折れた薔薇
本編の数年前。ゾピュロスとシーリーンの話。
領主の趣味は園芸です。
河口の町ニーサにあるアレイア領主の館に、その主が帰ってきたのは、何ヶ月ぶりのことだろうか。召使らが慌ただしく動き回っては、少しでもくつろいで貰おうとそれぞれの仕事に熱を入れている。
シーリーンも久しぶりに厨房に立ち、亡き奥方から習い覚えた菓子を焼いたりなどしていたが、さて焼き上がってみると、当のゾピュロスの姿がない。執務室には常のようにマルドニオスただ一人だ。
「お父様はどちらに?」
菓子の小皿と紅茶を運んできたシーリーンは、困り顔で盆を机に置く。マルドニオスは片方の眉を上げて、菓子をひとつつまんだ。
「放蕩領主に代わって執務に励む哀れな下僕に、心づくしの差し入れかと思いきや……やれやれ、私はお父上よりも年寄りなのですから、もう少し労って頂きたいものですな」
おどけて言ったマルドニオスに、シーリーンは失笑した。年寄りなどと言っても、せいぜい五つ六つ年長なだけだ。いまだ三十路半ばの若さであろうに。
笑われるとは心外だとばかりに、マルドニオスはわざとらしいため息をついたが、結局は肩を竦めて主の居所を教えてくれた。
「ゾピュロス卿でしたら、庭園にいらっしゃるでしょう」
「ありがとうございます。せっかく持って来ましたから、これはマルドニオス様に置いて行きますわね」
シーリーンは春風のような笑い声と菓子の盆をそこに残して、軽やかに立ち去る。その後ろ姿を見送り、マルドニオスは何を思ったか、やれやれと小さく首を振ったのだった。
領主館の庭園には、見事な薔薇が競うように咲き乱れていた。他の花もあることはあるが、圧倒的に薔薇が多い。ゾピュロスの趣味が高じた結果だ。
帝国崩壊の余波が去って治安が回復すると、彼は荒廃した庭園に薔薇を植え始めた。深紅から淡い緋色、黄金や白。そのどれもが、彼が自分で苗から育てたものだった。
今では留守がちな主に代わり、園丁が世話をしている。たまに帰ってきた主に、どの株が枯れました、などと恐ろしい報告をしなくてすむよう丹精込めて。
むせ返るような香りの中、シーリーンは背の高い養父の姿を探して歩いた。じきに、たぶんそうだろうと思った場所に、その人影を見付ける。彩り鮮やかな花の海の中、そこだけは絵の具がはげ落ちたかのような、黒い影。
シーリーンは声をかけないまま、そっと傍らに歩み寄る。
ゾピュロスの前にある薔薇には、何の色彩もなかった。みずみずしい葉の緑すらない。根元近くからぽっきりと折れ、そのまま立ち枯れた株だった。幾度か新しい枝が伸びかけはしたものの、それも力尽きた跡が見て取れる。
「……早いものだな」
ぽつりとゾピュロスがつぶやいた。シーリーンはうなずき、ささやきを返す。
「もう、四年になります」
私も十八になりました、と心の中で付け足して、彼女は養父の厳しい横顔を見上げた。元から表情豊かな性質ではなかったが、その口元がほころぶことすら稀になったのは、やはりこれも四年前からだ。
領主の不在を狙って、盗賊集団が不遜にも館を襲撃し、奥方がその凶刃に倒れた日。奥方との結婚を記念して植えたこの白薔薇も、同じ日に踏みにじられた。
当時、知らせを受けて馳せ戻ったゾピュロスは、息つく間もなく野盗狩りに乗り出し、情け容赦のないやり方で彼らを殲滅していった。投降した者さえも牢につなぎ、劣悪な環境での重労働を強いたのだ。
あまりの苛烈さに恐れをなした家臣たちが諫めた時、ゾピュロスは彼らを蔑むように一瞥して、妻の薔薇が再び花を咲かせたならば恩赦を下す、と言った。しかしついに花が咲くことはなく、またこの薔薇が完全に枯れるまで生きていた賊もいなかった。
あれから四年。
シーリーンは時に、ゾピュロス自身の心も枯れ果ててしまったのではないか、と不安に駆られることがある。黒い喪の色を必ず身につけ、再婚を考える様子もまるでない。その身を包んでいた氷刃の如き気配は既にないものの、代わりに乾いた虚無を漂わせている。
