3節~灯る想い~ 10
ふたりで休憩室を出て戻ったオフィスは、昼間とはまるで別の場所のようだった。
消灯された天井の照明が黒い影を落とし、室内には静けさと、冷えた空気だけが漂っている。
まるで、あの賑やかだった日中の喧騒が幻だったかのように。
「……寒っ」
足を止めたキリカが、思わず小声で呟く。
夜のオフィスは空調が抑えられているのか、温度が数度下がったように感じた。
ヒロトは、すぐ隣に立つ彼女の言葉に反応し、無造作に手元のカーディガンを差し出した。
少しだけためらうような仕草を見せながらも、キリカは首を横に振る。
「大丈夫です。……こっちのほうが眠気も飛びそうなんで」
「そりゃよかった」
短く笑って、ヒロトは彼女の前に紙袋を差し出す。
「……あ、そうだ。これ、今日のお土産」
「……今もらっても、あんまり嬉しくないです」
口を尖らせてむくれるように言いながらも、キリカは結局その包みを受け取った。
袋の中には、小ぶりのチーズケーキがひとつ。
冷気を帯びたパッケージの上で、「限定」と刻まれた金色のシールが鈍く光った。
「まぁ、保存は利くから。明日、気分が落ち着いてから食べてもいいし」
ぶっきらぼうに言うヒロトの横顔を、キリカはそっと盗み見る。
その刹那、彼の視線とぶつかりそうな気がして、慌てて目を逸らした。
手のひらに感じる冷たい感触を、自分のぬくもりで包み込むようにしながら、そっと胸元に押し当てた。
オフィスの明かりは最小限に絞られていた。
机の上のスタンドライトだけが、二人の影をやわらかく浮かび上がらせ、作業スペースだけがぼんやりと明るい島のように切り取られている。
「じゃ、やるか」
「はい」
キリカは席に戻り、パソコンを起動させる。
作りかけの資料を開くと、いくつもの修正箇所が赤字で残っていて、胸の奥がひやりとした。
隣のヒロトは、既に参考資料のファイルを展開して、無駄のない動きで目を走らせている。
「ここの論点、ずれてるな。狙いと構成が噛み合ってない」
「……ですよね。でも、それをつなげるロジックが、どうしても思いつかなくて」
声が少しだけかすれた。
悔しさと不安が混ざり合い、胸の奥にひっかかる。
ヒロトは一度、視線を落としてから、机の端にあった紙とペンを取り出した。
「だったら、一旦図にしてみよう。何が前提で、何が展開なのか。目で見えるように並べれば分かるはずだ」
線を引き、丸で囲み、矢印をつなげる。
その指先の迷いのなさに、キリカの目が少しずつ変わっていく。
「……あ、なるほど。この順番なら、切り口と合わせて通ります」
気づけば、彼女も別の用紙を引き寄せて、自分なりにロジックを書き出していた。
筆が進むにつれ、頭の中の霧がすっと晴れていく感覚があった。
「さっきの部分、全然ダメだと思ってましたけど、前提を変えたら逆に強みになりますね」
「そうだな。ちゃんと調べてあったからこそ、持ち直せたんだ。明坂、見てるところは悪くないよ」
「そ、そういうの……もうちょっと早く言ってくれませんか」
思わず笑みがこぼれた。
この笑いが、さっきまでの緊張を少しだけほぐしてくれる。
作業は着実に進んでいく。
参考資料を照らし合わせながら論拠をまとめ、プレゼンテーションの流れを再構築し、最後には、キリカが一枚一枚スライドに丁寧に肉付けをしていった。
「このグラフ、色のトーンを変えたほうがいいな。今のままだと少し見づらい」
「わかりました。……あと、フォント、プレゼン用に統一します」
「それで、ここにキャプションを入れて強調しておこう」
「了解です。……あの、先輩、こっちの案とどっちが伝わりやすいと思います? AとBで比較してみたんですけど」
「……Bかな。理由もきちんと添えて。読み手の頭に残るのは、結論の理由だから」
「……っ、はい」
キーを打つ音がリズムを刻むように続く。
ヒロトがマーカーで引いた箇所を、キリカが即座にスライドに反映する。
時には意見をぶつけ、時には短い言葉で補い合いながら、夜の静寂の中でふたりの作業は淡々と進んでいった。
気づけば、デスクのスタンドライトが紙面の端を白く焦がしていた。
時計の針はすでに深夜を越えかけていたが、二人の指先は止まらない。
疲労よりも、形が見えていく資料の手応えが勝っていた。
むしろ、キリカの胸の奥にはじんわりと温かいものが広がっていく。
ようやく、自分がチームの一員に戻れた。
そんな確信が、心の奥に小さな灯りのように灯っていた。