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好きの手前と、さよならの向こう  作者: 茶ノ畑おーど
〇1章【すれちがいと夜】
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3節~灯る想い~ 20

プルルルルルッ!


けたたましい着信音が、重たい眠りの底から意識を無理やり引きずり上げる。

視界はまだ霞んでいて、枕代わりにしていた腕には鈍い痺れが残っていた。


「……なんだよ……」


かすれた声で呟きながら、手探りでスマホを掴む。画面に浮かんだ名前を見て、ぼんやりしていた頭が一気に覚醒した。


【塚原麻衣】


「……あー……もしもし」


半分眠った声で応じると、すぐにいつもの張りのある声が耳に飛び込んできた。


『中町くん!? あぁ、よかった……出た。ごめん、会議が押しちゃって、連絡が遅くなっちゃったんだけど……大丈夫だった?』


麻衣の声には、安堵と心配と、少しの期待が入り混じっている。

その響きに、ヒロトは思わず口元を緩めた。


「……ああ、なんとか、な」


彼は重たい上半身をぐいと起こし、机の端に置いたままのペットボトルを手に取って一口飲む。

喉がひりつくように乾いていた。


「って、今何時だ?」


『十四時よ。……まさか、まだ会社にいるわけ?』


「いるよ。……終わったあと、そのまま沈んでた」


『……はぁ~~……ほんと、無茶しすぎ。もう少し加減ってものを覚えなさいよ、中町くん』


呆れ混じりの声に、ヒロトは小さく笑った。どこか安心したような響きが、彼の胸にじんわり染みる。


『見たわよ、提出メールと完了報告。……ほんと、よくやったわね。偉い偉い』


「さすがに、きつかったな。ここ数日のバタバタも合わせたら……過去一かもしれない」


ヒロトは机に肘をつき、こめかみを押さえた。目の奥が鈍く痛む。


「新人と二人で一から書き直して、しかも徹夜で納期に間に合わせるってさ……正気じゃないよな」


『佐久間さんたちの案件がなければ、もっと余裕があったのにね』


麻衣の声が少し苦笑混じりに落ち着く。


『こっちはヒヤヒヤしてたんだから。中町くん、いつか倒れるんじゃないかって』


「いや、ほんと、自分でもよく立ってるなって思うわ」


お互い、この数日の緊張を思い出しては、言葉を交わすたびに張り詰めた糸が少しずつ緩んでいく。


ヒロトは深く息を吐き、背伸びをしながら椅子の背にもたれた。

静まり返ったオフィスの空気が、少しだけやさしく感じられた。


『……で、明坂ちゃん』


麻衣の声が、ほんのわずかに明るくなる。


『すごかったわね、あの子。短期間であそこまで踏ん張れる新人なんて、そうそういないわよ』


「まあな。前は空回ってたけど、真面目だし、根は芯がある」


『でしょ? ……チーム脱退の危機は、回避できそう?』


「……ん?」


『明坂ちゃん、次のプロジェクトでも必要でしょ? 先輩』


その言葉に、ヒロトの口角がゆるんだ。


「……ああ、大丈夫だ。どんな手を使ってでも抜けさせるつもりなかったからな」


電話越しでも、麻衣が笑っているのが分かった。


『うわぁ……粘着ブラック上司だ』


「それはお前の専売特許だろ」


『失礼ね。私のは愛、のある囲い込みよ?』


「はいはい」


苦笑しながらも、ヒロトの胸に満ちていたのは、心地いい疲労感と達成感だった。

大学時代から何度も修羅場を抜けてきた戦友のような。

麻衣との会話は、そんな感覚を呼び覚ます。


『……とりあえず、今日くらいは早く帰りなさいよ』


「そっちこそ、なんで土曜日に働いてんだ」


『ふふ、そこはお互い様でしょ』


軽く笑い合ったあと、麻衣の声がふっと柔らかくなった。


『……ほんと、お疲れ様。ありがとね』


その一言が、長い夜をすべて肯定してくれるようだった。

通話が切れると、ヒロトはスマホを机に戻し、大きく伸びをした。

背中の関節が、バキバキと音を立てる。


「……さて」


誰に言うでもなく呟いて、隣に目をやる。


そこには、丸くなったままぐっすりと眠るキリカの姿。

頬には少しだけ寝跡がつき、整えられていた髪もところどころ乱れている。

穏やかな寝息が、彼女の小さな体から規則正しくこぼれていた。


ヒロトはゆっくり席を立ち、ブランケットをそっとかけ直した。


「お疲れさん。……よくやったな、明坂」


その声が夢の中に届いたのかどうかは分からない。

ただ、彼女の肩がほんのわずかに緩んだように見えた。


窓の外には、昼下がりの柔らかい陽射しが差し込んでいた。

それは、徹夜明けの疲労で荒れた心と体を包み込むように優しく降り注ぎ、

ヒロトはその光の温もりを感じながら、ふっと息をついた。


まるで嵐のような一夜を越え、今ようやく静かな海に辿り着いたような――

そんな感覚が、オフィスの空気ごと穏やかに染め上げていった。


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