1節~初めまして、よろしくお願いします。~ 11
夜。
外の喧騒から切り離された自室のソファの上で、スマホの画面を開いたまま、ヒロトはしばらく動けずにいた。
指が、何度も入力と削除を繰り返している。
言葉を探しては消して、また探して――そして、ようやく短く打ち込む。
『今、ちょっといいか?』
要件も、挨拶も、何もない。
けれど、既読のマークがつくまでに、そう時間はかからなかった。
『うん、大丈夫だよ~。どうしたの?』
変わらない口調が、文字越しに届いた。
優しい。でも、その優しさの裏を、今のヒロトはなんとなく想像できた。
メッセージの相手は、白石ヒカリ。
『いや、部下のことでちょっと……うまくいかないことがあって』
『部下……その子、女の子?』
「やっぱバレるか」ヒロトは苦笑を浮かべた。
ヒカリの鋭さは、昔から変わらない。
一見ぼんやりしてるように見えて、本質を見抜くのが異様に早い。
『……うん。ちょっと距離の取り方が難しくて。
放っておくわけにもいかないし、かといって注意すると余計にこじれるっていうか』
『ふーん。ひろくんがそんなに悩むのって、珍しいね』
その言葉が、少し胸に刺さった。
そう。
らしくない。――麻衣にもそう言われた。
自分でも分かってる。
本来ならこんなことでこんなに悩まない。
割り切って、上手くやり過ごすのが、いつもの自分のはずだった。
それなのに、今日も。
悩むどころか、ヒカリにまで相談して――。
と、画面に新たな通知が届く。
『う〜ん、文字だと伝えづらいかも。ひろくん、今大丈夫だよね?』
「えっ」
まさか――と思うより早く、スマホが震えた。
着信。
画面には、懐かしい名前が光っていた。
ほんの数秒、指が止まる。
出るべきか。出ないべきか。
ここで声を聞いてしまったら、きっと……。
「…………」
でも、ヒロトは――その電話を取ってしまった。
「……もしもし」
『……久しぶり、だね』
静かな声だった。
耳元から伝わるような、あの独特の柔らかいトーン。
ほんの少しの空気の揺れも、懐かしさの中に混じっている。
その瞬間、ヒロトの胸の内が、ぐわん、と音を立てて揺れた。
過去に戻りたいわけじゃない。
でも――戻れるかもしれないという想像が、こんなにも心を掻き乱すものだとは、思っていなかった。
今、誰よりも遠くにいたはずの人と、
一番近い場所で、声を交わしている。
それが、今のヒロトにとって、どれだけ『らしくない』ことだったか――
それでも、声を聞いた瞬間、そんな理屈はどうでもよくなっていた。