婚約破棄承ります。今までありがとうございました初恋の方。
「君との婚約を破棄する」
「承りました。今までありがとうございました、殿下」
あっさりと引き下がったわたくしに、何か言いたそうにしているのは、この国の第二王子である、ロルフ様。
ロルフ様側から出された一方的な婚約破棄をわたくしが了承したので、この先は同意したとみなし、婚約「解消」の手続きに移ることになる。
王宮内にある応接室で、具体的な提出書類の確認や、今後の両家のやり取りに代理人を立てるかなどなど。
相談内容をスラスラと並べるわたくしに、ロルフ様がたまらず言葉をさえぎった。
「本当にいいのか?」
「いいも何も、もうご自身で決めてしまわれたのなら、わたくしは協力するだけですわ」
八歳の時に王宮で開かれたお茶会に侯爵令嬢として招かれ、この方に見初められてから、約十年。
そう、十年だ。伊達に付き合いは長くない。
熟年の夫婦とまでは言わないが、世間一般的には幼馴染と言っても過言ではないだろう。
ロルフ様の性格も、大体の事情もわかる。
婚約を取りやめにしないかと相談ではなく、このタイミングで「破棄」したいと言うことは、彼の決意は固い。
昔から、言い出したら聞かないのだこの方は。
「本気で愛していらっしゃるんでしょう」
「…………」
苦虫を噛み潰した表情に、沈黙を答えと受け止めて、わたくしは相談ごとの続きを口にする。
先日、王太子殿下と王太子妃殿下の間に男児がお生まれになった。
ロルフ様は王太子殿下に何かあった時の保険の役目を、とりあえず終えたことになる。
ご自身の継承権順位が下がったことで、ロルフ様はある程度、結婚相手を選べる選択肢が出来た。
お相手はわたくしより家格がかなり低い。
この先の苦労を思えば、黙ってこのまま結婚するか、わたくしを名ばかりの妃として残した方がいいのだと思う。
子どもの頃、はじめて顔を合わせて泣きながら結婚してくれと言ったのは彼の方だった。
しかし、もう、長い月日にそばに置くほどの執着も冷めたいま。
わたくしが次の婚約者を見繕うために、早めに手放してくれたことには感謝している。
王侯貴族としては褒められたことではないのかも知れない。
けれども、当事者の女の身からしてみたら、ロルフ様はお相手にもわたくしにも誠実な方だと思う。
クスリと笑ったわたくしに、眉間にさらに皺を寄せるロルフ様。
「フラれて泣いても、この胸は貸して差し上げませんからね」
「……うるさい。黙れ絶壁」
いい笑顔で罵りの言葉を口にするロルフ様は、緊張が解けていつもの調子に戻ったらしい。そのことを密かに安堵する。
婚約者や恋人と言うより、長く共にしたせいで家族や友達みたいなやり取りが定着した二人の関係。
二歳年上の彼に「弟がいたらこんな感じだろうな」と言ったことは、いまだに根に持たれてると思う。
いつからだろう。わたくしより背が低かったはずの彼を「チビ」と言えなくなったのは。
ダンス練習でお互い喧嘩しながら足を踏み合っていたのが、頼れるエスコート相手に進化を遂げて。
「カトリーナ」と呼ぶ声が、可愛らしいものから、低く落ち着いた男の声色に変わり。
いつからか、わたくしに「すき」とハニカミながら言わなくなり。
違う誰かを目で追っているのに気がついたのは。
「鼻の下伸ばしてお下品」と冗談で言ったわたくしの言葉に、バツが悪そうな顔を返されたとき。
あの時「こっちを見て」と言える可愛らしさがあれば、世界は今と違って見えていたのかも知れない。
彼のように、燃えるような情熱で返せる恋ではなかった。
しかし、いつの間にか。慈しみを持って何かが芽生えていると気がついた時には、きっと何もかにもが手遅れで。
素直に言うには遅すぎて。
奪い去るには不確かな感情で。
お相手に意地悪するには、この方と同じときを一緒に過ごしすぎた。
十歳の彼が、駄々をこねて脚をバタつかせながら結婚を泣いてせがむみたいなことは、大人になったわたくしには、とてもじゃないが出来ない。
嫉妬してないとは言えないけれど。
友人の幸せを願うように、彼には幸せになって欲しいと思う。
「究極にタイミングが悪かったわ!」と笑って言えるくらいには。もう、わたくしの中で踏ん切りはついた。
