蜜柑。
窓を伝う無色の風。潤う春の青空に、飛行機が白い線を引く。午後の日差しが、窓から割り込んで便箋を照らす。募りに募った思いの丈を、踊るようにペンでなぞっていく。ひとつ、またひとつ文字になる。迷いなくまっすぐでいて柔らかい筆跡。丁寧な言葉で白い便箋を埋めていく…
◇◇◇◇◇◇
拝啓
勿忘草の花が春を告げ、寂しさをも忘れるほどに風が優しい季節となりました。いかがお過ごしですか。元気にしていますか?
あなたと遠く離れて今日で十年が経ちました。この十年であなたへと書いた手紙は何通になるのでしょうか。もう僕自身覚えていません。そのどれもがつまらないものだったと思いますが、今日もまた、つまらない手紙を書いています。いつも通り返事は要りません。ただただ、いつも通り受け止めてもらえればそれだけでいいです。どこかで、読んでくれているのならそれだけで嬉しいです。
僕は元気ですよ。楽しい毎日で仕事も順調です。教師という職業、楽ではありませんがやり甲斐はあります。思い返せば、人の成長に寄り添いながら文学の道に進めることを期待していましたが、文学を究める余裕なんてありませんでした。でも“目標と夢”どちらを優先すべきか…自分の答えには出会えました。
結論として、僕は目標を選びました。どちらを選ぶのかは結局自分次第で個々の人生によりますが、その判断材料として「責任」の存在は大きいと思います。「目標」には他者へ払う責任があり、「夢」なら自分に責任を払うのです。目標を捨てることで裏切られるのは他者で、夢を捨てることは自分を裏切るということ。それらを天秤に掛けたとき、責任の価値が重い方に傾きます。
あくまで個人的な価値観ですよ。それが産み出す…くだらない持論です。歪んでますか?でも僕にとっては、摂理的なものなんです。
人ひとりが背負える責任の大きさには限りがあります。天秤のバランスを釣り合わせながら生きるとするならば…軽い方を重くするか、重い方を軽くするしかありません。抱える責任を増やすのは試練で、減らすのは妥協になるのです。妥協に逃げることなく、どちらも掬い取って生きていける強い人間は一握りで、僕はただの凡人だったことに気付いたんです。
僕にとって、目標の責任は…教師として生徒一人一人の未来と向き合い、彼らの望む道へ送り出すことで、夢の責任は…小説家になって、頭の中にある名前の無い物語を本として形にすることでした。前述したように僕は目標を選びました。無論夢は諦めたくありませんでしたし、ずっとずっと…追っていたかったです。
でも僕は凡才でしたよ。ご存知のとおり幼い頃から本の虜でした。沢山読んできました。数えきれない程読んできました。だからわかるのです。天才が紡いだ美しい言葉を飽きる程読んできたからこそ、凡才の紡ぐ言葉は汚れて見えました。書けども満たされることはありませんでした。夢を裏切ると決めたあの時…躊躇う理由が欲しかったです。“凡才の小説家”は、夢に価値をもたらすことが出来ませんでした。寂しい話ですよね。十年前、あなたに誓った夢を掴んだ小説家は…ここにはいません。
けれども、教師職はやはり素晴らしいものです。人の心と触れ合い、彼らに眠る無限の可能性を引き出す仕事です。若く青すぎる生徒もいれば、どこか大人びている生徒もいて、稀に、僕よりも熟れているかのような生徒もいます。大人として未熟で、子供にしては熟している…まだ不完全だからこそ、まだ何にでもなれる。まるで十数年前の僕らを見ているようで懐かしくもあります。
教師として、彼らの青春の登場人物の一人として関わらせてもらっているはずが、僕の未熟さも熟れているところも、対比的でまた相乗的に物語が紡がれて、僕の人生の一部になっていくのです。彼らとの繋がりの中で産まれる感情論や哲学、人生観は、言葉にこそ出来ないものの、文学なんです。ありきたりですが、僕の人生という白紙の上に、文字という形を持たないだけで“思考”や“感情”を“事象”と共に綴っている気がして…それは文学足り得るのではないかと、僕は思うんです。そんな贅沢な執筆が許される道が、ここにありました。
自己完結で後付けの理由みたいになりますが、これが僕の答えです。目標を優先した結果です。夢だった小説家の虚像は未だ残ってはいますが、後悔はしていません。あなたが応援してくれた夢はただの憧れに変わり果てましたが、素晴らしい日々を過ごせています。
