2節~ほんの数秒のためらいに~ 19
ドアを閉めた瞬間、さっきまでの笑い声が嘘みたいに消えた。
廊下は嘘のように静まり返っていた。
ドリンクバーの前に立ったキリカは、胸の奥に溜まっていた息をひとつだけ吐き出した。
アイスティーの注がれる音が、冷たい水滴のように空気にしみ込んでいく。
さっきまでの部屋は賑やかで、楽しかったはずだ。少しだけ肩の力が抜けたような気がした。
それでも、あの輪の中に完全に溶け込むには、まだ時間が必要だと思った。
ほんの少しだけ、ここで休んでから戻ろう――そう決めたとき。
「明坂ちゃ〜ん!」
背後から突然かかる声と同時に、肩へずしりと重みがのしかかった。
振り向く間もなく、左右から腕を回される。空気が、急にうすくなる。
「俺らの部屋きてよ〜」
「男だけだと寂しいんだって、ほんと」
「部屋、もう一個とっちゃう? キリカちゃん専用でさ〜」
喉が動かない。息が詰まっていく。否定したいのに、声にならない。
笑い声が耳の奥をざわつかせる。背中をじわりと汗が伝う。
体が囲まれるような感覚に、どこにも逃げ場がない。
視線は前へと固定され、足がすくんだ。
「明坂ちゃんってさ、スーツ似合わないのがいいんだよね〜」
「そうそう、なんか……アンバランスっていうか、制服プレイ的な?」
「わかる、わかる~! 社会人感ないよね!」
その言葉に肩が跳ねた。
似合わない。
――似合わない。
その声が、心の奥を何度も打つ。
じゃあ、私は何なんだろう。
背筋を伸ばしているのは見せかけで、社会人らしく振る舞っているつもりなだけ。
結局は子ども扱いされ、笑われ、からかわれる存在でしかない?
胸が締めつけられ、視界がにじむ。
冷たい手の感触が、肩から腰へと、ぞわりと滑った。
「や……っ」
押し殺した声が空気に溶けて消える。
そのとき、脳裏にヒロトの姿が浮かんだ。
あの穏やかな眼差し、あのときの救い。
けれど――今、彼はいない。
助けてほしいなんて言えない。言える立場じゃない。
また、都合のいいときだけ誰かを頼って、情けない自分を晒して……。
そう思うほど、胸の奥が冷たくなった。
涙が滲む。悔しさじゃない。情けなさが、頬を濡らそうとしていた。
ヒロトの背中が、遠くに見える。
麻衣と並んで帰っていった横顔が、記憶に焼きついたままだ。
助けてなんて言えない。言えないくせに、来てほしいと思ってしまう。
だから、最初から期待なんてしなければよかった。
そう思った瞬間、足元がふらついた。
そのとき――
ドリンクバーの明かりが、誰かの影でふっと遮られた。