56.開く瞳
ついに、ユナを見つけた。水路の底に背をつけて目を閉じている。
急いでその背と膝裏に手を回す。体内が石化し始めているはずの体は、悲しくなるほど軽く感じた。抱いたまますくい上げる。
「ユナ! お願いだ、起きてくれ! 頼む!」
水に浸かったまま、ウィリアムは震え声を上げた。開かない瞼を見ていると、心が激しく波立つ。
「……うっ……」
抱いた肩がわずかに動いた。小さくうめき、苦しそうに顔を引きつらせる。
「ユナっ! 大丈夫!? オレのことが分かる……?」
ユナは目をうっすらと開けた。濡れた長い黒髪が、周りの蝋の明かりによって照らされる。
「……はい……ウィリー様」
糸のように細い声で、彼女は小さく答えた。
「っ……!」
ウィリアムは軽く腕を曲げて、その体を自身の胸元に引き寄せる。
彼女の肩や胸が体に押しつけられ、確かなぬくもりを感じた。
目頭も熱くなる。
「このバカ女王! 自分のこと、もっと大切にしなよ!」
言葉が勝手に口から飛びだした。
5年前にユナから似たことを言われた。今ならあの時の彼女の気持ちが分かる。大切な人が危険に身をさらすのは見るに耐えない。それが自分のためを思ってのことだとしたら、なおさらだ。
「申し訳、ありません、ウィリー様。貴方様に、迷惑を……」
「迷惑じゃない! 言っただろ! また溺れても助けるって、オレはユナのことが大好きだって!」
ウィリアムは愛する人の瞳を見据えて叫ぶ。
「で、でも、それは、5年前のことでは……?」
ユナは何度もまばたきをくり返した。
その麗しい目が開閉するたびに、繊細な上まつ毛が戸惑うように揺れる。
「今もこの気持ちは変わらない。むしろ5年前より好きだ。君はオレの生きる意味そのものだ。この命より大切な人だ!」
胸の奥に積もっていた想いがあふれ出る。水面に浸かっているのに体中が燃えるように熱い。まるで熱湯に入っているかのようだ。
「ほんと、に……わたくしなんかのことを――」
「わたくしなんかじゃない!」
ウィリアムはユナの口を強引に塞ぐ。
「っ!?」
小さく途切れた声が、ユナののどからこぼれた。
勢い余って彼女の歯とぶつかってしまったが、次の瞬間には柔らかい感触がした。どこか懐かしくて甘い味だった。
心臓がどくんと脈を打つ。体中を血が暴れるように駆けめぐっていた。それらは右目の辺りに集結する。一瞬だけその目がかすかに開かれ、視界が銀色の光を帯びる。彼女の姿を両目で捉えることができた。
最初は戸惑っている様子のユナだったが、やがては彼女もウィリアムの首の後ろに弱々しく両腕を回した。それが愛しくてたまらなかった。
永遠にこうしていたかったけれども、それでは彼女の顔が見られず、声も聞けない。名残惜しさを感じながらも、ゆっくりと唇をユナから離した。
「体が……少し楽になった気がします……」
ウィリアムの腕に抱かれながら、ユナはこちらをじっと見つめてくる。顔はほんのり赤く染まっていた。目は半分ほど閉じられ、頬は心地よさそうにゆるんでいる。
彼女の首元に目を向けると、灰色に変色していた部分が滑らかな白い肌に戻っており、ウィリアムは目を見開いた。
「ユナ! 石化が治ってるよ!」
「え……どうしてそのことを……、あれ? 本当、ですね」
ユナは自身の首元をそっと触れた。
「ほんの一瞬だけ、オレの右目が開いたんだ。きっと、そのおかげだよ!」
無理に開いたせいか、右目にはじんわりとした痛みがあるが、さほど気にならない。それよりも多くの歓喜が心の中を満たしていたからだ。
「治ったのでしょうか……? でも、ウィリー様の右目は開かなかったはずでは?」
「その通りだし、今も全く開かないんだけど、さっきは心臓が高鳴ってさ……」
