第三話「イブラヒム・セック」
「打ち上げまでTマイナス30秒!」
「船長!ハイガーデン・デッキに人がいます!」通信士が悲鳴の様な声を上げた。
セントラル・デッキの中央にスフィアホログラムが展開され、50層からなるノアズアークの断面図が表示された。その上から10番目に当たる特権階級区域「ハイガーデン・デッキ」が拡大され、映像に切り替わる。
そこは上級居住者専用の人工庭園が備わったリラクゼーションエリアで、普段は人口太陽パネルに照らされて青々とした芝生が広がる、現代人からすれば夢の様な空間なのだが、今は非常灯に切り替わっている為、夜の公園の様になっていた。
そこに1人の老人が、周りに白いスーツを着た5人のクローン素体をまるでガードマンの様に立たせて、ベンチに腰掛けてワインを飲んでいた。
マネキンの様な顔立ちのクローンに守られて、優雅に軽食を楽しんでいる。この荒廃しきった地球で最も政財界に顔が利く人物とされる、財閥系コングロマリットの頂点に立つ企業王、イブラヒム・セックだった。
60代。男性。アフリカ人。真っ白な髪。真っ白な顎鬚。真っ白なスーツで暗がりの公園の中、軽食を楽しんでいる。
「イブラヒム。すぐ打ち上げになります。所定の位置に戻り固定ベルトを閉めて下さい。」スクリーン越しにゼノンが慇懃に注意を促す。その声はスピーカを通してハイ・ガーデン全体に響き渡った。
イブラヒムは少し顔を上げて、「ここのボスは君だ。だがしかし私は誰よりもこの船の建造に貢献した者だ。この船内での自由も買ったんだ。好きにさせてもらうよ。」そう言って側のサンドイッチに手を伸ばしている。全く応じる気配はなかった。
「ワインをこぼさない様に。」それだけ言ってゼノンは映像を切った。「エネルギー王」とも呼ばれたこの老人の所業はこの時点で船長の管轄外になっていた。
もとより自己の利益の為、地球環境の悪化を加速させる様な政策を裏で推し進め、賄賂や政治工作で都合良く政府を動かし、多くの地域を住めない状態に追い込んだ張本人である。転んで怪我をしても誰も気にしないだろう。
それに何かあっても周りのクローン、通称「シャドウズ」が何かしらカバーするはずだ。
クローンの運用はアマミヤ博士が開発したニューロメモリと呼ばれる意識転送装置のおかげで劇的に効率化されていた。
クローン素体は倫理上、個人が特定される様な作り方が禁止されていた為、原則として40代の男女のボディを基にして、個性のない形で製造されていた。
性格づけは法律上禁止されており、ニューロメモリが差し込まれない限りクローン素体は持ち主の傀儡にすぎない。
ニューロメモリが世に出る以前のクローン化は全てニューロゴーグルを経由して、手動でデータ入力を行なっていたのだが、入力ミスやデータ漏洩が付きものだった。
しかしニューロメモリが登場してからは、データの吸い出し、書き込みが自動的に一括で行われ、意識のデータ化を安全に取り行うことができたので、転送に伴う事故やトラブルを起こす事なく人のクローン化ができる様になっていた。
その後、現在の年齢と差異が生まれない様に全身整形を受けて、本来の姿に作り変える事が義務化されていたのだ。
イブラヒムはその莫大な財産を全て自分の予備クローンに注ぎ込み、自身も特注の腕輪型ニューロメモリを左手首に常時装着して、自分の身に何事があっても直ぐにクローン素体に移行できる生活を送っていた。今の体は6体目である。最早他人が心配する必要はなかった。
「救急ドローンを準備しておきますか?」ミランが聞く。「いらん。」即答するゼノン。
「打ち上げ10秒前です。」リルの声を聞いてミランもこの老人を無視する事にした。
「Tマイナス10秒!9、8、7、6、5、4、3、2、1、リフトオフ!」
地面が蒼白い燐光を放つ。鈍い地響きが聞こえた次の瞬間、耳をつんざく轟音と共に大爆発が起こった。爆炎は一瞬で宇宙船を飲み込み、まるで宇宙船そのものが爆発したかの様な錯覚を招く。
だがそうではなかった。四隅に取り付けられたブースターと宇宙船の底面にびっしり設置された4,000基のスラスターノズルから、実に合計240ギガニュートンに及ぶ推力が噴出され、総質量600万トンの巨体がゆっくり浮き上がる。
スラスターの爆音が更に強まり、四方に衝撃波が走る。せっかくオメガアポフィスの爆発を逃れた人々もこの爆発に巻き込まれ、強烈な熱波で瞬時に蒸発してしまった。
推力を増した宇宙船はそのまま真上に上昇していく。凍てついた大地も瓦礫と共にふきとばされ数年ぶりに黒い地面を見せていた。
爆風の直撃を免れた人々も視界が歪み焼ける程の閃光、そして鼓膜が破れる程の轟音にただうずくまるしか出来なかった。
重力の戒めを打ち破り加速を続ける方舟級宇宙船「ノアズアーク」は長い炎をたなびかせ成層圏を目指す。100km四方の空が燃え、大気が震える。発射場からはるか離れた人々にも、この振動が伝わる。
遅れて宇宙船が吐き出す轟音と熱波も体で感じられる様になった。それは数年ぶりに感じる暖かい風となって人々の冷え切った体にまとわりつく様に撫で回したが、誰もその感覚を懐かしいとは思えなかった。
「我々は見捨てられた。」その絶望感と共に、空へと消えていく宇宙船を眺めるしか出来ないでいた。
雷鳴が轟く中、呆然と見上げる視界の至る所で細長い炎と煙を残しながら、幾つもの「方舟」が雲を突き破り、やがて、姿を消した。
後にはただ燃え尽きて、今ではもう凍りついた星条旗が突風に震えているだけであった。
第四話に続く