妹が新しい聖女になったので、王宮薬草園も譲れと言われました――「水さえやれば育つ」そう仰ったのは皆様です
# 妹が新しい聖女になったので、王宮薬草園も譲れと言われました――「水さえやれば育つ」そう仰ったのは皆様です
「王宮薬草園を、エレノアに譲ってほしい」
父にそう告げられたのは、妹が新しい聖女に選ばれた翌朝だった。
食堂には父と母、妹のエレノア、そして私の婚約者である第二王子ユリウス殿下が揃っていた。
「聖女は治癒院を預かる身だ。薬草園も聖女が管理する方が、何かと都合がよい」
「お姉様には悪いと思っています」
エレノアは申し訳なさそうに睫毛を伏せた。
「でも、治癒の力を授かった私が薬草まで育てれば、もっと多くの方を救えますでしょう?」
「そうね」
「リゼット。君は物分かりのよい女性だ」
ユリウス殿下が優しく微笑んだ。
「それに、土を掘ったり帳面をつけたりする仕事は、王子妃となる君には似つかわしくない。これを機に、淑女としての務めに専念するといい」
私は返事をせず、窓の外を見た。
春の雨が降っていた。
薬草園では、夜番の庭師たちが排水溝を開いている頃だろう。東区画の銀露草は根腐れしやすい。南の斜面には昨日、石灰を追加するよう伝えてある。
「管理を譲るというのは、どこまででしょうか」
私が尋ねると、父は用意していた書類を差し出した。
「土地、建物、道具、雇用中の庭師、薬草の出荷契約。そのすべてだ」
「私が個人で作成した栽培記録と種子台帳は?」
「もちろん置いていきなさい」
母が呆れたように言った。
「新しい管理者が困るでしょう。家族なのだから、意地悪をしてはいけませんよ」
「困りませんわ、お母様」
エレノアは明るく笑った。
「植物ですもの。水と光があれば育ちます。お姉様は少し、物事を難しく考えすぎるのです」
「そうかもしれないわね」
私は書類を最初から最後まで読んだ。
薬草園管理長の職を本日付で解くこと。設備と雇用契約を新管理者へ移すこと。引き継ぎ期間は三日。栽培記録や研究成果の譲渡については、何も書かれていなかった。
「分かりました。王宮薬草園はエレノアにお譲りします」
四人の顔が一斉にほころんだ。
「ただし、私の私物は持ち出します」
「私物?」
「はい。契約書に記載がないものです」
父は面倒そうに手を振った。
「好きにしなさい。園の物に手をつけなければ構わん」
「承知いたしました」
私は署名した。
三日後、私は王宮薬草園を去った。
持ち出したのは、私費で買った鞄が三つ。
一つ目には、十二年間つけ続けた栽培日誌。
二つ目には、国内二十七か所の土壌と気候を記した調査帳。
三つ目には、私の名で取得した七種類の新品種登録証と、種苗商会との共同研究契約書が入っていた。
薬草園に残したのは、土地と建物と道具。それから、現在育っている薬草だった。
庭師たちは全員、王家との雇用契約を継続できる。私は一人ずつに礼を述べた。
「本当に行ってしまわれるのですか」
老庭師のボリスが声を震わせた。
「ええ。新しい管理長には、新しいやり方があるそうよ」
「せめて、銀露草の雨季の配合だけでも」
「引き継ぎ書に書きました。毎朝、葉裏の斑点を確認すること。変色が出た場合は過去の栽培記録を参照すること、と」
「その記録を、お嬢様はお持ちになるのでしょう」
「私が書いたものだから」
ボリスは黙り込み、やがて深々と頭を下げた。
「長い間、お疲れさまでございました」
「あなたもね」
最後に温室を振り返った。
十二年前、母が大病を患った時、国内では治療に必要な月白花が不足していた。輸入品は高く、到着までに傷む。十四歳だった私は、母を救いたい一心で栽培を始めた。
最初の三年は、一輪も咲かなかった。
四年目に初めて花が咲き、六年目には治癒院で使える量になった。八年目には銀露草、九年目には熱冷ましの青鈴葉を安定供給できるようになった。
母は回復したが、土にまみれていた頃のことなど、もう覚えていないらしい。
私は王都を出た。
向かったのは北方のルーベル領だった。
国境に近い、小さく貧しい土地である。領主のマティアス辺境伯は、以前から薬草園の共同研究に資金を出してくれていた。
