第三章 贖罪編 第二十三話「ニュートンのゆりかご 1回目」
真空とは何もないのではなく、目に見えない粒子が生まれては消える事を永遠に繰り返している場所である。
それはまるでさざ波の様に宇宙のそこかしこで営まれ、人知れずざわめいている。
だが、方舟級宇宙船のプライマリー・リアクター、空間そのものを極限まで圧縮した重力炉ではざわめきも生まれない。
完全な虚無。矛盾した表現になるが、この空間では虚無だけが存在し、更には虚無だけが飽和した状態でもあるのだ。
宇宙船の爆発という、時空間に向けた「正のエネルギーの発散」が起こった瞬間、同時に、この過飽和状態にあった虚無も、負のエネルギーとして解放された。
逆方向に働くエネルギー。
それらが同時に放たれた今、伸びきったバネが元の位置に縮む様に、時空間の反転が始まろうとしていた。
船団の多重衝突。そして連鎖爆発は、地球の衛星軌道上に全長100kmに渡る巨大な爆炎の帯を作っていた。
3000℃を超える熱量は太陽に匹敵するほどの莫大なものになっていたが、大量の電磁波、粒子、重力波を放出しきるとやがて爆炎が持つエネルギーは均一に広がりきって勢いを無くしてしまった。
正のエネルギーが端点に達すると今度は負のエネルギーが活性化。膨張した時空間が、さざ波が引く様に引き戻されていく。
勢いを失い散り散りになった爆炎の帯が、まるで何かに吸い込まれる様にして縮んでいく。
帯状だった爆炎は寸断されて、複数の巨大な炎の塊になり、その炎もそれぞれ中心に向かって吸い込まれ、中から破壊された方舟の外郭が姿を現す。
渦巻く炎の中、破片がひとりでに集まってきて方舟を再構築し始める。焦熱地獄と化していた船内も、炎が引くのに合わせて瓦礫が元の位置に帰っていく。崩れた床は埋まり、溶けた金属が立ち上がる。
地獄の業火に焼き尽くされ、灰となった乗組員達だったが、彼らもまた、猛烈な痛みと共に意識が蘇る。灼熱に晒された神経、骨、肉体と順を成して元の姿に戻り、激痛と絶叫で我に帰る。死の淵に突き落とされた時と同じく、暴力的なまでの勢いで「生」に引き戻されたのだ。
物理的な修復が完了した船団は再び隊列を整え、燃え盛る炎は、その列を舐める様にして先導船スイユウの船体に吸い込まれ消えてしまった。
列車の様に連結していた船団は先頭から一隻ずつ、後ろ向きに引き剥がされていく。衝突して潰れた船首と船尾も、凹んだ箇所が膨らみ修復されていく。そうしてエクソダス・アームダはまるで何事もなかったかの様に、元の位置に戻った。
セントラル・デッキにいた者達は皆、お互いに顔を見合わせていた。今起こった現象が何なのか、誰か説明できる者はいないのか?そんな様子だった。
「今…私、焼け死んだ…と思ったけど…。」膝に力が入らないのか、下半身を震わせながらショウランは言った。
「そうだ…。確かに我々は炎に焼かれた。その感覚はハッキリと…か、体に…。」理解が追いつかず、最後まで言葉が出ないゼノン。
「リルです!覚えてますか!最後にリルは言った。『エクピロシス計画を実行する』と!」ミランが自分を奮い立たせる様にして大声を出した。
「ネットワーク隔離されてるはずのリルが、どうやって制御面に干渉できたのか…。」ミランの言葉を遮る様にしてマヌエルが手を上げた。
「それ以前にリルはインサイトに侵食されてたはずです。この現象はインサイトによる…いや…これは…。」何とか論理的に答えようとして結局マヌエルも言葉に詰まってしまった。
「お前ら本当に分からないのか!」狼狽える面々の間に突然、怒気をはらんだ声が割って入った。それは片隅で縛り上げられ、放置されていたヴィンセントだった。
「エレナだよ!あいつの仕業だ!エレベーターの映像を忘れたのか!あいつほど怪しい奴が他にいたか!」手足を縛られて芋虫の様にのたうち回りなが、それでも喋るのをやめない。
「お前らずっとあいつを探してたんだろ!それが急に姿を現したと思ったらこんな訳のわからない現象が起きたんだ!あいつだ!犯人はあいつなんだよ!」
いつの間にかコンソールにはスフィアホログラムが展開されており、そこにはVIP専用エレベーターの映像が映し出されていた。そこにいるのは…。
「エレナ!」全員が声を上げた。だだっ広い空間に1人、今までどこにいたのか、エレナ・ローウェルが立っていたのだ。彼女を乗せたエレベーターは上昇を始めていた。セントラル・デッキを目指している。
「…待て待て!これはついさっき体験したぞ!」ゼノンが声を震わせて言った。
「どうなってるんだ一体…。」頭を抱えるマヌエル。
「という事はもうすぐ…。」ショウランは振り返って巨大スクリーンを見た。
「ききき貴様に何がわかる!言いたい放題言いやがって!何も手にしていないだと!おおお俺は能無しなんかじゃない!能無しのフリをしてるだけなんだ!そうやって本物の能無し共を束ねてるんだよ!」ゼノンの恫喝する映像がスクリーン一杯に再生されていた。
ショウランは唖然とした表情のまま、ゼノンを見つめた。「あんたホントにアマミヤ博士を殺したのね。」
「止めろ!映像を止めろ!」取り乱すゼノン。だが誰も反応しない。この後に起こる出来事。全員の関心はそこにしかなかった。
「『揺らぎの収束』を確認しました。これよりエクピロシス計画を実行します。」
リルの無機質な声がセントラル・デッキに響き渡る。
第二十四話に続く