言いかけたところで顔が熱くなっていく。勢いでやってしまったが、あのようなことは生まれて初めてした。いまだに早鐘を打つ音が体内から聞こえる。その音は何かを祝福しているかのようにも聞こえた。
「な、なら、しましょう!」
ユナはウィリアムに顔を近づけ、上目遣いで見つめてくる。思わず吸いこまれてしまいそうなほどの魅惑的な眼差しだ。
「え……?」
「先ほど……したことです。もう1度したら、ウィリー様の右目が見えるようになるかもしれません」
「い、いや、いいんだ。心配してくれるのはありがたいけど、開かない方がオレとしても安心だし」
今のこの国に魔眼は必要ない。間違ってまた開いてしまったら、今度こそ彼女を石にしてしまう恐れもある。そうなるくらいなら、何も見えない方が遥かにいい。
「開かなくてもいいんです。……わたくしが……したいんです、ウィリー様と。わたくしも、貴方様を深くお慕いしていますから……」
頬を染めたまま、ユナは再びウィリアムの首に腕で包みこんだ。
それを聞いて、ずっと心に開いていた穴が埋まってゆくのを感じた。同時に、どれほど自分が我儘な人間だったのかと気づいた。ウィリアムはユナにたったひとりの男として愛されたかったのだ。貪欲で私的な願望だ。それでいて、もう隠しきれないほどの強い渇望だった。
心が、溢れ出んばかりの幸せに埋め尽くされる。
頬に一筋、冷たい線が走った。
「え……ウィリー様?」
それを見たユナは、かすかに驚いたような声を出す。
「ごめん。ちょっと目が潤んで……」
「ど、どうか泣かないでください! わたくしは、決して貴方様を困らせるつもりでは……」
必死にユナは首を振る。なぜか彼女までもが泣きそうになっていた。
「違う、違うよ! 嬉しくて……仕方ないんだ。ユナにそんなことを言ってもらえて、ほんとに夢みたいで……だから、止まらなくて。泣きたくなんかないのに……」
1粒、また1粒と頬を伝う。小雨のように目元から降ってくる。それにつれて息が詰まり、うまく言葉にならなくなる。
顔を見られたくなくて、彼女からそむけた。
10年ぶりに流した涙だった。両親の死を知ったとき、無力な自分が嫌になったとき、ふいに孤独感にこみ上げてきたとき。この雫は、そのどれとも異なる類のように感じる。
「いいのです。涙を流しても。……わたくしのことをそれほど大切に想ってくだって光栄の至りです」
頬にユナの指先が当てられた。彼女はそっと涙をぬぐってくれる。
その指の温かさに堰を切られて、目元がますます潤んでいく。
「でも……!」
「ふふ、だって嬉しいですから。ウィリー様の貴重な一面が見られて、貴方様の特別になれた気がするのです」
可憐にほほ笑み、彼女はひかえめに声を弾ませる。
ウィリアムは嬉しいような恥ずかしいような、よく分からない感情になっていた。
「……ごめん。これ以上は見せたくない」
嗚咽を必死に抑えてつぶやき、ウィリアムは彼女の唇に再び口づけを落とした。
それ以上は言葉を交わさず、重ね続けた。身も動かさず、時の流れも水の冷たさも忘れて、ただ互いの存在を確かめ合っていた。いつまでもこうしていたい。この瞬間が永遠に続けばいいのに。
「ごほん、そろそろいいか、ウィリアム・プレッツェル」
刺々しいその言葉にぎくりとして目を向けると、水路の横にある通路に、カルニアが両腕を組んで立っていた。
「だ、団長さん! ご無事だったんですね!」
「ああ。少々手こずったが、殺さずに片付けた。洗いざらいあの騎士に吐かせて大まかな事情は知ってる。あんたの方もよくやってくれた」
ウィリアムは焦って目を移す。気絶したスミスが水面に浮いていた。ユナのことに気を取られてすっかり失念していた。
「こっちも少々……いや、かなり手こずりました」
「そうか。にしても、あの男だったか……。そういや、前までユナティアーナと何度か会ってたな……」
射抜くような眼光を、彼女はスミスに向けて放っている。