「本当に来てくれたのか」
城門で私を出迎えた彼は、泥の跳ねた外套を着ていた。領内の堤防を見回っていたという。
「婚約まで解消して?」
「まだ解消はしておりません」
「それは困ったな」
「なぜです?」
「あなたに求婚できない」
冗談だと思って見上げると、マティアス様は少しも笑っていなかった。
「順番は守る。まず仕事の話をしよう」
案内された先には、建てたばかりの温室が三棟並んでいた。
「あなたの設計図どおりだ。研究棟と乾燥庫も用意した。土地は好きなだけ使ってくれ」
「こんなに早く……」
「二年前から誘っていただろう。王都を離れる日が来れば、受け入れると」
二年前、北方で熱病が流行した。王宮薬草園から薬を送ろうとしたが、ユリウス殿下は輸送費が高すぎると許可しなかった。
私はマティアス様に種と栽培方法を渡した。彼は冬でも育つ小さな温室を造り、自領で薬を確保した。
それ以来、私たちは手紙で研究結果を共有していた。
「ただし、ここで作った薬草は、まず領民に使います」
「もちろんだ。そのためにあなたを呼んだ」
「利益が出るまで数年かかります」
「数年で済むのか。ありがたい」
「失敗するかもしれません」
「失敗したら原因を記録して、次を試すのだろう?」
あまりに当然のように言われて、私は返事ができなかった。
王都では、失敗した畑を見せるたびに「才能がない」と笑われた。
成功した後は「植物に水をやっただけ」と言われた。
「リゼット?」
「……はい。次を試します」
私はルーベル領の薬草研究所長になった。
王宮から最初の手紙が届いたのは、一か月後だった。
『銀露草の葉に黒い斑点が出た。対処法を知らせよ』
差出人は新管理長エレノア。
私は引き継ぎ書と同じ内容を返した。
『過去の栽培記録を参照してください』
三日後、再び手紙が来た。
『その記録が見つからない。どこに置いたの?』
『私が個人で作成した記録は、契約書に基づき持ち出しました』
『家族なのだから、写しを送ってくれてもいいでしょう』
『共同研究先との守秘義務があるため、お送りできません』
それから返事はなかった。
銀露草は全滅した。
原因は水のやりすぎだった。葉の斑点を病気だと思ったエレノアが、治癒の祈りを捧げながら毎日大量の聖水をまいたらしい。
薬草園の地下には王都特有の粘土層がある。雨季は排水を調整しなければならない。
引き継ぎ書には書いた。
だがエレノアは「水を減らすなんて可哀想」と庭師の進言を退けたという。
二か月目には月白花が咲かなかった。
三か月目、青鈴葉に害虫が広がった。
庭師たちは対策を知っていたが、エレノアは聖女の祈りを疑うのかと叱責した。耐えかねたボリスをはじめ、七人の庭師が辞職した。
そして夏、王都で熱病が流行した。
王宮治癒院には、薬がなかった。
エレノアの治癒魔法は傷を塞ぐことはできても、熱病を治すことはできない。一日に癒やせる人数にも限りがある。
王家は各地の薬草商会に緊急供給を命じた。
商会は応じなかった。
私との契約が残っていたからだ。
七種類の薬草は、私が品種登録者である。無断で種を増やし販売することはできない。商会が私と結んだ優先供給契約では、第一供給先をルーベル領と周辺三領としていた。
王都への供給を禁じてはいない。ただし、余剰分に限る。
余剰はなかった。
マティアス様は領内備蓄を開放し、北方の患者へ無償で薬を配った。
王都から使者が来たのは、その翌日だった。
ユリウス殿下は旅装のまま研究所へ現れた。
「リゼット。すぐに王都へ戻れ」
「お断りいたします」
「これは王命だ」
「でしたら、正式な命令書を拝見いたします」
殿下は紙を差し出した。
王宮薬草園の管理長に私を再任すること。すべての栽培記録を王家へ提出すること。王都の流行が収束するまで、無償で職務にあたること。
「署名がございません」
「父上は療養中だ。私の命令で十分だろう」
「国王陛下の署名も、宰相印もない。命令書として無効です」
「人が死んでいるんだぞ!」
「存じております」
「ならば、なぜ助けない!」
私は殿下の後ろに並ぶ荷馬車を指した。
