6.夜よ悪魔よ、こんばんは
深く、暗い森の中。木の根は地面を這い回り、枝葉は視界を覆う。鳥の鳴き声が途切れることなく続く。――まるで人を拒絶するかのように。
そんな森の中を、素早く駆けていく。掌には小さな光の球。"初級"の光魔法も、足元を照らすには十分です。
ゴツゴツした山道も、走り慣れたシロには苦でもありません。
駆けるシロの頬を、風が撫でました。春が来たとはいえ、まだまだ山中は寒さが残ります。息を吸うと、ひんやりとした空気が、肺へと入り込みます。
このまま何事もなければ、ひとっ走りして、シロも家に帰れたでしょう。気晴らしも出来て万々歳でした。しかし、そうもいきません。
「っ……!?」
走りながら、シロが目を見開きます。地面のあちこちに、生き物の足跡が付いています。木の根には、爪で深く引っ掻いたような傷も。そしてその足跡は、不自然に黒ずみ、焦げ臭い匂いと共に、小さな煙が立ち上っていました。
正直、異様な光景です。この時点でシロの警戒心は最高潮に達します。
誰かの魔法か? それとも"魔獣"?
「……まさか、"厄災"じゃないだろうな?」
そう、シロが心配そうに呟いた瞬間、
「ガアアアアアッ!!!!」
と吠える声が、聞こえてきました。
「っ……!」
疑念が、確信に変わります。
確実にこの山で"何か"が起きている……!
シロは走る速度を落とすと、ポーチからナイフを取り出しました。それは、通常のナイフと異なり、刃の部分に細かい溝が刻み込まれています。
シロは、刃全体を親指と人差し指で挟んでなぞりながら
「10分前、座標23の4に結界反応あり、周囲に魔法が原因と思われる燃え痕を確認……」
と、呟いていきます。シロの言葉と魔力に反応するように、一部の溝が光ります。
「応援を要請する。俺は周囲を巡回し、15分後に経過報告を予定……」
一通り呟き終えると、シロはナイフに風をまとわせて、結界の方へと思いっきり投げつけました。すると、結界が反応し、一瞬空が青白く光りました。これで、駐在所に報告が行ったはずです。……最悪、この後何か面倒ごとが起きたとしても、次の報告が無ければ、不審に思って駐在兵達も動いてくれるはずです。
「……これでよし」
足にまとわせる風を増やすと、シロは一気に駆け出しました。ざわめく森が、彼の不安を映し出しているかのようでした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「はあっ! はっ! はあっ……!」
森の中を駆ける人物が一人。
あどけなさの残る少女。年は11、2歳くらいでしょうか? ストレートの黒い長髪で、くっきりとした目鼻立ちをしています。
青いジャンパースカートと、白いシャツを着ていますが、薄汚れていて、あちこち泥だらけです。更には木の枝に引っ掻けてしまったのか、穴や傷さえ出来てしまっています。
息は絶え絶えで、足取りは覚束かない状況。それでも少女は、ひたすらに走っていました。
「バウッ!!」「ガアアッ!」「グルゥウ!」
狗が5匹ほど連なって、少女を追いかけていました。そして、その姿は普通の犬とは似て非なるもの。燃え盛る黒い焔が全身を覆っています。――むしろ、焔が狗の姿形を成したという表現の方が、正確でしょうか。そして、全ての狗の首に、黒い鎖が巻かれていて、狗達を操る"魔法の使い手"がいることを、示していました。
そいつらが走り抜けると、黒く焦げ付いた足跡が残り、細い煙が立ち上ります。山火事にでもなってしまいそうですが、不思議と、他へ燃え移ることはありませんでした。
少女は逃げ続けます。どうして自分がここに居るのかも、どうして追われているかも、知りません。
唯一言えるのは、あの狗に絶対捕まってはいけないこと。
その場で彼らの晩ご飯になってしまうのか、はたまた、どこかに連れ去られてしまうのか。
