2節~ほんの数秒のためらいに~ 22
『じゃあ、その部下の子の心を開けたのは、半分くらい私のおかげ?』
通話が始まって三十分近くが経った頃。
ふいにヒカリが、少し得意げな声で言ってきた。
「……ああ、半分はな」
ヒロトが笑いながらそう返すと、
『もう半分はひろくんの功績なんでしょ。わかってるから』
呆れたようなヒカリの声。
なんでもない会話。
でも、昔と変わらないテンポ。
思わず、ふたりともくすっと笑ってしまう。
友達同士でいいなら…普通に会ったりできそうなんだけどな。
ベッドに体を預けながら、ヒロトはふとそんなことを思った。
でも——
『ねぇ、じゃあそのお返しに、お願いごとしてもいい?』
ヒカリの声のトーンが、すっと少しだけ下がる。
その予感に、ヒロトは小さく息を呑んだ。
「なに?」
『……なにか用事がなくても、LINEしていいかな? 報告…みたいな』
ヒロトがさっき思ったことを、そのままなぞるように。
ヒカリの声には、少しの緊張と、震えるような期待が混じっていた。
それが、彼女の望んでいるものの答えだと、痛いほど理解していた。
「……ああ、もちろん」
そう言いながら、ヒロトは自分で自分の太ももを拳で叩いた。
音は響かない。けれど、鈍くて重たい痛みが、ヒロトの中に沈んだ。
この選択が、現状が、ヒカリのためになってないことは十分に分かっていた。
だけど、突き放すことのほうがずっと怖かった。
『やったぁ…えへへ』
心底嬉しそうなヒカリの声が響いて、ヒロトはまた一つ、言い訳を積み上げてしまった気がした。
『あっ、そうだ。私も明日、酔っ払いになってきまーす』
話題を切り替えるように、ヒカリが明るく言った。
ヒロトは、着替えもせずベッドに座り込んだまま、声を上げた。
「飲み会か? 珍しいな」
『うん。ちょっと……断りきれなくて』
「……ふーん」
気のないような返答をした自分に、少しだけ違和感を覚えた。
それはヒカリにも伝わったらしい。
『一緒に行くの、みんな女の子だけどね』
「……ふーん」
『……もしかして、男の人と行くんじゃないかって思った?』
その言葉には、ほんのわずかに確信めいた期待が滲んでいた。
気にしてくれてたらいいなという願いが透けて見える。
「まぁ……ヒカリはモテるもんな。昔から」
何と答えればいいのか悩み、結局、そんな曖昧な答えしか返せなかった。
でもヒカリは、その言葉に嬉しそうに笑った。
『ふふっ、そうだったらいいんだけどね』
その笑い声に、何とも言えない悔しさがこみ上げてきて、ヒロトは手元の缶チューハイをつい手に取ってしまった。
プシュッという音が響く。
『えっ! まだ飲むの!?』
「……いいだろ、今日くらい」
口をつけながら、窓の外の夜景をぼんやりと眺める。
『も〜、二日酔いになっても知らないからね』
ヒカリの叱るような声が響く。
そのやりとりに、ヒロトは少しだけ笑ってしまう。
……まるで、昔に戻ったみたいだった。
あの頃の『ちゃんとした二人』に。
だけど。
今はもう違う。
戻らないと分かっているからこそ、情に流されてはいけないのに。
それでも――突き放せず、優しくしてしまう自分が、いちばん厄介だと思った。
◆
結局、その夜はヒカリとの通話が長引いて、翌日の午前中に予定していた麻衣とのWebミーティングには大寝坊。
最悪のコンディションで怒涛の説教を食らう羽目になったのだった。
「……マジで反省してます」
「……もう! 社会人何年目だと思ってるの、中町くん!」
麻衣の怒号が響いた日曜の朝——
頭痛に悩まされる情けない男は、まだ何も知らないまま。
そして、
あの夜の彼の選択が、
誰かの心を深く、傷つけてしまうことになるのは——
もう少しだけ、先の話だった。
第1章【始まりと予感】 終
ようやく、序章が終了になります(長い……!)。
ここから本編に入っていきますので、
不器用でじれったい彼らの行く末を、温かく見守っていただけると嬉しいです。
※8/12の更新はお休みになります。




