領主様は猫がお好き
ややパラレル気味ですが、ゾピュロスの昔話。
ニーサが『薔薇と猫の都』と呼ばれるゆえんについて。
ニーサ港は今日も多くの船で賑わい、活況を呈している。波止場の近くに並ぶ市場では近所の主婦たちがおしゃべりに興じ、ついでのように買い物もすませていた。
本日の話題はどうやら、彼女らの住む町を治める無愛想な領主様のことであるらしい。無口で無表情で威圧感のある外見であるから、決して親しみやすい領主ではないが、不正を行わず貧しい者にも平等に正義を行うその態度は、それなりの人気を博していた。
「そうそう! この間、領主様が猫を抱いてらっしゃるのを見たのよ!」
「ウソぉ!? 人違いじゃないの?」
「そんなことないわよ、あの方実はかなりの猫好きだって話、こないだ××通りの○△□さんから聞いたんだけど……」
「あー、それそれ、その話! シーリーン様から伺った話だから確実、って得意げに聞かせてくれるのよねぇ」
……そしてそこから○△□さんとやらの人物評になったりして、彼女らのおしゃべりはまた途方もなく広がっていく。
だがその話をつなぎ合わせてみると、「シーリーン様から伺った話」というのは、概ね次のような内容であった。
海の民の襲撃からようようティリスが立ち直り始めた頃、久しぶりに王都からの船がニーサの港に着いた。積み下ろしする荷は互いに足りない物資を補うためのものであって、嗜好品や贅沢品とは無縁であったが、しかしそれは、再び日常が戻ってくるという象徴でもあった。
住民は喜びと期待にあふれて港に集まり、先日やっと二十歳になったばかりの若い領主ゾピュロスもまた、監督についていた。
作業が一段落つき、ゾピュロスが領主館に戻ろうかと踵を返した時だった。
ほとほと、と、やけに軽い足音が渡し板を降りてきた。ゾピュロスは目をしばたたかせ、くるりと再び向きを変える。と、その隻眼が金色の双眸とでくわした。
「……密航者か」
つぶやいた彼の前で、黒猫がうんと伸びをして、なぁん、と鳴いた。何かを期待するような目で見つめられ、ゾピュロスは無言で立ち尽くす。とはいえ食べ物を持っているでもないので、結局彼は見なかったふりで背を向けた。
規則正しい革靴の足音が、桟橋をダンダンダンと進む。その後から、ほとほとほと、と軽い足音。ゾピュロスは眉間に困惑の気配をわずかに漂わせ、足を止めて振り返った。
「な?」
黒猫は首を傾げてこちらを見上げていた。
「…………」
再び歩き出す。やはり猫もついてくる。ゾピュロスは諦めて、無視を決め込んだ。
が、少し行って彼はふと立ち止まった。足音がついてこない。どこかへ行ったのか、と思わず小さな姿を探してしまう。
猫は、市場の屋台の前で行儀良くおすわりしていた。もちろん鮮魚の店である。主婦の注文に応じてさばいたり焼いたりもしてくれるので、いい匂いが漂っていた。
黒猫は屋台に飛び上がって魚を強奪したりはしなかったが、そのかわり、じっと座って動きそうにない。ゾピュロスは小さなため息をつき、猫のそばに歩いていった。
「そこは魚屋だ」
売り物であって配給所ではない、と諭すように、ぼそりと言う。黒猫は、わかっている、とでも言うように、ぱたりと尻尾を振って地面を叩いた。ぱたん、ぱたり。
「……欲しいのか?」
「なぁ」
いいタイミングで返事をした猫に、屋台の主が失笑した。そして、しょうがねぇなぁ、などと苦笑しながら小さな雑魚を取ってうろこを取り、火であぶりはじめる。
じきに黒猫はこんがりと焼けた小魚にありつき、はぐはぐぺちゃぺちゃと音を立てて食べ始めた。
すまんな、となぜか謝った領主に、魚屋は少し驚いた顔をして、それから「構やしませんよ」と笑ったのだった。
魚を食べ終わると黒猫はちょっと毛繕いをし、それからまたゾピュロスを見上げて目をぱちくりさせた。どこか悪戯っぽい、愛嬌のある表情だ。
ゾピュロスが歩き出すと、黒猫もついて歩き出す。といっても犬のように脚にじゃれつくでもなく、たまたま方向が一緒なだけだとでも言いたげな、すました足取りだ。
