしいことを考えるな。己の職分を全うしろ、おまえは守役にすぎぬのだぞ。
そんな彼の葛藤など知らぬげに、エンリルは機嫌よく部屋に戻ると、読んでおくようにと宿題に出された古典詩を広げた。文机の傍らにアーロンも腰を下ろす。
エンリルはアーロンに助けられながら、一字一字、ゆっくり声に出して読み上げていった。
――と、不意にその声が途切れた。
読めない単語だろうか、と、アーロンはエンリルの手元を覗きこむ。行をたどる指先が、ある言葉で止まっていた。
「…………」
束の間ためらい、それは『母』ですよ、とささやく。やはりエンリルは分かっていたらしく、こくんとうなずいた。それから小声で、独り言のようにつぶやく。
「母上って、どんな風なんだろう。女官たちみたいに、お菓子をくれるのかな。アーロンの母上はどんな人?」
「私の母ですか」
ふむ、とアーロンは真面目に考え込んだ。
エンリルは恐らく母親というものを、甘やかしてくれる女官らと同じように思っているのだろう。いつでも優しく、それこそ柔らかくて甘いお菓子のように、ふんわりとした存在だと。
そのような返事をしてやるのは簡単だ。しかしアーロンはそうせず、率直に告げた。
「厳しい方ですね。もちろん愛すればこそでしょうが、私にも、兄や姉達にも、等しく厳しい母です。怒られてばかりいました」
「……そうなの?」
エンリルは驚いたようにきょとんとする。アーロンはうなずいた。
「はい。将来どこに出ても恥ずかしくないようにと、言葉遣いや作法については、とても厳しく躾けられました。お陰様で、こうして殿下の守役を務めていられるわけですが」
「お菓子も、くれなかった?」
「時々は貰えましたよ。と言っても、私にだけというのではなくて、家族で食べるものでしたが」
そしてその場合、召使がいるにもかかわらず、なぜかアーロンが三人の姉に命じられて菓子を切り分けたり、茶を淹れたりと、働かされたのであるが。
(しかも挙句に取り分が一番少なかったりしたっけな……)
実家での記憶を掘り返し、アーロンはふと遠い目になる。気遣うまなざしを向けたエンリルに、彼は微苦笑で応じた。
「まぁ、姉達よりは、母の方が優しかったですね。無茶な要求をされた時などは、母が姉を叱ってくれました」
「そうなんだ」
へぇ、とエンリルはつくづくと感心した声を漏らすと、それきり口をつぐむ。しばしの沈黙。アーロンは差し出たことかと遠慮しながらも、堪えきれずに訊いた。
「……お寂しいですか」
「ううん」と、これは即答。「女たちは優しいけど、だからって母上が欲しいと思った事はないよ。だって僕には、父上もアーロンもいるもの。父上はお忙しいけれど、アーロンはいつも一緒にいてくれるから。怒られてばっかりだけど……」
そこまで言い、エンリルは自分でぷっとふきだしてしまった。アーロンは嫌な予感がして、眉を寄せる。
エンリルは机に突っ伏してくすくす笑い、その姿勢のままアーロンを見上げて言った。
「アーロンはきっと、アーロンの母上に似たんだね。とっても厳しいもの。でも、大事な時にはちゃんと守ってくれる」
「お褒め頂き光栄ですが、守役の身には過ぎたお言葉、それ以上はご容赦を」
アーロンはやや強引に、語尾に被せるようにして謝辞を述べた。エンリルは不満げにちょっと唇を尖らせ、じいっと顔を覗きこんでくる。
アーロンはむっつり気難しい顔を保っていた。ここで油断すると、とどめを刺される。そのぐらいは既に学習しているのだ。
(勝った、なんて)
ああ、馬鹿なことを考えるのではなかった。
(何を勝ち取ったつもりでいたのだ、俺は)
欲しがる女がいるなら、喜んで譲ってやるのが筋だろう。何が悲しゅうて、十代の若さで『母上』の座など射止めねばならんのか。せめて『兄上』ならまだしも。
思わずこぼれそうになった深いため息を、どうにか普通の吐息にしてごまかす。
エンリルはそんな彼の心中が分かっているのかいないのか、おどけた風に青褐色の目をくるりとさせた。
「女官たちみたいに優しくなくても、アーロンが一番だから、心配いらないよ。言うこと聞かないこともあるけど、アーロンが僕のために怒ってるってことは、ちゃんと分かってるから」
「そう願いたいものです」
勘弁してくれ。
呻きのように応じたアーロンに、エンリルは屈託なく笑ったのだった。
――なお、後年の会話。
「あの頃はアーロンが母親のようなものであったなぁ」
「止してください、ただでさえ不本意な呼び名をつけられているというのに」
「私は純粋に感謝しているのだぞ? そなたがいてくれたおかげで、父上の後妻にならんとする女どもの餌食にならずに済んだ。私を懐かせて父上に取り入ろうという厚かましい女も、少なからずおったからな」
「……御見それ致しました。てっきり甘味に釣られておいでかと」
「それは否定せぬが」
「否定して下さい」
(終)




