かくも平穏な日々
一部と二部の間、ほのぼの。
内乱終結後しばらくしたある日のこと。カワードとアーロンは、たまたま中庭でばったり出くわした。昼食の後で本を読んでいたアーロンは、何やら食べながら歩いてきたカワードに、迷惑そうな顔を向ける。
その邪険な態度に、カワードがもぐもぐやりながら抗議した。
「何も、おぬしの頭にパン屑を落としておるわけでもなかろうが」
アーロンは答えず、また本に目を落とす。カワードは口をへの字に曲げて、その場に立ち尽くした。足元で、王宮に巣くっている鳥がパン屑をついばんでいる。なんとなくそれを眺めていたカワードは、ふとある考えを抱いた。
「なあ」
「知りたいことがあるなら図書館で調べろ」
すげないアーロンの返事を背中で聞きながら、カワードは鳥の群れに一歩近づいた。慌てて数羽が小走りに遠ざかり、またこつこつと地面をつつきはじめる。もう一歩、今度は大きく踏み込んだが、鳥たちは走るか、ほんの束の間はばたいただけで、一羽も飛び去ろうとはしない。
「カゼスも飛べるのだよな」
「それがどうした」
「だが普段はこの鳥どもと同じで、歩いておるよな」
そこまで言うと、やっとアーロンは顔を上げてカワードを見た。
「……何が言いたい?」
「気にならぬか? どの程度の状況で飛ぶものなのか」
さすがにアーロンは妙な顔をした。その視線を受けて、カワードは「いや、だからな」と説明をする。
「この鳥どもも、王宮におるとすっかり警戒心をなくして、飛び方を忘れておるのではないかと思うほどだ。カゼスも然りだ。魔術が使えても、使うべき時を察知できぬのであれば、あまり役には立つまい? そういうことになっておらぬか心配でな」
「それがおぬしの本心とは、信じかねるな」
アーロンは言い、パタンと読みかけの本を閉じた。が、カワードを見上げた鳶色の目には、面白そうな色が浮かんでいる。
「だが、確かに興味はある」
「だろう?」
カワードはにんまりし、なにやらアーロンと相談を始めた。
その翌日。
「カゼス、ちょうど良かった」
アーロンに呼び止められ、手ぶらで歩いていたカゼスはきょとんとなった。
「何かご用ですか?」
「たいしたことではないが……今、時間は空いているのか?」
問われて「はい」とカゼスがうなずくと、アーロンは一通の封書をカゼスに見せた。
「これをカワードに渡しては貰えぬだろうか。俺からとは言わずに」
「いいですけど……」
どうして自分で、あるいは誰か従士や召使に言って届けさせないのか? 訊いても良いのかどうか、遠慮がちに目で問いかけるカゼスに、アーロンは微苦笑した。
「なに、ゆうべつまらぬことで口論になってな。だが職務上どうしても、早急に見て貰わねばならぬものがあるのだ。俺が渡しに行ってもまた蒸し返すことになってはいかんし、他の者では安心して預けられぬのだ。ラウシール殿に使い走りをさせて恐縮だが」
「あ、いえ、それは全然構いませんよ。分かりました、じゃ、カワードさんに渡して来ますね。どこにいるか見当つきます?」
快くカゼスは封書を受け取り、そう尋ねる。たぶん教練場だろう、という答えに、カゼスはとことこ急ぎ足にそちらへ向かった。
もちろん、その後ろ姿をアーロンが興味深げに観察しているとは、気付きもせず。
広い教練場の隅で、何やら準備体操をしているもさもさ頭の人影をみつけ、カゼスは小走りにそちらへ走って行った。まさかラウシール様が、子供のように大声で呼ばわるわけにもいかない。
「カワードさーん」
もう声が届くだろうという距離まで来ると、カゼスは目当ての人物を呼んだ。が、聞こえなかったのか、カワードは走りだす気配を見せた。
「あの、カワードさん!」
少し声を大きくしたが、無駄だった。カワードは教練場の反対側に向かって、巨体に似合わぬ軽快な足取りで走りだしたのだ。慌ててカゼスも後を追ったが、当然ながら追いつけるはずもない。
カワードの足取りは長距離向けのようだったから、カゼスが全力疾走すれば追いつくだけは追いつけそうな気もしたが、その事に考え至ったのは、かなり息が苦しくなってしまった後だった。呼び止めようにも、もう声を張り上げる余力がない。
へはへは言いながら、結局カゼスは教練場の反対の端まで走ってしまった。
「カワード、さ、待っ、て」
