1節~初めまして、よろしくお願いします。~ 12
『……ふふっ』
電話の向こうで、ヒカリが柔らかく笑った。
その音が、ノイズまじりに耳の奥をくすぐる。
「……なんだよ」
『ううん。……ひろくんの声だ〜って思って』
「そりゃ……違ったら怖いだろ」
『だよねぇ。ふふふっ』
なんてことのない会話。
それだけなのに、やけに嬉しそうな声だった。
懐かしいやりとり。
柔らかい笑い声。
電話越しでも、彼女の顔が浮かんでくる。
声のトーン、呼吸の間合い、言葉の選び方――全部が変わっていない。
聞けば聞くほど、胸が詰まって、息がしづらくなる。
そう思うのに、電話を切る勇気は出なかった。
「……実はさ、最近、ちょっと困ってることがあって」
ヒロトがようやく口を開いた。
「部下のことで、イマイチうまくいってなくてさ。注意すれば反発されるし、何も言わなければ空気が重くなるし。
……なんか、俺のほうが気を遣いすぎてるのかなって気さえしてくるんだよ」
ヒカリは少しの沈黙のあと、穏やかに口を開く。
『うーん……。その子、すごく不器用な子なんじゃないかな』
「……そうかもな。悪気があるわけじゃないのは分かる。
仕事もできるし、筋はいい。でも、噛み合わないというか。俺の言葉が、全部届いてない気がしてさ」
『……そっか』
ヒカリは、ゆっくり言葉を噛んで続ける。
『ひろくんって、雑に見えてほんとはすごく真面目だよね。相手のこと、ちゃんと見ようとするし、うまくやろうって思ってる』
「……そうかもな」
『でも、自分から距離を詰めるのは、ちょっと苦手。……でしょ?』
「……ああ」
『だから多分、相手も戸惑ってるんだと思うよ。どこまで許されるのか、どこまで近づいていいのか。それが分からないから……変に強がるしかなくなっちゃうんだと思う』
少し間を置いてから、ヒロトはふっと息を漏らすように呟いた。
「なぁ……もしかしてさ。俺が『強がられてる側』って話じゃなくて──
実は、俺が『強がってる側』だって言いたいのか?」
『ふふ。さあ、どっちだと思う?』
ヒカリは笑って、曖昧に首を傾げた。
けれどその声には、確かに『答え』が滲んでいた。
ヒロトは黙ったまま、目を閉じた。
ヒカリの声が、楽し気な柔らかい笑い声が、静かに染み込んでくる。
「……今度、飲み会があってさ」
ヒロトがふと話題を変えるように言ったとき、ヒカリの声のトーンがほんの少しだけ変わった。
『……そうなんだ』
心配そうな、でもどこか遠慮の混じった反応。
『……飲み過ぎちゃだめだよ』
言葉に棘はなかった。
ただ、それが自分にはもう、言う資格のないことだと分かっているような――そんな声音だった。
「……ああ、気をつけるよ」
ヒロトの返事も、どこか苦笑を含んでいた。
ヒカリはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、カップに指を添えたまま、目線を落とす。
その沈黙が、やけに長く感じられた。
距離が近すぎた頃には気づかなかった『間』が、今はあまりにも静かに、そこにある。
◆
「助かったよ。悪かったな、こんなことで」
時刻は既に二十二時を回っていた。
そう言って、スマホの画面を見ながら、ヒロトは通話を切ろうとした。
けれど――その直前、ヒカリの声が重なる。
『ううん、全然! ……でも、ね。もうちょっとだけ……』
ヒロトの手が止まった。
画面に浮かぶ赤いボタンに、指が触れる直前だった。
『もうちょっとだけ、ひろくんとお話したいな』
甘えるような声だった。
でも、そこにはどこか、寂しさがにじんでいた。
それを聞いた瞬間、ヒロトは心臓がぎゅっと握られるような感覚に襲われた。
ずるいな、と思う。
それでも、無碍にできないのは、自分がまだ――
……いや。
考えかけて、ヒロトは静かに息を吐いた。
「……わかったよ。俺だけ頼み事っていうのも、フェアじゃないしな」
『ふふっ。やったぁ。ひろくん、優しいもんねっ』
――優しい。
その言葉が、今の自分にとって本当に当てはまるのか、ヒロトには分からなかった。
ただ、電話の向こうで、ヒカリの笑い声が静かに響いていた。
柔らかく、昔のままの響きで。
その夜は、いつもより少し長く、少し静かに――更けていった。