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好きの手前と、さよならの向こう  作者: 茶ノ畑おーど
〇1章【すれちがいと夜】
52/123

2節~とまらない時間~ 7

次の週の木曜日。

朝から、社内の空気はただならなかった。


いつもの出社時刻を過ぎたころには、会議室を出入りする足音と、プリンター前での言い争いが重なり、オフィスは異様なざわめきに包まれていた。


「あと何分で資料仕上がるって言った!? こっちはもう出るぞ!」


「すみません、あと十分……いや、八分で!」


紙の焼ける匂いと、立て続けに流れるプリント音。

デスクには紙資料と付箋が散乱し、進捗管理ツールの画面には、真っ赤な警告アイコンが無数に点滅していた。


ヒロトのデスク周りも例外ではなかった。

チェックリストは昨日の倍以上に膨れ、麻衣とのチャット欄は「対応中」「確認済」の報告で埋め尽くされている。

ひとつ終われば、またひとつ。目の前の作業は終わりが見えない。


「……これ、今日中に終わらせないと、先方に送れないな」


「わかってる、だから今やってるって……!」


麻衣は机に肘をつき、キーボードを叩きながら答える。

その声にすら疲労の色が混じっていた。


通路の向こう、別チームから佐久間が姿を見せた。


「おい、中町。この構成、まだ出せてねぇのか?」


「すみません、別件の確認が入ってて……すぐやります」


「俺が巻き取るから、最終調整のほう先に頼む」


言葉は厳しいが、決して責めるような口調ではない。

普段なら週に一度顔を出すかどうかの佐久間が、今週は毎日来ていた。

それだけで現場の異常事態は察しがついた。



その喧騒の中。通路の向こうで、スマホの通知音が小さく鳴った。

キリカの席だ。


『井口:明坂ちゃん、進んでる〜?』

『石井:明日、たのしみだな〜』

『杉山:ちゃんと休憩取ってる? 心配してるよ〜笑』


「……」


無視しても、通知は止まらない。

既読をつけなくても、次々と調子良いのメッセージが飛んでくる。

軽さと圧迫感の入り混じった文面が、じわじわと神経を侵食する。


もうすぐだよ。

どんな言い訳を立てても逃げられないよ。


——そんなふうに言われている気がして、キリカは唇を噛んだ。



オフィスはまさに、戦場だった。


誰もがモニターと格闘し、時計とにらめっこしていた。

声は荒くなくても、すべてが焦燥と緊張に支配されていた。


その中で、キリカだけが声をかけられることもなく、ただ孤独に画面を見つめていた。


――今日中にある程度までは仕上げないと、間に合わない


その言葉が、頭の中で警報のように鳴り続けていた。



「……OK、これで通すぞ」


ヒロトが席を立ち、プリントアウトされた資料をトントンと揃えた。

隣の倉本と佐久間もそれに続いて、うなずく。


「……助かった。ギリギリだったな」


「ま、間に合っただけマシってやつだな!」


三人の手には、整えられた成果物。

二週間にわたり消火し続けていた『大橋案件』が、ようやく鎮火した瞬間だった。


佐久間がカレンダーを確認しながら言う。


「明日、朝イチで先方に出す。念のため対応入れるから、倉本、中町も同行な」


「了解です」


ヒロトはためらわずに答える。

これでようやく一区切り——そう思いながら。



そのやりとりを、少し離れた席から聞いていたキリカは、手元のマウスをぎゅっと握りしめた。


「えっ……明日、出る……?」

声にならない声が、心の中で上がる。


普通に考えれば当然の流れかもしれない。

でも、ヒロトが不在になるという事実が、あまりに唐突に、あまりに重く、胸の中に突き刺さった。


提出期限は明日だ。

キリカの内に焦燥感が、ようやく形を持ってのしかかってくる。


誰に相談するべきか、ずっと迷っていた。

その一歩を、ずっと踏み出せないでいた。


なのに——


その相手が、いなくなる。


……どうしよう。

心拍数が跳ね上がる。

呼吸が、浅くなる。


と、その時。


「明坂」


思考を遮るように、ヒロトの声が飛んできた。


驚いて顔を上げると、彼は手に厚めの資料を持っていた。


「全然見てやれなくて悪いな。今朝ギリギリでまとめたんだけど、俺なりの要点と構成展開の整理。お前の案と見比べて、必要だったら取り入れてくれ」


そう言って、ヒロトはファイルを差し出した。


キリカは、受け取る手が少し震えていた。

資料を開いた瞬間目を奪われる。


「……なに、これ」


プリント用紙数枚にびっしりと書き込まれた赤字のメモ。

問題点、展開順、タイトル案のバリエーション、注釈付きの比較表まで。


何から何まで、詰まっていた。

「伝えるために考え抜かれた形」が、そこにあった。


それを見た瞬間——

自分が今日まで進めていた作業が、まるで『なにもしていない』のと同じであるかのような錯覚に陥った。

心臓の奥がきゅっと痛む。


要点はバラバラ、タイトルは一貫性がない、余白ばかりの構成案。

見れば見るほど、視覚を通してキリカを責め立てた。


間に合わないかもしれない。そんな思考がよぎり、必死に打ち消す。


目が泳ぐ。

頭も、指も、止まったままだ。


やらなきゃ……どうにか、しなきゃ……!

そんな焦りにも似た使命感が心に宿る。

立ち止まってる時間なんて、もうどこにもない。


でも、何から手をつければいいかもわからなかった。



そして——


定時を告げるチャイムが、鳴った。


オフィスのざわめきが、徐々に帰宅の準備へと変わっていく。


ただ、キリカの時間だけは、完全に止まったままだった。



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