3節~灯る想い~ 18
「せ、先輩……!」
焦りと混乱が混ざった声が、オフィスの空気を震わせる。
ヒロトは視線を画面から離さずに短く言い返した。
「いいから、先方へのメール、先に書いとけ!」
その声には、余計な感情を挟む隙間がなかった。
モニターに映る企画書は、提出まで残り三十分を切っている。
タイムリミットは刻一刻と迫り、秒針の音がやけに耳に響く気がした。
ヒロトの頭はとうに限界を迎えていた。
目の奥は焼けるように熱く、視界の端がぼんやりと霞む。
それでも眠気はとうに過ぎ去り、残っているのは焦燥と責任感だけだった。
ただでさえ、提出を送らせてもらっているのだ。
このままの仕上がりでは通せない――その思いが、彼の手を無理やり前に進ませている。
誤字、言い回し、文脈のつながり。
細部を何度も舐めるように追い、画面の文字列に視線を這わせる。
一ページ、一ページ、確かめるように読み返すたび、新たな粗が見えてくる。
「ここ、語尾が被ってるな……」「この図版、右端が切れてる……」
独り言がつい口をつく。
指先は、無意識にキーボードを叩き、修正を重ねていた。
背後では、キリカのキーボードの打鍵音が、不規則に響く。
不慣れなビジネスメールに四苦八苦しているのが手に取るようにわかる。
「先輩っ、書き出しって、どうすればいいんですか!?」
「『いつもお世話になっております』でいい。余計な飾りはいらない!」
「このファイル名、これで大丈夫ですか?」
「プロジェクト名_日付_最終案。全角記号は絶対に使うなよ!」
返事を返す合間にも、ヒロトの視線は一度も画面から外れない。
目の前の文字列に張り付くように集中し、指は一切止まらなかった。
キリカの様子が視界の端にちらりと映る。
赤く充血した目、乾いた唇、深夜を越えた疲労でよれたシャツ。
それでも彼女は諦めなかった。
ぎりぎりの集中力で、必死に画面に食らいついている。
……残り十分。
ヒロトは、最後の一ページに突入した。
段落をひとつひとつ確認し、改行や文末の揺れを整え、目を素早く流す。
ページの下端まで辿り着いたとき、胸の奥で小さな確信が生まれた。
「……終わった。添付ファイル、確認してくれ。破損してないか?」
「はい……! 大丈夫です、開けます!」
キリカの声はわずかに震えていた。
ヒロトは深く息を吐き、椅子の背もたれに体を預ける。
張り詰めた空気の中で、吐息が小さく弾けた。
「内容、問題ない。送っていいぞ」
キリカはわずかに指を止め、「送信」ボタンを見つめた。
その一瞬の間に、これまで積み上げてきた時間の重みが、ずしりと肩にのしかかる。
しかし、彼女はためらいを振り切るように、静かに指を動かした。
カチリ――。
クリック音がやけに大きく響いた気がした。
オフィスの空気が、ほんの一瞬止まったように感じられた。
ヒロトとキリカの視線が交わる。
言葉はなくても、張り詰めた空気の中で同じ思いを共有していることがわかった。
次の瞬間、二人は同時に椅子へ背を預ける。
力が抜ける音が、かすかに重なった。
「……終わった」
「…………終わりました」
その言葉は、長い夜を締めくくる合図のようだった。
オフィスの窓の外では、春の朝日が静かに世界を照らし始めている。
淡い光が、白く乾いた資料の山を金色に染め、「よく頑張ったな」とでも言いたげに二人の肩に柔らかい影を落とした。
ふいに感じるコーヒーの残り香と、夜を越えた疲労の余韻――。
乾いた笑いが小さく漏れた。
それは達成感と、どこか解放された心の奥から湧き上がる温度を含んでいた。
誰もいないオフィスに、微かな笑い声がゆっくりと溶けていく。
終わったはずなのに、その静けさの中で、夜から朝への境目がまだ夢のように曖昧に感じられた。