「申し訳、ありません。お師匠様。彼の企みに気づけなかったわたくしが悪いのです……」
「やめろ。謝罪も内省も聞きたくない。その前に早く上がれ。体に障るだろ」
その通りだ。いつまでも水の中にいてはいけない。
腕で抱えた彼女を、カルニアの助けも借りながら通路にまで押し上げる。
ウィリアムも通路の上に戻った。同時に、眼帯も拾って着け直す。ずっと水に浸かっていたせいか、体温が一気に失われた気がした。
「無事で、よかった」
カルニアはユナの体を優しく両腕で包んだ。
「大変ご迷惑をおかけしてしまいました……。でも、来てくださってありがとうございます」
「あたりまえだろ。どこにいたって必ず見つけ出す。あんたの師として当然だ」
「大変感謝しています、お師匠様。けれど、どうかスミス卿にはお慈悲を……彼のご息女が悲しんでしまいますから」
ユナは、カルニアの体に身を委ねながら言った。
ウィリアムも同意見だ。スミスには大いに失望したが、彼は娘だけではなく、多くの人々から慕われている。彼を殺せば反感を招いてしまう。
「……んなら、後であたしが運んで、どっかに縛り付けとくよ。あいつをどうするかは、あんたが決めればいい」
「……はい、お師匠様! ありがとうございます」
「なんか顔色がよくなったな……。まあ、いい。聞きたいことは山ほどあるが、今は体を休ませろ。さっさと寝室まで負ぶってやる」
カルニアはしゃがみこみ、愛弟子に背を向けた。
「それは……いや、です……」
だが、ユナは首を大きく横に振って、逃げるようにウィリアムの元に駆け寄った。腕にしがみつれて、冷えた体がじんわりと温められる。
「は? どうしてだ?」
「ウィリー様と離れたくありません。もっと一緒にお話ししたいのです」
ユナはウィリアムに寄り添って離れない。
彼女がこのような我儘な素振りをするのは初めて見た気がする。この上なく嬉しいが、カルニアの言う通り、このじめじめとした場所から早く出た方が賢明だ。
「……ウィリアム・プレッツェル。本当に、本当に、遺憾ではあるが、あんたにユナティアーナを寝室へ運ぶという大役を命ずる。出口はこの奥だ」
カルニアは腰に携帯している剣の柄を握りしめた。歯ぎしりをしながら、震えたもう片方の手をのばす。
煮えたぎる殺気がひしひしと伝わり、ウィリアムはぴくりと身を跳ねさせる。
「はい、ただちに! ユ、ユナ。歩ける?」
「歩けます。ウィリー様にたくさん元気をいただきましたから」
ユナは柔らかくほほ笑んだ。
「はは、あはは、それは良かった。本当に。……だが、やっぱりあたしはプレッツェル卿が憎くてたまらん」
カルニアは低い声を出す。面持ちは恐ろしいほどに歪んでいた。手に持つ鞘からは刃をのぞかせている。
「じゃ、じゃあ、早く行こっか!」
巻きつくユナの両腕を丁寧にほどき、速やかに手を引いた。殺意に満ちた視線を送ってくる元騎士団長から逃げるように、ウィリアムは出口を目指す。
「はい。でも……それほど急がなくても構いませんよ?」
ユナはウィリアムの指に自身の指をからませ、しっかりと握ってきた。何だか人前では恥ずかしい繋ぎ方になってしまったが、彼女は嬉しそうにはにかんでいる。
毅然としている普段とは、また違った類の度胸を発揮していた。ますます彼女の魅力の虜にされるが、できればその勇姿はカルニアの前では見せずにいてほしい。
「いちゃこらせずに早く行け、ウィリアム・プレッツェル! ユナティアーナにもしものことがあったら、今度こそずたずたにしてやるからな!」
「は、はぃぃ!」
催促の言葉にはじかれるように、ウィリアムは先を急いだ。病が治ったとはいえ、無理は禁物だ。
ユナと手を繋ぎながら歩いていると、すぐに階段状の出口が見えてきた。
薄暗い地下空間から脱すると、澄み切った青空が出迎えてくれた。




