1節~先輩~ 4
会議室のドアが、静かに開いた。
反射的に視線を向けたヒロトは、そこに立つキリカと目が合う。
しかし彼女は一瞬でその視線を逸らし、そっと部屋に入ってきた。
ドアが閉まる音さえも、どこか遠慮がちに響く。
「……悪いな、時間取らせて」
ヒロトは椅子を示しながら、少し柔らかい声で言った。
キリカは無言で会釈し、椅子を引いて座る。
「……いえ。仕事ですから」
その返事は、形だけのものだった。
響きは正しいのに、音に温度がない。
ヒロトは短く笑みのようなものを浮かべたが、何も言い返せなかった。
「昨日の資料、見た?」
「はい。目を通しました」
「じゃあ、工程の変更点だけ確認しよう」
手元の資料を広げながら、ヒロトは必要最低限の説明を始めた。
キリカはうなずくでもなく、ただじっと彼の言葉を聞きながらページをめくっていく。
「……細かい仕様変更があったのは、ここと、ここの二点。山崎たちにも確認してる」
「わかりました」
キリカの返事は、まるで機械のようだった。
……なんだこれ。
ヒロトは、喉の奥にひっかかるような違和感を覚えた。
その冷えた態度の先にあるものを、考えずにはいられなかった。
あの日の夜――あの飲み会で笑った表情も、交わした会話も、まるで幻のように消えている。
いや、消えたのではない。
自分が中途半端にして、守りきれなかったから、あの距離まで戻ってしまったのだ。
わかっているつもりだった。
けど、それでも、完全に納得はできなかった。
「……で、どうしたんだ? 病み上がりでしんどいか?」
その一言が、引き金になった。
キリカの手がぴたりと止まる。
数秒、無言で目線だけを落としたまま、彼女は何かを噛み殺すようにしていた。
――誰のせいで。
声にはならないその言葉が、ヒロトの耳に痛いほど突き刺さる。
彼女の胸の奥で渦巻く感情を、無視することなどできなかった。
「……別に、大丈夫です」
小さな声。
けれど、そこには硬い壁のような冷たさが混ざっていた。
ヒロトは思わず口を閉じる。
言葉を継ごうとしたのに、何も言えなかった。
——あの夜。
助けられたと思った。
救われた気がした。
けど、それはただの思い込みだったんだろう。
歪んだキリカの目に映るヒロトは、気まぐれで動き、結果としては何もしなかった人間にすぎない。
会議室の中、妙な静けさが落ちた。
ヒロトが紙をめくる音さえも、余計な雑音に思えた。
このまま会話を続けても、きっと、噛み合わない。
けれど、ここで終わらせてしまえば、もう取り返せない気がする——
そう思ったとき、キリカの方から、ぽつりと口を開いた。
「……先輩って、優しいですね」
その言葉には、皮肉も、怒りも、感じ取れた。
でも、ヒロトの知る中で、それにもっとも近い感情は——失望だった。
唐突な言葉に、ヒロトは思わず視線を上げた。
キリカは資料から目を逸らし、ただまっすぐに彼を見ていた。
けれど、その目には感謝も柔らかさもなかった。
冷たく、淡々としていて、それでいてどこか——怒っていた。
「……どういう意味だ?」
ヒロトは、慎重に言葉を選んだ。
けれどキリカは、それに答えず、少し間を置いてから口を開く。
「どんな人にも、ちゃんと気遣いして、平等に接してくれて。困ってたら、誰にだって優しくして、颯爽と助けて……」
そこまで言って、ふっと笑った。
笑ったといっても、愉快そうなものではない。
皮肉のにじんだ、乾いた笑いだった。
「すごいですよね。そういう『できる大人』って」
ヒロトの眉がわずかに動いた。
「……お前、何が言いたいんだ?」
思わず、声に圧が乗る。
けれどキリカは怯まない。
むしろ、何かを押し殺すように、次の言葉を継いだ。
「なんでもないです。ただ……体調崩した翌日に、病み上がりでしんどいかって聞けるのも、すごいなって」
「……それは、心配で——」
「仕事だからって来たのに、そんなこと言われても、困ります。しんどいって言ったら、こんなふうに呼び出したりしなかったんですか?」
ヒロトが言葉を作る前に、キリカは遮るように言った。
ーー違う。違うのに。こんな言い方したいんじゃないのに。
キリカは心の中で呟いた。
喉の奥で飲み込めなかった言葉が、氷みたいに冷たく、刃みたいに尖って飛び出す。
頭の中ではブレーキを踏んでいるのに、喉から出てくる言葉は、どうしようもなく冷たくて、トゲがあって。
「私は……別に、特別扱いしてほしいなんて思ってません。
でも、中途半端に正義感を振る舞われるくらいなら、いっそ放っておいてくれたほうがマシです」
ヒロトの目が、見開かれる。
怒っているわけじゃない。
驚いて、混乱して、そして……少しだけ傷ついたような顔。
その顔を見た瞬間、キリカの胸がきゅっと締まった。
こんな表情をさせるつもりじゃなかったのに。
けれどもう止まらない。
ここで黙ってしまえば、自分が彼に八つ当たりしている事実を認めることになる気がして。
弱さを見透かされ、同情されることが、なによりも怖かった。
「心配とか、優しさとか……そういうの、都合よく向けないでください」
ぽつりと落ちたその一言が、ヒロトの胸に静かに刺さった。
言葉に詰まりかけたヒロトが何かを言おうとしたとき、
キリカは椅子の背にもたれ、視線を外してしまった。
会議室の空気が、急激に冷え込む。
窓の外では日が差しているのに、この部屋の中だけが、異様に静かだった。
——何もかも、ズレている。
本当はもっと、ちゃんと話したかっただけなのに。
でも、キリカの声はもう戻らなかった。