2節~ほんの数秒のためらいに~ 6
「すみませんでしたー!!」
遠くのテーブルから、妙に通る倉本の声が響いた。
店内のざわめきの中でも、それだけははっきりと聞こえた。
「……また倉本がバカやってるよ」
隣にいた女子社員のひとりが笑いながらつぶやく。
「ほんとあの人、変わらないよね〜」
「同期の中でも、あれは異端だと思う」
笑い合うその輪の中で、キリカはグラスの水を指でなぞっていた。
……楽しそうだな、先輩たち。そんなことを心のどこかで思いながら。
視線の先――少し離れたテーブルでは、
ヒロト、麻衣、先輩の女子たちが談笑しているのがちらりと見えた。
あの輪の中に自分がいたら、ヒロトの隣で、どんな顔をしていたのだろう。
そんなことを考えた自分を、すぐに打ち消す。
自分で決めたことなのだから、とより一層の意地を張る。
「なになに〜? ちょっと明坂ちゃん、笑ってた?」
井口が身を乗り出してくる。
「……いえ。倉本先輩が声大きかったので、つい」
「おお、反応してくれた! レアだね!」
「いやいや、最近だとけっこう明坂ちゃん喋ってくれるよね」
「うん、なんかチームの頃より柔らかくなった感じ」
前のチームで一緒だった女子たちが、口々にそう言ってくれる。
その言葉に、キリカは小さく笑ってみせる。
……優しいな、と感じた。
だからこそ、前のチームで上手く話せなかったことに、どこか申し訳ない気持ちになった。
「ていうか明坂ちゃん、今のチームどう? 先輩たち、怖くない?」
「えっ、誰のこと言ってんの? まさか中町さん?」
「ちょっと無口なときあるけど、基本優しいよね〜、あの人」
「むしろ女子たちが強すぎて大変そうだけど」
そんな話題が飛び交う中、キリカは笑顔を貼りつけながら相槌を打っていた。
優しい、という彼への評価を心の中で反芻する。
たしかに、そうだと思う。
麻衣も、ちひろも、しおりも、すみれも。
それにヒロトも、自分を遠ざけようとしたことは一度もなかった。
――なのに。
与えられた優しさに、後ろ足で泥をかけて逃げ出したのは誰だ。
笑い声が響く中、グラスの中身はいつの間にか半分になっていた。
誰かが頼んだポテトの皿が回ってきて、ふと手を伸ばす。
「明坂ちゃん、なんか追加で頼む?」
「あ、いえ、大丈夫です」
そう……大丈夫、のはずだった。
楽しそうなはずなのに。
笑っているはずなのに。
キリカの耳には、なぜか別のテーブルの声ばかりが響いてくるような気がしていた。
ヒロトが笑っていた。
ちひろが何かツッコミを入れて、すみれがそれをなだめるように話していた。
何でこんなにも気になるのか、自分でもよく分からなかった。
目の前にいるはずの居心地のいい人たちよりも、あのテーブルの声が、遠くて、近い。
グラスを持つ手に、ほんの少しだけ力が入った。
でも今は、まだ笑えている。
今は――まだ、大丈夫。
ただ、その余白が少しずつ削られていく気配を、キリカ自身も、うすうす感じていた。