1節~初めまして、よろしくお願いします。~ 1
※基本的に【1000~2000文字程度】で毎日20:30更新予定です。
ストーリーや展開等、色々と試行錯誤しながら執筆していますが、楽しんでいただけると嬉しいです。
社員証をかざして、センサーが鳴る。
自動扉が開く音とともに、乾いたオフィスの空気が出迎えた。
いつもより早く着いたはずの朝。
だが、もう何人かの社員が席に着いて、静かにキーボードを叩いていた。
彼は会釈をしながら、自席に向かう。
淡い木目調のデスクの上、昨日置いて帰ったマグカップと、整然としたPCの配置。
その整いすぎた光景に、ふとした虚しさを感じるのは――たぶん、今日が初めてじゃない。
中町ヒロト、27歳。
エルクス・リンクに入社して5年目。
プロジェクトチームの中核を担う、現場の主軸。
後輩からの信頼は厚いし、同期からも頼りにされている。
「中町さんがいれば安心」――そんな言葉を何度も聞いた。
けれど、その言葉の裏にある期待の重さに、気づいていないふりをしている自分もいる。
彼がこの会社で過ごしてきた時間は、濃密で、そしてどこか麻痺していた。
頑張る理由なんて、最初から一つしかなかった。
ただ――好きな人と過ごすための時間に、ちゃんと向き合いたかったから。
彼女の名前は、白石ヒカリ。
ひとつ年上で、笑顔が似合う、世話焼きで、ちょっと天然な女の子だった。
にこにこと、無害を振りまき人を引き寄せる空気感の裏に潜む、芯の強さや鋭さに、ヒロトは何度も関心したものだ。
……彼らが『恋人』として付き合っていたのは、もう二年以上前のことになる。
お互いに社会人としてスタートを切ったばかりで、慣れない仕事に追われる日々。
すれ違いは、最初は些細なものだった。
けれど、ヒロトが『いつも通り』と思っていたことが、ヒカリには『雑』だと映っていたことに、彼はずっと気づけなかった。
「そんな言い方、されると傷つくよ」
そう言われても、ヒロトはその場をやり過ごすだけだった。
仕事で余裕がないからという言い訳を、彼女にぶつけていたこともあった。
自分が仕事を頑張ることで、きっとそれが幸せな二人の未来に繋がると、かつての彼は本気で信じていた。
今思えば、それはただ、彼女と正面から向き合うことから逃げるための言い訳だったのかもしれないが。
問題を直視するのが怖かった。
今じゃなくても、いつか向き合えばいい。
そう思っていた矢先に、ヒカリはヒロトのもとを去った。
静かな別れだった。
泣きわめくでもなく、責めるでもなく。
ただ「もう、無理だと思う。……ごめんね」とだけ言い残して、去っていった。
目の前が真っ暗になるとは、こういうことかと、あのとき初めて思った。
床が崩れるような錯覚に襲われて、自分が何のために頑張っていたのか、全て分からなくなった。
ただ、「最後に謝るなんて、ヒカリらしいな」なんて、呑気な感想が出てきたことだけは覚えていた。
その感覚は今でも、時々、夢に出てくる。
◆
ヒカリから連絡が来るようになったのは、別れてから一年が経とうかという頃だった。
最初は、『元気にしてる?』という短いメッセージから。
たわいもないやりとりだった。仕事の話、好きだったカフェのこと、ふと聴いた音楽の話。
ヒロトは、それが“天から垂らされた一本の糸”のように思えた。
けれど、やりとりの中で、『またご飯でも行かない?』という言葉が混じるようになった頃――
ヒロトは、自分の中で何かが引っかかっていることに気づいた。
会いたいと思わないわけじゃない。
ヒカリの声を、笑顔を、また見たいと思う瞬間もあった。
けれど、それは“懐かしさ”であって、“未来”ではないのかもしれない。
気づけば、『今ちょっとプロジェクトが忙しいから、また連絡するよ』とだけ返していた。
本当は、理由なんて分からなかった。
ただ――また同じことを繰り返す気がして、あの時の記憶と、喪失感とが蘇るような感覚に、足がすくんだのかもしれない。
彼女が、まだ自分を想ってくれていることは分かっている。
文章の端々から滲む寂しさも、彼女の抱える後悔も、薄々感じていた。
けれど、自分がその気持ちに応える準備ができていないこともまた、痛いほど分かっていた。
朝、スマートフォンの通知を見た。
『おはよう。嫌な夢、見なかった?』
ヒカリからのメッセージ。
今日もまた、いつものように――優しい言葉だけが、あの頃の記憶と、簡単に再生される柔らかい音声を伴って、ヒロトの心に静かに落ちていく。
彼は、キーボードを打つ手を止めて、スマホの画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
返信は、まだ打たれていない。
そんな朝の始まり。
ヒロトの前に、ある一人の新しい後輩がやってくる。
黒髪を高く結んだ、どこか生意気そうな眼差しの――明坂キリカという名の小さな存在が。