表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
拾遺集  作者: 風羽洸海
『帝国復活』以前
12/43

天下無敵の王太子

アーロンの子育て奮闘記。副題『めろめろ君』


 馬術、弓術、正直さ。

 ティリスに生まれた男児は、この三つを幼少の頃より叩き込まれて育つ。良家の生まれであればさらに剣と槍、読み書き算術等の基礎的な学問が加わる。ゆくゆくは王の軍隊に入って指揮を取るか、あるいは高級官僚として出世することが出来るように。

 王太子エンリル本人であっても、この教育法は変わらない。彼はこの夏八歳になったばかりだが、馬術の巧みさにかけては大人も舌を巻くほどだ。アーロンもまた、初めてその腕前を披露された時に、心底驚かされた一人だった。

 それというのも、普段のエンリルは――


 ふぎゃーっ、と凄まじい泣き声が上がり、アーロンは書き物をしていた手を滑らせ、紙の上に長い道路を一本走らせた。彼が机上に置いた手を握り拳にして頭を垂れ、貴重な紙を一枚無駄にしたことを慨嘆する間も、泣き声は止まず背後から響いている。

 さかりのついた牡猫の喧嘩か、絞め殺される鶏の断末魔か、胴の破れたシター片手に風邪引きの詩人が張り上げる雄叫びか。その凄まじさときたら、どう形容しても足りない。

 アーロンはペンを置き、インク壷に蓋をしてため息まじりに立ち上がった。

「はいはい、ただいま参ります……」

 どうせ誰にも聞こえやしないのだからと、ぞんざいな返事をつぶやく。続き部屋のカーテンをくぐる彼の横顔には、齢十五にして既に所帯じみた雰囲気が漂っていた。

 室内では金髪のまだ幼い少年が、天蓋つきのベッドで、顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっていた。誰あろう、日課の昼寝をしていた王太子エンリル殿下その人である。

「また、怖い夢でも見たんですか?」

 アーロンが苦笑してベッドの端に腰掛ける。それを待っていたようにエンリルはアーロンにしがみつき、涙と鼻水で濡れた顔を服に押し付けた。アーロンは天井の隅の方をやるせなく見上げ、ぽんぽんと背中や頭を撫でさすってやる。しくしく泣くのではなく、いきなり泣き叫んだほどだ。よほど恐ろしい夢を見たのだろう。

 せめて昼寝ぐらい、平和にすませてくれないものだろうか。夜中に目覚めて室内の暗さや人気のなさに泣き出すこともあるというのに、真っ昼間にまでこれでは、自分が一息つく間がないではないか。

 しかしここでため息をついたら、妙なところで気を遣うエンリルのことだ、今後は一人で枕を噛み締めて泣くかもしれない。アーロンは疲れた様子を努めて見せまいと、無理に微笑した。

「殿下ももう八歳におなりなんですから、夢を恐れてばかりいてはいけませんよ」

 諭し聞かせると、その時はしがみついたままうんうんと何度もうなずき、また泣き声を上げそうな唇をなんとか引き結んで見せる。それはそれでいじらしいのだが。

 あまり上手ではない子守歌でエンリルの気分を和らげ、どうにか眠らせた後で、てかてかに光っている上着の前を見下ろす時の空しさといったら。いじらしいなどと言っておられるような心の余裕も、すっかりなくなってしまう。

「なんとかしないとな……」

 このままでは、服もあっと言う間に駄目になるし、第一こっちの神経が持たない。

 そういえば姉上が何か、子供を寝かしつけるまじないのようなものを知っていたっけ。

 手紙を出して訊いてみよう、と決めると、アーロンは再び机に向かったのだった。


       *


 王宮に来てアーロンが驚き、そして長らく馴染めなかった事のひとつが、食事だった。

 食卓にナキサーやアルデュスといったお偉方のみならず、一介の守役にすぎない彼までが同席を許される、その気さくさにも最初は驚かされたが、こちらはじきに慣れた。では何に馴染めなかったかというと、食事の内容だ。

 毎度毎度、パティラの家では考えられないほど多彩な料理が用意される。その贅沢ぶりに驚いていると、アルハンやエラードではこんなものではない、と聞かされた。図書館の歴史書などを読んでいても、確かにそのような記述がある。そうと納得はしても、やはり少々馴染めないのは、田舎育ちの悲しさだろう。