そうして少し歩くと、また猫が足を止めた。今度は何だ、とゾピュロスは振り返り、猫が広場の噴水を見上げていることに気が付いた。やれやれと彼は猫のところまで戻り、両手に水をすくって飲ませてやった。
ぴちゃぴちゃと猫が小さな舌で水を飲んでいる間、ただじっと待っているのも芸がないような落ち着かないような気がして、ゾピュロスは独り言のように呟いた。
「この広場はニーサではかなり古いものだ。もともとは噴水などはなかったが、私の曽祖父が作らせたそうだ。この像も当時では名の売れた彫刻家が作ったらしい」
獅子の体をもつ鷹の姿を眺め、ゾピュロスは物思いに耽った。元はもっと美しかったのだろうが、金箔は剥がされ、翼や尾は打ち壊されている。海の民の襲撃による混乱で、多くの美術品が毀たれ、失われた。今も人々の心に芸術を愛でる余裕はない。
(以前のように戻るまで、どれほどの時間がかかるか……)
そんなことを考え、ふと、水音がしないことに気付いて目を下ろす。黒猫はもう水に満足したのか、毛繕いに入っていた。ゾピュロスが両手をほどいて水を捨てると、それが合図だったように、猫も毛繕いをやめてぴょこんと立ち上がった。
それからまた少し歩き、猫が止まるとゾピュロスも止まる。そして、猫が眺めているものについて一言二言説明する、そんな状態が続いた。
不思議と猫はゾピュロスの言葉を理解しているようで、説明を聞くと満足したようにまたほとほとと歩き出すのだ。ゾピュロスも次第にこの猫が面白くなって、次はどこで止まるのかと期待しながら街中を歩き続けた。
そうこうして領主館まで戻ってくると、黒猫は不意に、もうここでいい、というように「なぁん」と鳴いてくるりと踵を返した。
ゾピュロスは呆気に取られて見送るしかなかった。黒猫は振り返りもせず、慣れた町を行くかのように、すたすたと来た道を戻っていく。
その姿が小さくなって町並みの中に消えてしまうと、彼はわずかに首を傾げた。が、
「まぁ、猫とはそうしたものか」
一人納得すると、それきり猫のことは忘れて、日常の雑事に戻っていったのだった。
そんなことがあってしばらくの後、今度はゾピュロスが公用で王都に出向くことになった。王国としての機能が軌道に乗ったしるしであるから、それ自体は喜ばしいことである。の、だが。
久々に訪れた王都は、なにやら相当に様変わりしていた。そうでなくとも防御面から迷いやすい構造になっているのに、それがさらに記憶とは異なる状態になっていれば、結果はひとつ。
「……困った」
まったくそんな風には見えない無表情のまま、ゾピュロスはぽつりとこぼした。辺りにはまるで人気がなく、いまだ建物の瓦礫や建材がごろごろしている。見通しは悪く、似たような風景ばかり。つまり、彼は今まさに、道に迷っていた。
崩れた壁の残骸に腰を下ろし、周囲を見回してみるものの、現在地の見当はまるでつかない。バザールを抜けて近道しようとしたのがまずかったか、と彼は空を仰いだ。もう随分日は西に傾いている。このままでは町の中で野宿するはめになりかねない。
とりあえずもう少し歩くか、と彼は腰を上げ、さて、と行くべき方向を見定めようと首をめぐらせた――まさにその時だった。
「……なぁん……」
かすかに猫の鳴き声が聞こえ、彼はわずかに目を見開いた。そして、声のした方を振り返る。薄暗く、行く手は異世にでも消えていそうな路地に、これまた闇に溶けてしまいそうな黒猫が一匹、ひっそりと佇んでいた。
黒猫は金色の目でじっとゾピュロスを見つめ、それからくるりと背を向ける。ゾピュロスは束の間ためらったものの、すぐにそれについて歩き出した。どちらにせよ進むべきしるべを見つけられないのだし、もし飼い猫ならば飼い主の家に戻るところかも知れない。少なくとも、人がいるところへ連れて行ってくれるだろう。
黒猫は逃げる様子もなく、それどころか時々立ち止まって、ゾピュロスがついてきているのを確かめさえした。ゾピュロスは不思議に思いながらもついて歩き続けたが、しばらくしてはたと、以前ニーサの町を案内してやった黒猫を思い出した。
(まさか、あの時の猫か?)
だとしたら、またニーサから船で王都に戻ったのだろうか。そんな旅猫がいるものだろうか?
