Put out my cigarette
最後に情けをかけてくれたのか、男は引っ越しの手伝いをしてくれた。
まあ、さっさと別れた彼女に出て行って欲しいだけかもしれないが。
まとめた段ボールを見ると、どこからともなくうずうずと達成感が湧いてくる。思いのほか湿っぽくなく終わろうとしていて、私は安心していた。
「あとは明日業者のトラックが来たら運んでもらうだけだからいいよ」
「…そうか」
「ごめんね。休みの前なのに手伝わせて」
「いや……」
物言いたげな男の視線から逃れるように、無意識に懐を探って小さく舌打ちをする。
目当ての煙草は持っていない。クリスマス以来、禁煙しているからだ。
『ショートピースの代わりに。身体、気ぃ付けてくださいね。』
あの時、手渡されたのは子供だましみたいなココアシガレット。
乱れた呼吸に大きく上下する肩。バイト君の吐く息の白さまで覚えている。
「やめたのか…?煙草」
「んー、まあ」
同棲中はベランダに出て吸ったり、一緒に眠っている間は就寝前は煙草を控えたりと気を遣っていたつもりだったが、やはり気にしていたらしい。
「嫌だったでしょ、煙草」
「…いや、透も気使ってくれてただろう。だから俺は、嫌な気持ちになったことはないよ」
そういえば、前付き合った男の中にはあからさまに「女が煙草を吸うなんて」と嫌そうな顔をしていた奴もいたが、この男からは何も言われなかったな、と今頃になってようやく気づく。結局この男も自分のことを分かってくれない、と悲嘆に暮れていたものの、もしかしたら自分だって相手のことを分かろうとなんてしていなかったのかもしれない。
別れた今になって気づくのも皮肉だが。
「ありがと……ここに越してくるの?由梨絵ちゃん」
前の女と同棲していたアパートに越してくるなんて、男の言葉を借りれば「俺がいないと何もできない子なんだ」らしいが、ずいぶん図太い女だなと思う。
「せめてベッドは買い換えたほうがいいんじゃない。その子、多分嫌だと思うよ」
「……俺にもそうやって言って欲しかった」
「…は?」
帰ってすぐ荷造りする私に気づいてそのままの格好で手伝ってくれたから、男はまだスーツのジャケットを脱いだだけの姿だ。
「嫌なこととかして欲しいこととか。透はなんでも一人でして、俺なんかいらないって感じだったろ……物わかり良くて、透は今までの彼女の中で付き合いやすかったよ。…でももっと思ってること言って欲しかった」
29にもなって自分のことぐらい自分でできて当たり前だ。だからこそ、家にいる時くらい甘やかしてほしかったのに。彼に甘えられなかったのは私だけのせい?私が本音を言わなかったせい?
途端に凪いでいた心が嘘のように乱れる。
「だったら…」
「え?」
「だったら、もっと甘やかしてくれたらよかったのに」
わたし、強がりなの。
ぽつんと零れた言葉に男が目を瞠るのが分かった。
言いながら、自分の目尻に涙が溜まっているのは分かっていたけど、堪えようとはしなかった。
子供みたいにずずっと鼻をすすって、呆然としている元恋人を自室(だった部屋)から押し出す。戸惑うように私を見下ろす男は、無抵抗に私に押されている。
「悪いけど、今晩はソファ貸して。さすがに一緒にベッドで寝るわけにはいかないから」
「透!」
「ちょっと、買い忘れたものあるからコンビニ行ってくる」
見え見えの嘘にも、男は何も言わなかった。帰宅してからぶっ続けで荷造りをしていたせいで、時刻は間もなく日付が変わろうとする頃だった。
ソファの背にダウンジャケットをかけておいてよかった。財布と携帯が入っていることを確認してそのままひっつかむ。バタン、と背中でドアが閉まる音を聞いたが、男は追っては来なかった。
外の冷気は鋭く、顔に刺すようだ。寒さのあまり無意識に背が丸まり早足になる。
ずずっと鼻をすすると、ツンと鼻の奥が寒さで痛んだ。
自動ドアの呑気な電子音に迎えられ、この時間だったらレジ、バイト君かなとそわそわする。途端に目のふちが赤くなっているだろうことや、仕事が終わってそのまま着替えてずっと作業をしていたからメイクなんてボロボロだろうことに気づいて、帰りたくなる。さっと見やるとそこには何度か見かけたことのある店長らしき中年の男がレジにいて、がっかりしたようなほっとしたような気になる。
「こんばんは」
飛び上がるかと思うほど驚いた。
レジに気を取られていた私は、雑誌の結束を切って並べているバイト君に一切気づかなかった。彼が、しゃがんで作業をしていたせいもあるだろう。
柴犬みたいな人懐っこい雰囲気の彼は、今日も屈託なく笑顔だ。
「今日、お休みだったんスか?」
ダウンにジーンズなのは荷造りをしていたからだが、バイト君は休みの部屋着ととらえたらしい。
「うん、まあ。引っ越しの準備してたから」
「え、引っ越すんスか」
元彼との同棲解消のため、という擦れた事情はなんだかまだ年若いバイト君に言う気にはなれずに「うん、そう」というなんとも曖昧な返事になってしまう。
「ヤです」
「ええ?」
「だって、俺…」
人気のないコンビニで軍手をしたまま俯くアルバイト学生とジーンズで化粧も落ちかけた三十路手前のOL。
ずいぶん奇妙な取り合わせだな、と他人事のように思った。
「名前も知らないのに」
ぼそぼそっと漏らした台詞。俯く彼の耳が赤くなっているのに気付いた。
「…バイト君」
「はい?」
「マジックある?」
「え…はい!!」
慌ててバックヤードに引っ込む彼の姿に、レジにいる男性が片眉を上げている。
あー、後で怒られないといいけど。
息せき切って戻ってきた彼の手からマジックを受け取る。
「手、出して」
「?はい」
素直に出されたてのひらは高校生のくせに、ごつごつと武骨で「男」を感じさせる手だった。その手に大きく11桁の数字を書いていく。
「さすがに高校生には手出せないから、卒業したら連絡しておいで」
まじまじと手を見ている彼がなんだか可愛くなる。あっという間に用事を終えたマジックを彼に手渡して、私はさっさと踵を返しレジへ向かった。
元彼が好きだったおでんのタネはなんだったかな、と遠い記憶をひっくり返しながら。
来た時と同じように早足でマンションへ向かい、居間へ続くドアを開けると、私が部屋を出た時と同じワイシャツにスラックスのままで、疲れた顔をした男がソファに背を預けていた。
「ねえ」
声をかけると、ゆっくりと顔を向けた。
「おでん。お礼に。一緒に食べよう、晩御飯まだでしょ」
眉を八の字にして、困ったように笑う男の表情は私が今まで見たことのないもので、この人はこんな顔することがあるんだな、ともう会うことはなくなる男のことを想った。
「ありがとう」
そう言う男の笑顔を見て、煙草の火が消えるように私の恋愛がまたひとつ終わったことを知った。
-The End-