第九話「ヨハン・アーカート」
「最良の者は、人々に最も役立つ者である。あなたは今、正にその者になろうとしている。恐れる事はない。」
円卓を挟んで彼の目の前に座っているのはイスラム教の開祖ムハンマドであった。偶像崇拝を固く禁ずるイスラム教に於いては、例え預言者の姿であっても視覚的に描写する事は大変なタブーとされているが、今、彼の目の前には、当の本人が座っていた。
ムハンマドだけではない。その両隣にはキリストとブッダが座っていた。3人は車座になって彼の事を見つめているのだ。
そこは天国だった。
中央には柔らかな金色の光が降り注ぎ、空は穏やかな青と淡いピンクに輝く。天使たちが宙を舞い、音楽を奏でる。彼らの衣は薄く透けるような白や淡い青で、金色の縁取りが施されている。光輪を戴いた聖人たちは、純白の衣を纏い、そこかしこで祈りを捧げながら微笑む。
緑豊かな庭園には、澄んだ小川が流れ、色とりどりの花が咲き乱れている。果樹には黄金の果実が実り、小鳥たちは澄んだ歌声を響かせる。ライオンや鹿が共に草原で憩い、狼と子羊が争うことなく寄り添っている。
遥か彼方には輝く白い城のような天国の門が見え、そこへ向かって人々が静かに歩んでいる。彼らはかつての苦しみから解放され、穏やかな表情を浮かべている。門の前では天使たちが迎え入れ、黄金のトランペットを吹き鳴らしている。
門の頂には電光掲示板が掲げられており、ネオン管を模した光るカリグラフィーで「バーチャルセイント3」と綴られている。その周囲にはセラフィムやケルビムが翼を広げている。
そんな場所で、世界の三大聖人を前にして、彼は苛立ちも顕に3人に対して恫喝していた。
「そそそんな事聞いてるんじゃないって!方舟に乗るべきじゃなかったってこの気持ちはなな何なんだって言ってんだよ!」円卓を激しく叩いた瞬間、被っていたフードが落ちて、その青ざめた素顔が金色の光に照らし出された。
ヨハン・アーカート。20代。男性。アメリカ人。新興宗教団体「リザレクテッドセイント」代表。
ヨハンはもともと天才的なプログラマーだった。大学在学中に開発したAI「バーチャルセイント」は、過去の聖人や賢者の人格データを基に、ユーザーとリアルタイムで対話できる、革新的な技術として話題を呼び、このAIはVR技術と融合し、「聖人との対話」を通じて心の平穏を求める人々に爆発的な支持を得た。
特にエクピロシス問題以降の不安定な社会で救いを求める人々にとって、それはまさに「デジタル救世主」だった。
低所得者層から熱狂的な支持を受けたバーチャルセイントは瞬く間に世界中に普及していき、それはヨハン自身をも神格化する動きにつながっていった。
その流れは世界が混乱の極みに至る中、新興宗教「リカレントセイント」を産むきっかけとなり、仮想空間の中にこそ天国があるとして、上級国民までもがこの信仰という名の配信サービスに殺到した。
勢いづいたヨハンはプレミア会員に対して、ニューロメモリ技術を応用した、意識をデータ化して仮想空間の中に送り込む「バーチャルセイント2/バーチャルヘブン」の提供を開始。
ニューロメモリのおかげでより没入感を増すこの感覚は「生きたまま天国へ行ける」と、プレミア会員登録者数が利用者の9割を超える大ヒットとなった。
「天国の月額使用料」として、ヨハンの元には莫大な資金が集まってきた。ニューロメモリ導入をきっかけにエクピロシス計画の将来性を見据えたヨハンは、火星の土地権利書を買い占め、プレミア会員には火星での、現実の天国を提供する事を提示。これがまた更なるヒットにつながった。
こうしてリカレントセイントの信者は世界で30億人を突破。今やヒットメーカーから巨大宗教組織の教祖となったヨハンは文字通り、世界を牛耳る存在へと変貌していった。
そして全てが思いのままになる事を確認するかの様に、政治に介入し、個人情報を吸い取る事で選別基準のデータを収集、方舟の乗船資格を好き勝手に選別し、身の回りには世界中の美女を侍らせて「天使」と呼び、権力という権力を振りかざして我が世の春を謳歌していた。
ところがそんな彼を悲劇が襲う。
折からの地球寒冷化に伴う極端な電力不足の為、「ブラックアウト」と呼ばれる世界規模の大停電が頻繁に起こる様になり「バーチャルヘブン」を利用中のユーザーが現実に戻って来れなくなるという事態「ホロウシェル」が発生。年間数千万人が廃人となったのだ。
世論は荒れた。大量殺人者として責任を問う声と、現代のカリスマとして擁護する声に二分されたのだ。これはそのまま選別者と非選別者の対立となり結果、単なる論争が、第三次世界大戦へと発展させる追い風となってしまった。
ヨハンはこの時既に方舟に乗り込んでいた。まだ建造中のノアズアーク内に、先行して作らせた専用のエグゼクティブフロアで、5人の天使兼ボディーガードを従えて、外界との連絡を一切絶っていたのである。
敵対勢力による暗殺の恐れがあった事も理由ではあるが、自分が手にした力が一体どれほどのものだったのか、今になって初めて理解し、心底「恐怖」したからというのが真実だった。
