2節~とまらない時間~ 7
次の週の木曜日。
朝から、社内の空気はただならなかった。
いつもの出社時刻を過ぎたころには、会議室を出入りする足音と、プリンター前での言い争いが重なり、オフィスは異様なざわめきに包まれていた。
「あと何分で資料仕上がるって言った!? こっちはもう出るぞ!」
「すみません、あと十分……いや、八分で!」
紙の焼ける匂いと、立て続けに流れるプリント音。
デスクには紙資料と付箋が散乱し、進捗管理ツールの画面には、真っ赤な警告アイコンが無数に点滅していた。
ヒロトのデスク周りも例外ではなかった。
チェックリストは昨日の倍以上に膨れ、麻衣とのチャット欄は「対応中」「確認済」の報告で埋め尽くされている。
ひとつ終われば、またひとつ。目の前の作業は終わりが見えない。
「……これ、今日中に終わらせないと、先方に送れないな」
「わかってる、だから今やってるって……!」
麻衣は机に肘をつき、キーボードを叩きながら答える。
その声にすら疲労の色が混じっていた。
通路の向こう、別チームから佐久間が姿を見せた。
「おい、中町。この構成、まだ出せてねぇのか?」
「すみません、別件の確認が入ってて……すぐやります」
「俺が巻き取るから、最終調整のほう先に頼む」
言葉は厳しいが、決して責めるような口調ではない。
普段なら週に一度顔を出すかどうかの佐久間が、今週は毎日来ていた。
それだけで現場の異常事態は察しがついた。
その喧騒の中。通路の向こうで、スマホの通知音が小さく鳴った。
キリカの席だ。
『井口:明坂ちゃん、進んでる〜?』
『石井:明日、たのしみだな〜』
『杉山:ちゃんと休憩取ってる? 心配してるよ〜笑』
「……」
無視しても、通知は止まらない。
既読をつけなくても、次々と調子良いのメッセージが飛んでくる。
軽さと圧迫感の入り混じった文面が、じわじわと神経を侵食する。
もうすぐだよ。
どんな言い訳を立てても逃げられないよ。
——そんなふうに言われている気がして、キリカは唇を噛んだ。
オフィスはまさに、戦場だった。
誰もがモニターと格闘し、時計とにらめっこしていた。
声は荒くなくても、すべてが焦燥と緊張に支配されていた。
その中で、キリカだけが声をかけられることもなく、ただ孤独に画面を見つめていた。
――今日中にある程度までは仕上げないと、間に合わない
その言葉が、頭の中で警報のように鳴り続けていた。
◆
「……OK、これで通すぞ」
ヒロトが席を立ち、プリントアウトされた資料をトントンと揃えた。
隣の倉本と佐久間もそれに続いて、うなずく。
「……助かった。ギリギリだったな」
「ま、間に合っただけマシってやつだな!」
三人の手には、整えられた成果物。
二週間にわたり消火し続けていた『大橋案件』が、ようやく鎮火した瞬間だった。
佐久間がカレンダーを確認しながら言う。
「明日、朝イチで先方に出す。念のため対応入れるから、倉本、中町も同行な」
「了解です」
ヒロトはためらわずに答える。
これでようやく一区切り——そう思いながら。
◆
そのやりとりを、少し離れた席から聞いていたキリカは、手元のマウスをぎゅっと握りしめた。
「えっ……明日、出る……?」
声にならない声が、心の中で上がる。
普通に考えれば当然の流れかもしれない。
でも、ヒロトが不在になるという事実が、あまりに唐突に、あまりに重く、胸の中に突き刺さった。
提出期限は明日だ。
キリカの内に焦燥感が、ようやく形を持ってのしかかってくる。
誰に相談するべきか、ずっと迷っていた。
その一歩を、ずっと踏み出せないでいた。
なのに——
その相手が、いなくなる。
……どうしよう。
心拍数が跳ね上がる。
呼吸が、浅くなる。
と、その時。
「明坂」
思考を遮るように、ヒロトの声が飛んできた。
驚いて顔を上げると、彼は手に厚めの資料を持っていた。
「全然見てやれなくて悪いな。今朝ギリギリでまとめたんだけど、俺なりの要点と構成展開の整理。お前の案と見比べて、必要だったら取り入れてくれ」
そう言って、ヒロトはファイルを差し出した。
キリカは、受け取る手が少し震えていた。
資料を開いた瞬間目を奪われる。
「……なに、これ」
プリント用紙数枚にびっしりと書き込まれた赤字のメモ。
問題点、展開順、タイトル案のバリエーション、注釈付きの比較表まで。
何から何まで、詰まっていた。
「伝えるために考え抜かれた形」が、そこにあった。
それを見た瞬間——
自分が今日まで進めていた作業が、まるで『なにもしていない』のと同じであるかのような錯覚に陥った。
心臓の奥がきゅっと痛む。
要点はバラバラ、タイトルは一貫性がない、余白ばかりの構成案。
見れば見るほど、視覚を通してキリカを責め立てた。
間に合わないかもしれない。そんな思考がよぎり、必死に打ち消す。
目が泳ぐ。
頭も、指も、止まったままだ。
やらなきゃ……どうにか、しなきゃ……!
そんな焦りにも似た使命感が心に宿る。
立ち止まってる時間なんて、もうどこにもない。
でも、何から手をつければいいかもわからなかった。
そして——
定時を告げるチャイムが、鳴った。
オフィスのざわめきが、徐々に帰宅の準備へと変わっていく。
ただ、キリカの時間だけは、完全に止まったままだった。