 だが、だからこそ、食物の大切さを殿下に理解して頂かねば、と彼は決意していた。


「駄目です」

 アーロンはきっぱり否定し、何度目になるか、自分の皿に移されたチシャ菜と肉をエンリルの皿に戻した。幸いその日の夕食は内輪だけのささやかなもので、だからこそアーロンもそこまで強硬な態度に出られたのだ。

 エンリルは既に半分べそをかき始めており、泣き喚きたいのを堪えながら、むきになってまたアーロンの皿に移す。

 エンリルは決して食が細いわけではないし、特定の食べ物を体が受け付けないわけでもない。単に生野菜の苦みや、この肉の味付けが嫌いなだけなのだ。それが分かっているから、アーロンも容赦しなかった。

「好き嫌いせずに食べなさい。こうして食卓にのぼる食べ物が、皆、人々の税で賄われているんですよ。それに、どんなものでも食べられるようにしておかなければ、将来どこで誰と食事を共にするか、分からないんですからね」

「半分は食べたんだから、いいじゃない!」

 エンリルはほとんど金切り声で抗議する。

「半分食べられたのなら、残り半分も食べられるはずです。後で空腹になっても、お菓子や果物は差し上げませんよ」

「アーロンの馬鹿ぁっ!」

 うわぁん、とついにエンリルが泣き出す。座の大人たちは顔を見合わせ、苦笑した。

「そのぐらいで良いではないか、アーロン。エンリルも努力はしておるのだから」

 オローセスがなだめようと口を挟んだ。アーロンはじろりとそれを睨みつける。

「努力? 嫌いなものを残しておいて、あとでこっそり甘味をつまみ食いすることが、努力だと仰せられるのですか、陛下。だいたい、陛下は何につけ殿下に甘すぎます!」

 矛先を向けられて、オローセスは困ったようなおどけ顔でごまかした。その間もエンリルは、足をばたばたさせて泣いている。アーロンはそれをおとなしくさせようとしたが、

「大っ嫌いだーっ!」

 悪態と共に食べ残しの乗った皿を顔面に投げ付けられ、堪忍袋の緒が切れた。やんぬるかな、彼だってまだ十五の少年なのだ。八つの子供にこんな扱いをされて、いつまでも耐え続けろという方が無体である。

「この……っ!」

 絨毯に座っての食事であるため、隣の者と取っ組み合いになるのもあっという間。慌てて大人たちが二人を引き離しにかかった時には、辺りに皿や杯がひっくりかえり、残飯や肉汁が飛び散っていた。アーロンは顔をひっかかれ腕に噛み付かれながらも、エンリルの両頬にびんたをくらわす。加減するだけの自制心は辛うじて残っているが、それもあとちょっとで吹っ飛びそうだ。

「いい加減にしないか!」

 オローセスの一喝が壁を震わせ、二人はようやく攻撃の手を止めた。そして大人たちに押さえられたまま、揃ってしゅんとうなだれたのだった。


 牢獄ではないが、兵舎の反省房も似たようなものだった。人一人横たわるのがやっとの狭い部屋に、毛布一枚と、隅に便器代わりの壷があるだけ。手枷足枷こそないものの、広さだけで言えば牢獄の方がましなほどだ。

 当然、私物は一切持ち込み禁止。アーロンは本を読むこともできず、むっつりしたまま壁を睨んで無為に過ごすはめになった。

 二日後の朝にアーロンを出してくれた顔見知りの兵士は、苦笑しながら、エンリル様も自分の部屋に閉じ込められていたようだ、と教えてくれた。

 閉じ込められていたと言っても、それなら充分広いではないか――などとアーロンは、いまさらながら不公平感を抱いた。もちろん相手は王太子殿下で、こちらはただの守役である。しかも辺境の小貴族の次男坊では、何の力もありはしない。当然の差別だ。

 陰鬱なため息をひとつついて、彼はとぼとぼと自分の部屋に戻った。

 それからとりあえず、お呼びがかかるまでに、反省房で冷えてコチコチに固まった体をほぐしておこうと、軽く柔軟体操を始める。守役から外されてしまうのではないか、という不安をごまかすためでもあった。

 しばらくして体が温まった頃、不意に幼い声が名を呼んだ。

「アーロン」

 おずおずとした声音に、アーロンは驚いて振り返る。と、エンリルがこっそり、入り口から中を窺っていた。

「殿下! どうしたんです、おひとりで」

 アーロンが呆気に取られていると、エンリルはとことこと入ってきた。両手を後ろに隠して、もじもじしている。アーロンが片膝をついて目線を合わせると、エンリルは

「ごめんなさい」

 と首だけぺこりと下げて、しおらしく謝った。

「父上にもいっぱい叱られたんだ。本当は僕がお皿を投げたのが悪かったのに、アーロンの方が厳しい罰を受けるんだね。……反省房って、あんなに寒くて狭いなんて思わなかった。二日もいて、大丈夫だった?」