少なくとも、仲良くじゃれ付いて遊びたいとか、そんな、ほんわかしたものではないでしょう。あの身体でじゃれ付かれても、たまったものではありませんが。
「うぐっ……っ! ふうっ! ぜぇっ! はあっ……!」
少女は走り続けます。限界なんてとっくに超えています。ただ、狗も疲れてきたのか、少し速度が落ちてきていました。更には、森の木や根が狗達にとっても障害となっていたため、なんとか逃げられていました。
がさがさと、足元を覆う茂みをかき分け、目の前にある蔦を引きちぎると、目の前には一面の夜空と小高い草原があります。少女はためらうことなく足を踏み入れました。追われている状況。他に選択肢はありません。
そして、少女を追いかけ、狗が草原に入った瞬間――、
"リィイイーン"
再び鈴の音。少女の目の前の空が、再び青く光りました。少女にはこれが何かは解りません。ただ、さっきよりも強い音と光でした。
「バオオォォォ!!!」「グルルルオォオオオ!!!」
狂ったように吠える声。見てると、首の鎖から黒い焔が噴き出して、それに合わせて狗の身体が一回り大きくなりました。次の瞬間、狗達が一気に駆けだします。今までとは比べ物にならないくらいの速さで、少女へと迫っていきます。
1回しか結界が反応しなかった理由――、それは単純に狗に込められた魔力が少なくされていたから。この結界は、一定以下の魔力量は検知しません。森にいる動物達の魔力まで反応してしまっては無意味ですし、何より維持するための魔力が膨大となってしまいます。
だから、"使い手"は魔力を抑えた。森では枝や根が邪魔をしていて、魔力を込めても少女を捕まえられるかは解らないし、正体も解らない結界を悪戯に反応させる必要もない。すぐに少女を捕まえられるチャンスが来るまで待てばいい。
そして、来た。少女の体力が尽きかけ、狗の速度が出せるタイミングが。こうなればどれだけ結界が反応しようが関係ありません。一気に少女を捕まえようと、仕掛けてきたのです。
「い、嫌……っ! こ、来ないで下さいっ!」
背中から迫る殺気。少女も涙ぐみながら必死に走りますが、吠える声はどんどん近づき、草ががさがさと大きく揺れはじめます。
そして――、
"ガザザッッ!! バサーッ!!"
「ガアアアッ!!!」「バオオオッ!!!」
「きゃあああッ!!」
悲鳴を上げる少女。犬は容赦なく、彼女の右腕と左足に喰らいつきます。
「あっ!! いやああッ!! は、離して下さいッ!?」
急所こそ避けているものの、身体に容赦なく牙が食い込み、噛まれた場所が焼かれていきます。必死になって抵抗しますが、少女がいくら暴れても、びくともしません。
「か、神様っ!! お助けください!! どうか私をお助けくださいっ! どうか! どうかお願いします!!!」
目から涙を流しても、必死に神様へ祈ろうとも、状況は変わりません。それどころか、残りの犬達が少女へと迫ります。
「ああ……っ!」
殺到する犬たちを前に少女が目をつぶった、まさにその瞬間。
一陣の風が、草原を吹き抜けました。
『烈風の剣!!』
"ズドドドドオオッ"
少女へ襲い掛かろうとしてた犬の背中へ、風の剣が何本も突き刺さります。
「キャイイッ!!」「ギャアッ!!」
甲高い悲鳴と共に、黒い焔の身体が大きく揺れます。後方にいた3匹の犬が、串刺しになったかと思えば、次の瞬間、少女に喰らいつく2匹の身体も、風の剣で両断されていました。
「遅くなってすまない!! まだ生きてるな!?」
風ではためくのは、ベージュのコートと白い癖毛。
少女の前に、シロが立っていました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
大きなダメージを負った犬は、地面へと突っ伏していました。身体の焔が弱まっていき、煙のように消えてしまうと、黒い鎖だけが地面へ残りました。
"ガチャ!! ガチャン!!"
