1節~初めまして、よろしくお願いします。~ 13
「……ふわぁ……」
大きく欠伸をひとつ噛み殺しながら、ヒロトはオフィスに入った。
マグカップに注いだコーヒーの香りが、今日はいつもより沁みる。
結局、彼らはあのあと深夜まで話し込んでいた。
通話を切ったのは、気づけば二時を回っていたことに気付いたから。
内容は取り留めもなかったはずなのに、いつの間にか時間が溶けているような感覚だった。
「……どうしたの。やけにダルそうじゃない?」
声をかけてきたのは、デスクを回ってきた麻衣だった。
腕組みしたまま、じとっと見下ろしてくる目が、やけに鋭い。
「いや……ちょっとな」
ヒロトは肩をすくめて言葉を濁す。
けれど麻衣は、ほんの数秒で答えにたどり着いた。
「あっ……もしかして、ヒカリちゃん?」
「……なんで分かるんだよ」
「中町くんの寝不足って、だいたい感情が絡んでるときだから。で、そうなるともう答えはひとつ」
どや顔を決める麻衣に、ヒロトは苦笑を浮かべる。
「はいはい、名探偵。まぁ……電話が長くなっちゃってさ」
「ふーん……なんか、中町くんからヒカリちゃんの話聞くの、久しぶりよね」
その一言に、ヒロトの胸がギクリと揺れる。
本人は何気ない軽口のつもりだろうが、鋭すぎて逆に怖かった。
「ま、ラブラブそうならよかった。……仕事中に居眠りでもしたら、許さないけどね」
にこ、と笑って去っていく麻衣。
その笑顔は柔らかく、口調も冗談めかしているが――ヒロトは知っている。あれは、一ミリも冗談ではない顔だ。
◆
「やれやれ……」
肩を回しながら、ヒロトは何気なく視線を巡らせる。
そこでふと、ほんの一瞬だけ、気まずそうに顔を背けたキリカと目が合った。
おそらく、今のヒロトと麻衣の会話に聞き耳を立てていたのだろう。
表情には出さない。
でも、わかりやすく耳がピクリと反応していた。
「よう。おはよ」
「……おはようございます」
ちょっとだけ返事が遅れた。
いつもと違う反応というだけで、それだけでも少し距離が近づいたような気がしてしまうのは――たぶん、気のせいだ。
と、そこでヒロトは昨日のヒカリとの会話を思い出す。
キリカをリラックスさせるために、仕事以外の会話の間口を広げてみよう、というものだった。
ヒロトは自然を振る舞って自席に腰を下ろすと、隣でスマホを見ているキリカに声をかけた。
「そういえばさ、明坂って、家でもコーヒー派?」
「……紅茶です」
「へぇ、なんか意外だな」
「どういう意味ですか」
「いや、なんかこう……仕事じゃなくてもシャキッとしてるイメージがあるから」
「……べつに、そんなことありません。想像で判断しないでください」
……うーん。と、ヒロトは内心で唇を尖らせる。
「じゃあ、週末とか何してんの?」
「寝てます」
「え、ずっと?」
「起きたら掃除して、必要なことを済ませて、また寝てます」
「それは健康的……なのか?」
「悪いですか?」
……なんだか、全部撃ち落とされてる気がする。
そんなことを思いながら、ヒロトはなんとか話題を探す。
「そういえばさ、明坂って猫派? 犬派?」
「……あの」
キリカがぴたりとスマホを叩く手を止めた。
「これ、仕事に関係あります?」
まさに、一刀両断。
ヒロトは、わずかに目を細めて、天井を見上げた。
横で、キリカがほんの一瞬だけ、自分の吐いた言葉に小さく口元を噛んだような気がしたが、確認する余裕はなかった。
「……ごめん、仕事には関係ないな。全く」
短く言って、モニターに向かう。
心の中では、自分のふがいなさと、気恥ずかしさとで、ため息が渦を巻いていた。
それでも、こうして話が続くようになっただけでも、少しは前進かもしれない。
そう言い訳のように思いながら、ヒロトは黙ってマグカップを口元に運んだ。
冷めかけたコーヒーの苦味が、やけに優しかった。