「お父様とお母様には先にわたくしから言っておくわね」
「カトリーナ」
これからの必要書類やら届け先などをメモしていると、ロルフ様が存外優しい声でわたくしの名を呼んだ。
反射的に顔を上げると、悪戯な目と目が合う。
「あの男だけは止めておけよ」
「ふふ、まだ根に持ってますのね」
「そりゃあな。全く、あんなののドコがいいんだか」
半眼に生返事で適当にあしらっていると、ノックの音が聴こえた。
訪れを知らせる従僕の言葉に、噂をすればなんとやらで、ロルフ様が不機嫌に入室の許可を出す。
長椅子に腰掛けた御仁は、出された紅茶をひと口飲んでから、挨拶もそこそこに話を切り出された。
「ロルフから話は聞いたかな?」
「はい、陛下」
にっこり笑った顔を前に、わたくしも淑女の微笑みで返す。
不機嫌なロルフ様だけが、苛立たしげに何しに来たんだと実の父親である国王、リステアード様を睨みつけていた。
「いまだに反抗期で可愛いよね」と毎度本人を目の前に涼しい顔で言うものだから、二人の親子関係はあまりよろしくはない。
昔からなので、わたくしも慣れたものである。
「カトリーナと今後の話をしたくてね。内密な話だからロルフは出て行きなさい」
「あぁ゙?」
「ロルフ様、わたくしの方もお願い事がございますので」
鼻に皺を寄せて嫌そうな顔をしたロルフ様。
毛足の長い絨毯にも衝撃が吸収出来ないほどの足音を立てて、部屋を出て行く姿に笑ってしまう。
不機嫌になると凶悪な面構えをする巨漢のロルフ様だが、本当に昔は天使のように可愛らしい方だったのだ。
父親であるリステアード様曰く「今でも可愛い」とは親の愛を感じるほどである。一方通行な愛だが。
リステアード様自ら盗聴防止の魔法を発動されたことで、わたくし達はドーム状の半透明な膜に覆われる。
応接室の扉は少し空いているとは言え、人払いまでしてしまうとは、よっぽど他人に知られたくない話なのだろう。
騎士団に所属しているロルフ様とは違い、日々の主な政務を王宮内でこなす白く滑らかな指先が、小ぶりなサンドイッチを摘む。
控えめに開いた唇の優美さを眺める。
少し伏せ目がちな長いまつ毛のせいで、目元に影が出来ていた。
瞳孔に金色の輪をかけた、冷たい印象を思わせるブルーアイズの色彩は、朗らかな人柄に触れればアンバランスさを魅力に感じる。
いまだに多くのご令嬢や貴婦人方からの人気が衰えないこの御仁。
歳を重ねるごとに美しさに加えて、大人の色気を増していると感じるのは、多分わたくしだけではないだろう。
日々手入れされたお髭が、若者には出せない熟成された赤い葡萄酒みたいな芳醇さと、ほどよい渋みを醸し出している。
しばらく当たり障りのない話をしていたが、スコーンにご機嫌でクロテットクリームを乗せながら、それは唐突に切り出された。
「カトリーナの次の嫁ぎ先を紹介しようと思って」
「嫁ぎ先……ですか?」
意味が理解出来なくて、淑女の仮面を忘れ怪訝な顔をして待っている。
「そうだよ。私なんてどうだろう」
すると、リステアード様がまるで初物のストロベリージャムを勧める気軽さで提案して来たので、わたくしは大変理解に苦しんだ。
苦しんで、苦しんで、苦しみの先に見出した答えを何とか口にする。
「お戯れを」
「本気にしてもいいんだよ? ダメかな」
ため息を味のしないカスタードタルトで無理やり呑み込んで、後から来た甘ったるさを紅茶で流す。
落ち着いたところで、わたくしは苦笑混じりに今の素直な気持ちを口にした。
正直、嬉しいか嫌かで分けたらかなり嬉しい部類ではある。
俗物的な言い方をすれば、こんなおモテになる高貴なイケおじに声をかけて貰えるだけでも、大変名誉なことだ。
十歳のロルフ様がわたくしを見初めた時。隣にいたこの御仁にひとめ惚れして「王子様がいい!」と十歳児の小さな方の王子を泣かせた犯人はわたくしだ。
当時リステアード様はまだ王様ではなくて、王子様だったのだ。
子供向けの読み物の挿し絵から飛び出して来たような、まさに絵に描いたような理想の王子様だった。
「自分も王子だ!」と言い張るロルフ様に王子様はこんなチビじゃないと、王族に向かって不敬を働いた八歳児はわたくしのことだ。