「すでに薬を用意しております」
荷台には、乾燥させた青鈴葉と月白花が積まれていた。
殿下の顔が明るくなる。
「そうか。やはり君なら――」
「代金はこちらです」
私は見積書を渡した。
殿下の顔から笑みが消えた。
「平時の四倍ではないか」
「緊急増産の人件費、北方三領から王都までの輸送費、来年分の種を取り崩す補償を含みます。利益は一割です」
「国難に乗じて金を取るのか」
「薬師にも庭師にも家族がおります。無償で働けと命じることはできません」
マティアス様が契約書を机に置いた。
「支払いが難しいなら、我が領が半額を負担しよう。その代わり王家は、昨年削減した北方治癒院への補助金を五年間、元の額に戻していただく」
「辺境伯、足元を見るつもりか」
「救命のために必要な費用を示している。あなた方が薬草園に払っていた予算より安い」
殿下は私を睨んだ。
「君は変わった。以前はもっと、家族や国のために尽くす女性だった」
「変わっておりません」
私は答えた。
「価値がないと言われた仕事を、価値があると認めてくださる方のために続けているだけです」
殿下は契約書に署名した。
薬はその日のうちに王都へ運ばれ、多くの患者を救った。
流行の収束後、王宮で査問会が開かれた。
議題は、王宮薬草園壊滅の責任について。
エレノアは「姉が必要な記録を隠した」と訴えた。
私は引き継ぎ書、譲渡契約書、品種登録証、これまでの往復書簡を提出した。
「管理には専門知識が必要だと説明しましたか」
宰相の質問に、私は頷いた。
「十二年間、毎年予算申請書に記載しております」
「申請はどう扱われた?」
「直近三年は、第二王子殿下の判断で減額されました。『草木にこれほどの金は不要』との理由です」
ざわめきが広がった。
次に庭師たちが証言した。
エレノアが引き継ぎ書を読まなかったこと。水量を変えたこと。土壌検査を無駄として中止したこと。忠告した者を薬草園から追い出したこと。
「でも、私は聖女です!」
エレノアが立ち上がった。
「私の祈りがあれば、薬草より多くの人を救えます!」
治癒院長が静かに首を振った。
「聖女様お一人が一日に治療できるのは、多くて二十人。今回、薬を必要とした患者は四千人を超えました」
「それは……」
「祈りと薬は、どちらが上かを争うものではありません。両方が必要なのです」
査問の結果、エレノアは薬草園管理長を解任された。
父は王宮への虚偽報告で官職を失い、ユリウス殿下は治癒行政の監督権を外された。
母からは長い手紙が届いた。
『家族を見捨てるなんて、あなたは冷たい娘です』
私は一行だけ返した。
『薬はお届けしました。家族の地位まで治す薬は、育てておりません』
婚約は、王家から正式に解消された。
その報せを受け取った日、マティアス様が研究所へ来た。
作業着ではなく、珍しく正装していた。
「これで順番を守れる」
彼は土のついた私の手を取り、片膝をついた。
「リゼット。私と結婚してほしい」
「条件があります」
「聞こう」
「結婚後も研究所長を続けます」
「当然だ」
「温室を、あと二棟増やしたいです」
「三棟でもいい」
「失敗しても、次を試します」
マティアス様は笑った。
「それこそ、私があなたに任せたい仕事だ」
私は求婚を受けた。
一年後、ルーベル領の薬草研究所は王立研究所として認定された。
王宮薬草園は再建されなかった。
その代わり、王国は各地に小さな栽培所を造り、一か所が失敗しても薬が途絶えない仕組みを整えた。新しい管理者たちは、私の講義を受け、土壌を調べ、毎日の変化を記録する。
講義の最初に、私は必ず同じ質問をする。
「薬草を育てるのに、何が必要だと思いますか」
新人たちは決まって答える。
「水と光です」
「そうですね」
私は一冊目の栽培日誌を開く。
「では、水をどれだけ与え、光を何時間当てればよいでしょう」
そこで皆、初めて黙る。
植物は、水さえやれば育つ。
たしかに、それは間違いではない。
けれど人を救える薬草に育てるためには、土を知り、天気を読み、失敗を記し、次を試す人がいる。
その仕事に価値があることを、今の私はもう知っている。




