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好きの手前と、さよならの向こう  作者: 茶ノ畑おーど
〇1章【すれちがいと夜】
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1節~先輩~ 6

沈黙が、室内の空気をじわりと押し広げていた。

時計の針が動く音だけが、わずかに空気を震わせている。


ヒロトは手元の資料を手に取るでもなく、ただ視線を落とした。

机の端に置かれた紙コップは、冷えきって曇りを帯びている。

それでも彼は、そこに目をやることで、目の前の現実から逃げた。


ほんの小さな視線の逸れ方。

けれど、それはキリカにとって、決定的な答えに見えた。


――ああ、もうダメだ。


胸の奥で、何かがかすかに音を立てて崩れる。


「せっかく逃がしてもらったのに、また自分から近づくような軽い女ですみませんでした」


その声は、まるで水面を叩く一滴の雨のように、冷たくはっきりと響いた。

震えはなかった。

むしろ、どこまでも透き通るほど、落ち着いていた。


ヒロトは眉をわずかに動かしたが、視線は上げなかった。

呼吸が止まったような気配だけが、わずかに伝わる。


自分でも何をしているかわかっていた。

口からこぼれた言葉が、刃のように鋭いことを、彼女は知っていた。

それでも止めるつもりはなかった。

わざと、傷つけようとしていたから。


こんなふうにしないと自分のことを守れないなんて、バカだと思いながら。


「でも、そう見えたんですよね? 先輩には。私が、自分から尻尾を振って、またあの人たちに近づいて、嫌な思いをして、傷ついてる頭の悪い女だって。

……どうせ私のことなんて、また面倒なやつに戻ったくらいにしか思ってないんでしょうし」


言葉を吐くたび、喉の奥が熱くなる。

それでも、止められなかった。


吐き出した言葉は、鋭いガラス片のようにヒロトの心に突き刺さり、その破片が跳ね返ってキリカ自身の内側もずたずたに削った。


「先輩って、やっぱり優しいですね」


キリカは、微笑のようなものを唇に貼りつけた。


「みんなに平等に優しくて、困ってる子がいたら、助けずにはいられない……すごい人です」


一歩ずつ、壁を積み上げるような言葉。

それが自分を守るためであることを、彼女は理解していた。

だが、自分の言葉でヒロトの表情が陰っていくのを見ても、もう止まれなかった。


そして——


「私なんかより、ちゃんと彼女さんのこと見てあげたほうがいいですよ。

……それとも、助けたら何か見返りがあるとか、思いました?」


その言葉は、室内の空気を一瞬で凍らせた。

ヒロトの肩がわずかに震え、ばっと顔を上げる。


怒りでも驚きでもなかった。

それは、胸をえぐられるような衝撃だった。


『そんなふうに見られていたのか』――

その表情には、言葉にできない信頼の崩落が浮かんでいた。


キリカの目が見開かれる。

吐き出した言葉が、想像よりも鋭くヒロトを刺したことを、彼の視線が教えてくる。

背中を冷たい汗が伝い、息が詰まった。


怯えたように、彼女は身じろぎした。


ヒロトは、再び顔をそらす。

机の影に視線を落としたまま、何も言わなかった。

言い返すことも、取り繕うこともなかった。


もう、言葉が何の意味も持たないことだけが、はっきりしていた。


キリカは立ち上がった。

細い喉が鳴る。

声を絞り出す前に、胸の奥で何度も呼吸を整えようとした。


「……失礼します。お世話になりました」


立ち上がる動作は、まるで体の芯を切り裂くようにぎこちなかった。

ドアノブにかけた手が小さく震える。

金属がかすかにきしみ、部屋の静寂をひどく際立たせる。


ドアの開閉音が、ヒロトには遠くの出来事のように思えた。

もう、耳には何も届かなかった。


——部屋には、しんとした沈黙だけが残っていた。

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