『国と結婚しているから、君とは結婚出来ないんだ』
お妃様はいないと言うので、自分をお嫁さんにして欲しいと懇願したら、すげなくフラれてロルフ様共々床に転がってギャン泣きした。まさに子どもだったわ。
リステアード様は長らく空席だった王妃の席をわたくしにくれると。破格の待遇だと思う。
八歳のわたくしだったら、ピョンピョン飛び跳ねて大喜びしただろう。
しかし、十八歳になった今はその誘いの危うさに、ご提案を受け入れることが出来なかった。
「そうか。今回は縁がなかったと言うことで。……息子共々、残念だな」
「ふふっ。残念に思っていただけて、嬉しく思います。今までありがとうございました、陛下」
素敵な初恋をありがとうございました。
ポンッと弾ける音に、盗聴防止の魔法が解除されたことを知る。
入室して来た従僕の手には、銀の盆の上に恭しく丸められた、魔法誓約書が鎮座していた。
「カトリーナにプレゼントだ。サインするなら、本人登録のために血判を」
「手間が省けました。実はコレを陛下にお願いしようかと思っておりまして」
先ほどリステアード様に嫁ぎ先をと言われて「なんのことだ?」と、全然頭が働かなかったのは、わたくしのせいではない。
わたくしは一人っ子だ。当初の予定では、ロルフ様に我が家へ婿に来てもらって、結婚する手筈だった。
しかし、それがなくなったいま。
結婚しなくても、女のわたくしが実家の爵位をスムーズに継げるように。
王家が一筆書いてくださった魔法誓約書を先んじて用意してくださったらしい。
直系優先の爵位や相続だが、やはりいまだに男子優位の風潮が残るなか。
わたくしがフリーになったと知ったら、親戚があわよくばと、ソワソワしてしまうものね。
サインを記入して、指に専用の針を刺す。
名前の横に血判を押し、控えと保管用2枚で終了だ。
腕を取られて、血の滲んだ指先を陛下の長い指になぞられる。
治癒魔法を施されながら、悪戯に指を絡められてエロスを感じるあたり、わたくしが大人になった証拠だろう。
ちょっとドキドキする胸を抑えるために手を引っ込めて、紅潮しつつ礼を述べれば、リステアード様の眉が今日一で下がった。
「本当に残念だ……」
恨みがましい視線を淑女の鉄仮面でやり過ごし、ロルフ様が痺れを切らして迎えに来てくれたので、全力で乗っかって王宮から撤収。
一人きりの馬車の中で、ぐったりしてしまうのは許して欲しい。色々あり過ぎて、今日は疲れた。
盛大なため息を吐いて、これから両親に説明する内容を……ダメだ。考えられない。
ロルフ様を産んでしばらくしてから、亡くなった王妃様。その話を聞いて、ロルフ様の下に妹がいることを疑問に思えなかった当時の自分は本当に子どもだった。
初潮が来てからの淑女教育で、キャベツ畑から子どもは生まれないと衝撃を受け。
「愛妾」という言葉の意味を理解した時に、わたくしは完全に失恋した。泣いた。
今ではロルフ様に冗談でネタにされる、いい笑い話だ。
先日、生まれたばかりの未来の王太子。
王位継承権を考えれば、王様と貴族としては血統が良いわたくしの間に子どもが出来たら。
年の近すぎる子など、争いの火種にしかならない。
魔法技術が昔より優れた近年でも、避妊効果は絶対ではないのだ。
下手したら自分の子が、将来空気を読んで教会に身を置くなんて言い出したら申し訳なくすらある。
家臣としても、現実を見据えるひとりの女としてもそれはムリだ。
理想の王子様には、奥さんはいないけれど、恋人が沢山いた。悲しい事に今もそれは変わらない。
反面教師でひとりに一途な愛を貫くあたり、わたくしは誠実なロルフ様に好感を持てる。
手元にある保護魔法がかかった細長い筒をながめる。
この中にある魔法誓約書さえあれば、実家を継げない貴族男性にとって、わたくしは喉から手が出るほど、美味しい結婚相手に早変わり。
こんな優良物件を手放してまでも、ロルフ様はわたくしと婚約を破棄したいと言ったのだ。彼の決意は並大抵ではないだろう。
この十年は高い勉強代だったと思って、今後の婚活に生かそうと思います。
今度はこちらが選べる側。
幸せは自分の手で鷲掴みする勢いで、次の恋を見つけるところから、まずは始めてみようと思う。