以来、彼は専用の豪奢なフロアに引きこもり、最新作「バーチャルセイント3/リアルヘブン」の制作に没頭していた。
「怒りに怒りで報いたならば、怒りは消える事はない。怒りや憎しみを消せるのは唯一、愛ですよ。」ブッダが優しく語りかける。
「しし質問に答えてないじゃないか!パラメータ調整はしししたはずだろ!そういうのはもういいんだって!」金切り声を上げるヨハン。
「現在のモデルでは117兆変数になっていますね。これに調整を加えるとなると一旦新規モデルも検討した方が良いかもしれません。」タブレットを見ながらキリストが答えた。
「おい!そそそういうメタ表現はユーザーがシラけるからやめろともいい言ったよな!」頭を掻きむしりながらヨハンは言った。
「おや?あなたはたった今バックプロパゲーションの話をした所ではなかったか?」ムハンマドが言った。
「やれやれ。我々の創造主はどうやらサイコロに振り回されている様だ。」苦笑しながらブッダが言うと世界三大聖人はお互いに顔を見合わせて笑い出した。
ヨハンは声にならない怒鳴り声を上げるとVRゴーグルをむしり取り全力で壁に投げつけた。
すると途端に辺りが真っ暗になった。そこは洗練されたラグジュアリーな寝室だった。キングサイズのベッドが中央に置かれ、ブラウンとゴールドを基調とした寝具で整えられている。
ベッドの側にはガラステーブルと革張りのソファがあり、くつろぎの空間が演出されているが、脱ぎ散らかした衣服や食べ残しの培養肉、再生水のペットボトルが散乱し、雑然としていた。
そこはヨハン専用のエグゼクティブフロアの一室だった。暗がりの中、ヨハンは頭を抱えて唸り声をあげながらベッドの上で転げ回っていた。
「ヨハン様。いかがなされましたか?」エカテリーナが隣室から物音を聞きつけ部屋に入ってきた。
ヨハンの天使の1人。40代後半の妖艶な美女。
黒と銀の刺繍があしらわれたビスチェに、同じく黒と銀の刺繍があしらわれた膝丈のシースルースカート。黒と銀の刺繍があしらわれた肘まである手袋でかき上げる髪はナイトブルーのストレートヘアーで、そこから見えるのは切長の鋭い目。
この目で見つめられた男は誰であれひとたまりもないであろう。だがヨハンはひたすら悶絶を続けていた。「ダダダメだ!これじゃダメなんだ!」相変わらず頭を抱え込んでいる。
「打ち上げは無事成功しました。火星到着まで半年もあります。少しお休みになられてはいかがですか?」ベッドに這い寄りヨハンにしなだれかかりながらエカテリーナは言った。その言葉を聞いてハッとなるヨハン。
「そそそれだ!それだよエカテリーナ!こここの船に乗ってからなんだ!何もかも上手くいいいかなくなったのは!」焦点の合わない目でヨハンはエカテリーナを凝視した。
「リリリアクションのコントロールが出来ない!こここんな事今までなかったのに!まるでべべ別人…ぜぜ全然知らない人と話してるみたいなんだ!それもこれもこ…こ…この船に乗ってからなんだよ!」そう言ってヨハンはエカテリーナの豊満な胸に顔を埋めた。
「おおおかしいんだ…悪い予感しかしないんだ。この船に乗ったのはまま間違いだったんじゃないかって。なな何かとてもひひひ酷いことが起きるんじゃないかって…ここ怖いんだ。ぼぼ僕は、選択を間違えた気が…」エカテリーナがヨハンを掻き抱いて言葉を遮った。
「例え何が起ころうとも、私達は永遠にヨハン様と共にいます。」エカテリーナの言葉に咽び泣くヨハン。
「あーっ!エカテリーナがヨハン様と良い事しようとしてるーっ!」突然の嬌声。エカテリーナが振り返ると部屋の入り口に天使の1人、アンジェが指を咥えて立っていた。
透ける黒のシースルードレス、足首や手首を金のリングチェーンで繋いでいる。腰まで届く白金の髪、肌も陶器の様に白く、120センチという身長のため、黙っていれば人形と間違えられる事もある。
「何ですかアンジェ。何かご用ですか?」エカテリーナがヨハンを抱きしめたまま聞く。
「あ!そうだった!ヨハン様にお客様です!」ハッとして返事をするアンジェ。
「会いたくない。だだ誰にも会わないっていい言っただろ!」胸に顔を埋めたままヨハンは答えた。
「でもぉ…船長さんですよ?」上目遣いで様子を伺うアンジェ。
唸り声を上げてからヨハンは起き上がり「リビングで会う」と言った。他の者も支度のため、後に付き従う。
玄関では天使の1人、サーシャが客の出迎えをしていた。
真紅のスリットドレス、大きく開いた背中には「バーチャルセイント」のタトゥーが入っている。漆黒のウェーブヘアを靡かせ、真っ赤な唇で客人を招き入れる。
「ようこそアマミヤ船長。」
サーシャの出立ちを上から下までじっくり眺めてから、鼻を鳴らして入室するゼノン。
リビングではソファに座るヨハンとそれを取り囲む様に立ち並ぶ5人の天使たちがゼノンを出迎えた。
勧められる前にヨハンの対面に座ると、挨拶もせず単刀直入にゼノンは言った。「トウコは完成しましたか?ヨハン様。」
第十話に続く
*今回の引用元「百億の昼と千億の夜」(1977年の漫画 原作は1967年の小説)