シーリーンは口を開きかけ、閉じ、目を伏せた。黒く長い睫がけぶるような影を作る。高地系の血を引いていた奥方とは、まるで似ていない。
(私では、代わりになどなれない)
何度も頭の中で繰り返してきた言葉を、いまさらのように実感する。ゾピュロスの心に刻まれた傷を少しでも癒せたら――だがそれは、養女としても、一人の娘としても、叶えられぬ願いであるようだ。
彼女がそっとため息をついた時、ガタゴトと無遠慮な車輪の音が近付き、その場の空気をかき乱した。顔を上げ、誰かと振り向いたシーリーンは目を丸くした。
園丁だ。何を考えてか、手押し車に新しい薔薇の苗木を載せて、やって来る。シーリーンは身を固くして、恐る恐る養父の顔色を窺った。
「……?」
彼は穏やかなまなざしで、新しい苗木を見ていた。シーリーンは目をしばたたかせ、肩の力を抜いて、園丁と養父を交互に眺める。
二人の男は、何も言わないまま作業を始めた。
ゾピュロスが、枯れた薔薇をそっと掘り起こす。既に根も大半失われており、薔薇はまるで自ら身を休めるかのように、彼の手にすんなりと従った。園丁が新しい苗のために、土を整える。それが済むと、ゾピュロスが苗木を丁寧に植えた。
手押し車に枯れた薔薇を積み、園丁が深々と一礼する。ゾピュロスも、黙って小さくうなずいた。園丁が背を向けた時、シーリーンの目に思いがけず涙が浮かんだ。
奥方は、彼女にとっては養母というよりも、年の離れた姉のような存在だった。それが今、とうとう過去の存在になってしまったのだ。癒えたはずの悲しみが胸を締めつける。
せめてもの思いをこめて、シーリーンは小さな手押し車が薔薇の生け垣の向こうに消えるまで、じっと見送っていた。
園丁の姿が見えなくなると、ゾピュロスがそっとつぶやくように言った。
「良い苗を見付けたのでな。もう、あれにも休ませてやるべきだと……不意に、そう思ったのだ。そなたには何の相談もせず、すまなんだ」
その声に、温かな思いやりがこもっている。シーリーンは涙を拭って首を振り、唇を開きかけたが、息が震えて言葉を飲み込んだ。
どう言えば良いのかも分からなかった。
切ない喪失感と同時に、ごまかしようのない喜びが込み上げる。ようやくゾピュロスの時間が、また動き始めた。過去を過去として、自分の立っている場所はもうそこではないと、やっとそう認めてくれたのだ。
奥方の面影が脳裏をよぎると、罪悪感がちくりと胸を刺す。だが彼女は、それに囚われるつもりはなかった。
顔を上げ、出来る限りの良い笑顔を作って見せる。
「お菓子を焼いたんです。お茶にしましょう」
「……うむ」
つられるように、ゾピュロスも微かな笑みを浮かべた。手についた土を払い、最後にもう一度、新しい苗木を満足げに見やる。シーリーンは先に歩きだしたが、数歩進んで不意に足を止め、くるりと向き直った。
「ゾピュロス様」
名前で呼びかけられ、ゾピュロスは驚いて振り返る。その表情を見て、シーリーンは可笑しそうに小首を傾げて笑った。
「これからはもう、お父様とお呼びするのはやめます。もちろん、敬意を失ったわけではありませんけれど。先に戻ってお茶を用意していますから、居間に来て下さいね」
それだけ言うと、シーリーンは柔らかな絹の上着を風に踊らせるようにして、ふわりと館に駆け戻って行く。ゾピュロスは半ば呆気に取られたまま、それを見送っていた。
父と呼べば、かつて母と呼んだ人を思い出すから――と、そういう理由なのだろう。自分が折れた薔薇を植え替えたように、彼女も何か、けじめをつけたのに違いない。
そんな風に考えられはしたものの、さて、それが正しいか否かとなると、自信がない。
「……男親とは情けないものだな」
人に聞かれぬのを良いことにそう独りごち、彼はちょっと頭を掻いた。それから、なんとなく憮然とした顔で、晴れ渡った空を仰ぐ。
将来について何か予感したというわけでもなかったが、彼はしばらくそのまま、天からの助言を求めるかのように、じっと立ち尽くしていたのだった。
(終)




