第二話「ゼノン・アマミヤ」
「打ち上げまでTマイナス300秒!」リルの声が珍しく緊張気味に、船内のセントラル・デッキに響き渡った。
いくら人工超知能と言えども、方舟級と言う前代未聞の大きさを誇る宇宙船の打ち上げ、しかも絶対に失敗が許されないこの状況下では自然と気持ちが強張るものなのか。
打ち上げ直前の緊張した空気の中、スクリーンに映し出されている凄惨な光景を凝視したままエレナ・ローウェルはまるで見当違いの事を考えていた。
彼女がいる方舟級宇宙船「ノアズアーク」のセントラル・デッキには現在、巨大なスクリーン上でエドワーズ空軍基地に設置された宇宙船に無理にでも乗り込もうとする群衆の狂気の姿が映し出されていた。
それはまるで黒い津波が押し寄せる様で、先程から降り注いでいるスーパーボルトと巨大な雹の塊に撃ち抜かれながら絶望的な行進を続けていた。
「どうしたって乗れないのに哀れなもんだ。」エレナの隣でノアズアーク船長、ゼノン・アマミヤが船長席の背もたれに背中を押しつけながら鼻を鳴らして言った。
ゼノン・アマミヤ。方舟級宇宙船「ノアズアーク」船長。日本人にしては大柄な体格を誇る40代男性。エクピロシス計画の発案者トウコ・アマミヤの夫であり、たったそれだけの理由で確固たる地位を得ている。
実際、彼の経歴は不明な点が多く、まともな手段で今の職に就いたとは思われていないが、誰もその事について言及しない。
「見ろ!まるで蟻の大群だ!」冷酷な笑いを浮かべている。
映像は基地の防護壁を乗り越えて敷地内に侵入する者の姿も映していたが、船の周りに配置された軍用ロボット「ビッグドッグ」によって片っ端から銃弾の餌食になっていた。
群衆の中には武器を携帯している者もいたが、この劣悪な環境下での戦闘で生身の人間がロボットにかなう筈もなく、自然の猛威と鉛の塊に無惨にも引き裂かれるばかりであった。
「世界大戦とは言え、持つ者と持たざる者の戦いだ。初めから勝敗は決まってた様なもんだろ?」エレナの体を睨め回す様にしてゼノンは言った。
エレナが答える気がないのを察して副長のミラン・カシムが咳払いをして返事をする。
「しかし船長。彼らの目的はもはや船に乗る事ではなく船を飛び立たせない事に変わっていると言う噂です。あまり長引くと…」
言い終わらないうちに通信士から「オメガアポフィスが制圧されました!」と絶叫に近い報告が入った。
スクリーンには先ほどまで蹂躙され続ける人の群れが映し出されていたが、今やその波は防護壁を越え、ビッグドッグの銃撃をもものともせず方舟に取り付いていた。
「行け行け!ここが入口だ!搾取するしか能のない上級国民共を引き摺り出すんだ!」年老いた男性が燃えた星条旗を振りかざしながら群衆を誘導していた。
デッキ内のクルー達が騒然となる中、ゼノンだけは嘲りの笑みを見せていた。
「慌てるな。想定内だ。あっちはワザと手薄にしておいたんだからな。」その言葉に怪訝そうな表情をするミラン。
「どういう事ですか?」
「どの国も方舟を一隻作るのがやっとだと言うのに何故我がアメリカだけはない予算を絞り出して二隻も作ったと思う?」
「打ち上げまでTマイナス200秒!」リルのカウントダウンが続く。
「この船、ノアズアークにはエクピロシス計画の要となるアマミヤ博士が乗っているのだ。他の船とは違う。万が一でも失敗は許されない。どんな手段を使ってもな。」
「まさか…囮ですか?」ミランの声が震える。
「ノアズアークの乗組員は須く選抜者の中でもエリート中のエリートなんだよ。何よりも優先される。大義の為の犠牲はつきものだろうが。リル!」
スクリーンに命じるゼノン。
「自爆プロトコル作動。」リルの音声が冷たく響く。と同時にスクリーン上で数十機のビッグドッグが攻撃をやめ、その四つ足を信じられない程の俊敏さで動かし、方舟の四隅に取り付けられたブースターにしがみつく姿が映し出された。
「皆んな無事に飛べればそれに越した事はなかったんだがな。なぁエレナ。」言葉とは裏腹に相変わらずいやらしい笑みを浮かべるゼノンは今度はハッキリエレナに対して声をかけたが、彼女の目はスクリーンを見つめたままだった。
また鼻を鳴らすと「やれ。」ゼノンは冷徹に言った。
数十機のビッグドッグが一斉に爆発し、間髪入れずにブースターとオメガアポフィスそのものも一瞬で巨大な炎の塊と化した。爆風が辺りを薙ぎ払う。
方舟は瞬時に瓦解し、周辺に取り付いていた人々も炎に巻かれ塵の様に吹き飛んでいった。
この世の地獄とも呼べる悲惨な光景を、エレナは変わらず黙ったまま見つめていた。
「打ち上げまでTマイナス100秒!イグニッション!」リルの合図と共にロジャース乾湖床を覆っていた氷が粉々に砕け散り、方舟級宇宙船「ノアズアーク」が姿を現す。
全長1000m。幅300m。高さ250m。完全な長方形。全面にソーラーパネルが張り巡らされ、一見建築物の様な外観。とても宇宙船には見えないが四隅に取り付けられたロケットブースターが、これから起こる事を嫌でも想起させる。
「天候はGO。風速20ノット。南西風。」「範囲クリア。」「ロケットシステム正常。」「インジケータ全てグリーンです!」航法士やエンジニアから発射直前のチェックに関する報告が矢継ぎ早に入ってくる。
「まもなく打ち上げです。全ての乗組員は所定の位置につき、固定ベルトを着用して下さい。」リルのアナウンスが船内に流れる。全区画の人口太陽型ライトパネルが消灯し、代わりに非常灯がつく。
十万人にのぼる乗組員が皆一様に固唾を飲んでその時を待つ。
「打ち上げまでTマイナス60秒。59。58…」カウントダウンが1秒ごとに切り替わり、初めてエレナの顔に表情が生まれた。青ざめていた。
「始まるわよ…」緊張気味な声を発した事に、誰も、エレナ自身も気づいていなかった。
第三話に続く
*今回の引用元「天空の城ラピュタ」(1986年の映画)