シロは鎖に風の剣を撃ち込んで、粉々に砕いていきます。シロのナイフもそうですが、こうした道具を使用する魔法は、道具にも仕込みがしてあることが多くあります。この鎖も同じかわかりませんが、壊しておいた方が無難でしょう。
最後の鎖を完全に壊すと、シロは少女に近づきます。
「大丈夫か!? おい!」
何度声をかけても、反応がありません。少女は気を失ってぐったりとしていました。手と足には犬に噛まれた痕跡が残り、血で真っ赤に染まっていました。
くそっ、一足遅かった……っ。
自責の念が、シロの胸をチクリと刺しました。ただ、幸いなことに大きな怪我はそれだけでした。他は小さなかすり傷や切り傷で、気を失ったのも、走り続けたことによる過労からでしょう。
シロは急いでポーチからタオルと治療薬、それから包帯を取り出しました。安全な場所に移動させる前に、最低限、消毒と止血をしておこうと考えたからです。
「ん……!?」
腕の血をタオルでふき取ると、噛まれた後に、赤黒い痣のようなものが浮かび上がっていました。丁度、歯型の真ん中に浮かんでおり、タオルで拭いても落ちません。
何かの"呪い"だろうか? と、シロは思いました。
"呪い"は「長期間継続してマイナスの影響を与える魔法」全般を指します。誰かの体調を崩したり、魔力量を制限したりと、様々な種類があり、中には「道を歩くとき、必ず踵が先に地面に着く」なんて変わり種もあったりします。
魔法書にあるような有名どころはシロも知っていますが、目の前の"痣"が何かは解りませんでした。
ただ、この"呪い"は先ほどの"狗"が付与したと考えるのが自然でしょう。そして、その仮定が正しければ、それだけ複雑な魔法を使える人物が、少女を追っている、と言えるでしょう。
「一体何が起きてるっていうんだ……!?」
額から、冷や汗が流れ落ちます。手早く魔法薬を塗って、包帯をさっと巻いていきます。
この場に長居するのは不味い、すぐに離れて――、
シロがそう考え、少女を抱きかかえようとしたとき、
「ウォオォオオォーーーーッ」
狗の遠吠えが、聞こえてきました。
シロが振り返ると、少女を追いかけて来た方角と丁度反対方向に、数匹の"狗"と一人の"男"が立っていました。狗は先ほどと同じく、黒い焔で出来た体をしており、首に鎖を巻いています。
男は暗がりでよく見えません。ただ、2mを超す長身であること、黒いコートを羽織っていることは、解りました。
「……ようやく捕まえたと思えば、また面倒事か」
独り言のように、男が呟きました。低く、抑揚のない声でした。
そして、首元に手を動かすと、男の手に巻いてある鎖が、じゃらりと音を立てました。
男が首かざりを外した、その瞬間――、
"キィィィィイイーーーン!!!"
と、激しく音が響きました。
周辺の結界が黄色く光って小刻みに震え始めます。"魔獣"と同等の魔力が無ければ、この色になることはありません。そして、結界がこの色になるのは、初めてでした。
「……っ!?!」
結界の光が男を照らし、シロは息を呑みます。
黒色の肌に、琥珀色の瞳。乱雑に伸ばされた髪の間からは角が生えています。そして、身体から溢れ出る魔力は、赤黒く色づき、その量は普通の人間と比べ物にならないくらい、膨大でした。
「あ、悪魔……っ!?」
動揺を隠せないシロ。男は気だるそうにシロを見ていましたが、やがてポツリと呟きました。
「どうも、こんばんは、少年。……早速だけど、その娘、渡してくれる?」
リメイク前をご存じの方は、気づくかもしれませんが、バッサリカットしています。
あと2話で旧1話(黙示録は開かれた)と同じ部分まで終わらせる予定です。
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