「兵舎を見てきたんですか? ええ、確かに寒くて狭いですが、二日ぐらいならどうってことはありませんよ」

「本当にごめん。もう僕の守役なんか、嫌になった?」

 泣き出しそうな顔で訊かれ、アーロンは思わず苦笑した。

「まさか。殿下に追い出されない限りは、お側におりますよ」

「良かったぁ!」

 途端にエンリルは、ぱぁっと輝くばかりの笑顔になった。その純粋無垢な表情の愛くるしいことと言ったら、目がくらむほどだ。

(ああ、これだから陛下も甘くなるんだろうな)

 参ったなぁ、などとアーロンは頭を掻き、無理に唇を引き結んだ。でなければ、馬鹿みたいに相好を崩してしまいそうだったから。

「じゃあ、仲直りだね。はい!」

 エンリルは心底嬉しそうに、背中に隠し持っていた花を差し出した。チューリップやバラ、赤いケシなどが、統一性のない花束になっている。

 差し出されたのが王宮の女官などであれば、黄色い声を上げてすっかりめろめろになっているところだ。実際、気難しく激しやすいと評判のアルデュス卿さえ、この笑顔で籠絡してしまったのだから、末恐ろしい。

 アーロンは自分もその仲間入りをしないよう、感情を抑えて花を受け取ると、空いた手で仲直りの握手を交わした。にやけてしまわないよう、真面目な顔を保って。

 ――そう、ここで降伏するわけにはいかない。厳しく出来る人間は絶対に必要なのだ。

「殿下」

「なに?」

「この花、どこから取って来られたんですか?」

「え? えーっとね……」

 すばやく手を離し、じりじりと後ずさりを始めるエンリル。アーロンは半眼になり、ゆっくり立ち上がった。既にエンリルは部屋の半ばまで後退し、ちらちらと出入り口までの距離を目ではかっている。

「園丁が丹精している花壇の花を、むやみやたらとむしってはいけません、と、前にも確か言いましたね……?」

「だ、だってほかに、仲直りのしるし、思いつかなかったんだもん!」

 それだけ言うと、エンリルはぴゅっと部屋から逃げ出して行った。アーロンは手に残された花をちらりと見ると、それを水差しに突っ込んで、子犬のように走り去るエンリルを追跡しにかかったのだった。


     *


 そうこうして、時は流れ――

「まったく、そなたときたら、なぜそう真面目くさった顔ばかりしているのだ? 無理して愛想良くしろと言っているのではない。ただ、嬉しいならもっとそれらしい顔をしてくれたら、こちらも喜ばせ甲斐があるというのに」

 ぷうっと膨れたエンリルを尻目に、アーロンは新しく図書館に入った書物の目録を眺めている。ついさっき、エンリルがもったいぶってわざわざ部屋まで持って来たのだ。

 もうとっくに二人の関係は守役と泣き虫な子供ではなく、一人の軍人と王太子になっていたが、それでもエンリルは事あるごとにアーロンの所へやって来る。

「俺はいつでも真面目なだけです」

 すげなくあしらいつつ、アーロンは心中でこっそりぼやいた。誰のせいでこうなったと思ってるんですか、と。

 生来の気質という要因を無視してそんなことを考えつつ、ちらりとエンリルを見やる。彼はアーロンの反応を待って、わくわくと楽しそうにこちらを見つめていた。

「どうだ、嬉しいか?」

 そう訊かれては、アーロンも苦笑するしかない。ええ、と頷いたアーロンに、エンリルは昔のように満面の笑みを見せた。それにつられるように、アーロンも口の端に抑制のきいた笑みを浮かべた。長年の修行の賜物である。

(とはいえ……)

 表情についてはともかく、結局のところ今でもこうしてエンリルと距離を置けずにいるのは、要するに自分も、とうに降伏していた証拠なのかも知れない。

(これでは俺も、陛下をとやかく言えぬな)

 エンリルが横から一緒に目録を覗き込んで、あれこれと説明を始める。彼に気付かれないよう、アーロンはごくごく小さく、こっそりとため息をついたのだった。



(終)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