方向転換しようとしているカワードに、どうにかそう声をかける。そのまま教練場の縁を一周するかに見えたカワードは、ようやくカゼスに気が付いて足を止めた。
「おいおい、何事だ? 大丈夫か」
呆れ声で言ったカワードに、カゼスは答えることも出来ず、手で「ちょっと待って」と頼むとその場にしゃがみこんで息を整えた。顔を真っ赤にして息切れしているカゼスを、カワードはなんとか笑いをかみ殺しつつ見下ろす。
ようやくカゼスが立ち直ると、カワードは「で、何の用だ?」と訊いた。
「これ、見て下さい」
まだ肩で息をしながら、封書を差し出す。カワードは「恋文か?」とにやにや笑いながら茶化したが、カゼスは苦笑して首を振っただけだった。
手の甲で額の汗を拭いているカゼスを横目で見ながら、カワードは封書を開け、中身に目を通した。そして、見る間に怒りの形相になる。
「あの野郎、こんなくだらんことの為にわざわざラウシール殿を寄越すとは、厭味のつもりか? クソ、もう我慢ならん! 今日という今日は思い知らせてやる!」
ぐしゃっと手紙を握り潰すと、カワードは猛然と王宮の方に走りだした。取り残されたカゼスは、何が起こったのかと目をぱちくりさせてしばらくぽかんとし、
「大変だ」
やっと気が付くと、無意味に辺りをきょろきょろしてから……また、走りだした。
アーロンの私室にたどり着いた時には、カゼスはすでにへろへろになっていた。歩いているのか走っているのか、それとも酔って千鳥足になっているのかもわからない有り様。
中から怒鳴り声や取っ組み合いの騒音が聞こえないので、カゼスはひとまずホッとしたものの、不安になっておそるおそるカーテンをくぐった。
「大丈夫か、カゼス。そら、水だ」
冷たい水の入ったコップを差し出され、カゼスは驚いて声の主を振り返った。アーロンだ。喧嘩をした様子は見られない。あれ、と訝しみながらも、カゼスは水を一息に飲み干した。ようやく人心地がついて深い息をつくと同時に、
「なんだかなー、せめて喧嘩を止める時ぐらい、魔術で追いかけてくりゃいいだろうに」
憮然とした声が言い、カゼスは目を丸くした。続き部屋の奥からカワードがぶらぶら出て来たのだ。カゼスが口をパクパクさせていると、アーロンが堪えきれずに失笑した。
「賭けは俺の勝ちだな」
「へいへい。俺の読みが甘かったよ」
カワードが銀貨をアーロンに投げてよこす。そのやりとりを見るうちに、カゼスは嫌な予感がして顔を引きつらせた。
「どういうことか、説明して貰えるんでしょうね?」
なるべく不吉な響きを持たせたつもりだったが、男どもにはまるで脅しにならないようだった。二人は笑い出しそうな顔で視線を交わし、クッションを集めて「まあ、座れ」などと呑気に言った。
そうして自分が走り回ることになった理由を聞かされると、カゼスはどっと脱力して絨毯の上にのびてしまった。
「なんなんですか、もう……そんなことの為に、走り回って、ああもう」
情けなくて怒る気にもなれない。飛べば早いと気付かなかった自分にも、泣けてくる。
「すまんすまん。ちょっとした悪戯心だよ、悪気はなかったんだって。これでも食って機嫌を直せよ、な」
苦笑しながらカワードが、木の実の皿を差し出す。カゼスは恨めしそうに睨んだが、いつまでも文句を言うのも良くないかと思い直し、木の実をつまんで口に入れた。それが今まで一度も食卓で見たことのない実だった、と気付いたのは、口の中でそれを噛み潰した後だった。
「――――!」
弾かれたようにカゼスは立ち上がり、両手で口を押さえて涙目で二人を交互に睨む。アーロンは空の水差しを逆さに振って見せ、カワードはおどけて明後日の方を向いた。
次の瞬間、二人は突風に吹っ飛ばされ、同時にカゼスの姿は消え失せていた。
しばらく室内は動くものひとつなく、シンと静まり返る。ややあって、クッションごと壁際まで転がされたカワードが、小さくふきだした。
続いてアーロンが、頭をさすりながら起き上がる。二人はちらっと視線を交わすと、わっと弾けるように笑い出した。
大の男二人がげらげら笑いこけている頃、カゼスは井戸のところでベソをかきながら、浴びるように水を飲んでいた。
覚えてろ、などと小声で毒づいたが、その情けない姿からは、報復の日が来るとはとても考えられず――事実カゼスは、結局その機会をつかむことが出来なかったのだった。
(終)