あれこれ考えている間にも、猫はさっさと進んでいく。やがて黒猫は、それまで歩いていた塀の上から、ひらりと向こう側に降りてしまった。取り残されたゾピュロスは慌てて塀に駆け寄ったものの、当然ながら何の助言も貰えない。
「………………」
どうしろと言うのか。彼は呆然とそこに立ち尽くした。見ると、下の方に、猫ならばするりと抜けられそうな穴がひとつ、ぽかりと開いている。
「これを通れというのは……無茶だぞ」
頭痛を覚えつつ、彼はぼやいた。煙にでも化けなければ通れるものではない。はあ、とため息をつくと、仕方なく彼は塀を見上げた。ゾピュロスはかなり長身の部類なのだが、塀はそれよりも頭ひとつ分、高くそびえていた。
しかし、回り道して向こう側に出られるとは、到底思われない。
「致し方あるまい」
日干し煉瓦だから手掛かりは充分にある。彼はもうひとつため息をつくと、狭い道の反対側から短い助走をつけて跳んだ。かろうじて上に手が届く。
わずかな出っ張りやへこみにつま先をひっかけ、崩れやすい日干し煉瓦の埃を浴びながら悪戦苦闘すること、しばし。
「……ふう」
ようやく塀の上に全身を引き上げることに成功し、彼は息をついて、ひとまずそこに座って落ち着いた。そして顔を上げ、額の汗を拭おうとして、そのまま驚きに息を呑む。
「――――!」
そこからは、ティリスの町が一望にできた。流石に王宮側は見えないが、ゆるやかな上り坂のてっぺんに位置しており、眼下には日干し煉瓦の家並みが絵画のように広がっていた。そのはるかに向こうには、ティリス湾の紺青が横たわり、茜色の陽光を浴びてきらめいていた。
風が、駆けてくる。
坂の下から、ナツメヤシの梢を揺らし、色とりどりのカーテンをはためかせて。最後にゾピュロスの頬を撫で、彼方の空へと飛び去っていく。
ずっと、ニーサに比べて無骨な町だと思っていた。そんな思いを、いともたやすく打ち砕いてしまうほどの、美しい景色だった。
ふと目をおろすと、近くの家の屋根で黒猫が同じように坂の下方を眺めていた。彼の視線に気付いた様子で振り返り、どうだ、というように目を細めて。
「なぁん」
得意げにひと鳴きした。ゾピュロスの口元に、知らず笑みが浮かぶ。と、
「ゾピュロス様!」
耳慣れた声が呼び、彼ははたと我に返って眼下を眺め渡した。坂の下から、ニーサの部下たちが駆け寄ってくる。息を切らせ、必死の形相で。
「そんなところで、何をやってらっしゃるんですか! いや、それより……今まで、どこに」
「お探ししたんですよ!」
口々にわいわい言う彼らを見下ろし、ゾピュロスはいつもの無表情でうなずいた。
「すまぬ、道に迷った。だが、良い景色を見つけたぞ」
手で示すと、部下たちも今しがた上って来た道を振り返り、驚きの声をあげた。だが黄昏の魔法は早くも消えかけており、じきに一人が振り向いて憤慨した。
「それは結構ですが、だからとて子供のように塀に登られることはないでしょう! 誰かに見られたらどうなさいます、さあ、早く降りてください」
「…………」
おや、とゾピュロスは片眉を上げたが、言い返さずにおとなしくすとんと降りた。向こう側から出てきたのだ、と言った所でたいした変わりはないし、言い訳するのも面倒だったのだ。
それから彼は、先刻まで黒猫がいた場所を仰ぎ見た。だがやはり、予想通りそこにはもう、尻尾の影さえ残っていなかった。
そんなわけだから、ニーサに戻ったゾピュロスの前に黒猫が現れた時も、彼はもう驚きはしなかった。いつもなら誰より先に夫を迎えに出てくる奥方が、猫の後からやって来る。小鹿のような目をした養女が、さらにその後ろから現れて、黒猫を抱き上げた。
「お父様、この子、迷い込んできたの。飼ってもいい?」
おずおずとそう問う少女の腕に抱かれ、黒猫の方はまったく泰然としている。くあぁ、とあくびまでしてのけた。シーリーンは慌てて「めっ」と叱る。
「一緒にお願いしなきゃだめでしょ!」
彼女は小声で耳打ちしたつもりらしいが、きれいに筒抜けである。奥方が笑いを堪えて口元に手を当て、悪戯っぽく夫に目配せした。ゾピュロスはしかつめらしく、ごほんと咳払いすると、おもむろに黒猫の頭を撫でた。
「うむ、良かろう。実のところ、この猫は私の友人なのだよ」
「えっ? お父様、猫のお友達がいらっしゃったの?」
驚くシーリーンに、「私も初耳ですわ」とおどけて口調を合わせる奥方。夫の気遣いだと思ったのだろう。ゾピュロスはあえてあれこれと説明はせず、黙ってうなずいたのだった。
「今の黒猫、何代目だったかしらね?」
「さぁ……でもまだ三代目ぐらいでしょ」
噂話に興じる主婦たちの足元を、縞模様の猫が通り過ぎていく。
「この町も猫が増えたわねぇ。おかげでネズミは少なくなったけど」
話に夢中でどんどん声高になる彼女たちが、少し離れた場所にいる人間になど気付くはずもなかった。当の領主様が、養女と一緒に彼女たちの話を聞いているなどとは。
「またゾピュロス様の猫好きが噂になってますわね」
くすくす笑いながらささやいたシーリーンに、ゾピュロスは、なんとも言えない妙な表情をする。それから、視界の端を横切った猫の姿を目で追いつつ、ぼそりと呟いた。
「別に、猫好きというわけではないのだが……」
その声音に、堪えきれずシーリーンが思いきりふきだした。隻眼で見下ろされ、あら失礼はしたない、と彼女はおどけて表情を取り繕う。目は笑ったままだ。
ゾピュロスは無言でしばし彼女を見下ろし、それから天を仰いだ。その視界にも、屋根の上でひなたぼっこしている猫の姿が映る。これでは言い訳のしようもない。
やれやれ、と彼はため息をつく。
それに和するように、どこかで猫がにゃぁんと鳴いた。
(終)