彼らの人生と向き合う大人のひとりとして共に悩み、時に導く。改めて歳を取ったと実感しますね。彼らを眺めているだけでも楽しいものです。あなたといた日々を眺めているように感じる時があります。錯覚でしょうけどね。それでもいいんです。小説なんかより美しくて、言葉ごときじゃ形にできないあの頃の記憶が息を吹き返すのです。
今でも朝起きる時と夜眠る時に、あなたのことを想います。早起きして寝顔が見れたなら…。寝る前におやすみと伝えられたなら…。引かれても仕方のない程に馬鹿馬鹿しい幻を見ます。でも、そんな他愛ない瞬間が僕の幸せでした。
今は静かすぎる毎日に、あなたの影を見ます。この街も寂しくなりました。あなたと通ったラーメン屋さんはアパートに変わっていて、あなたが下手くそに食べていたクリームメロンパンはパン屋の看板だけを残してシャッターは開きません。行く度にあなたがはしゃいで回った古着屋には、もっとお洒落なブティックが入っています。あなたとお喋りして過ごしたあの公園のジャングルジムは、子供の笑顔が絶えない広場になっていて、帰り道に喋り疲れた喉を潤した駐車場の自販機は、コンビニに呑み込まれました。わざわざ遠回りしてあなたが転んだ裏道も、舗装されてもう転ぶのが難しいくらいに綺麗です。あなたが美しいと言った、名も無い花が咲いた空き地には、新しいラーメン屋さんができました。まだ行ったことはないですが、とても賑やかです。あなたがカワイイと愛でていた、コインランドリーの隣家の怖い大型犬は、僕を見ても吠えてくれなくなりました。変わり行く街を眺めていると、あなたといた記憶が消えてしまうようで怖いのです。
確かに…あなたを忘れてしまえば、僕はもっと楽に生きて行けるし、この街も住みやすくなることでしょう。でもそれはもう僕じゃないと思うんです。そんな生き方は僕ではないと思うんです。愚かにも、この痛みと生きづらさを、まだ大事に抱えていたいのです。
寂しい御託はこのくらいにしましょう。ただ、あなたに会いたいです。癖のある長いブロンズヘアを一歩後ろで眺めながら、また歩きたい。左肩を叩いて悪戯がしたい。涙袋のほくろまで美しい横顔を見たい。少し低くて透き通る声が聴きたい。高くて五月蝿くも落ち着く笑い声が聴きたい。もう一度隣を歩かせてほしい。
ただ、あなたの瞳の中でお喋りがしたいです。
いつもより寂しがりなラブレターはこの辺で。いつも通りにつまらないラブレターも、今日で最後にします。もう手紙は書きません。想いが溢れても、書けません。
僕の命は、もう長くないのです。この手紙も病棟で書いています。実は、末期の白血病であることが発覚しました。独りなりにも楽しい日々の中、多忙と充実に挟まれて、体からのシグナルを見落としていました。阿呆だったなと…反省はしていますが、後悔はありません。幸い、不思議なことに恐怖も無いです。三月に生徒達の卒業を見届けた後、ここに入院しています。慣れない入院生活も3週間程が経ちました。手術・治療等受けましたが、希望は薄いようです。悲観はしてませんよ!安心してください。前述のとおり恐怖も無いです。お医者さんは希望を示してくれましたが、僕は残された時間を…確実に残っている時間を、希望への賭けではなく幸福として消費することを選びました。終末医療…と言えばいいでしょうか。来週退院して、定期的な通院治療に切り替えます。どのくらいの時間が残っているのかはわかりません。それでも、自由に使っていい時間だと考えると、恐怖心より期待感が膨らむばかりです。可笑しい話です。
やり残していることはまだいくつかあります。ささやかながら行きたいお店と、食べたい料理に…もっとくだらなくささいな事も含めれば両手じゃ足りないくらいにはあります。でもそのどれもが、ひと月もあれば足りるどころか余るようなものです。ただ、ひとつだけ、たったひとつ、どうしてもやり残してはならないことがありました。それを今から実行します。
あなたに、感謝の言葉を贈りたいです。十年もあなたに手紙を書いてきたというのに、“ありがとう”のたった一言を伝えることを忘れていたことに今更気付きました。
この十年、飽きる程につまらないラブレターばかりでしたね。ですが僕の手紙も…少しは華のある文章にはなれたと思うのですがいかがでしたか?「好き」だなんて安い二文字に頼らずとも、愛を謳えるようにはなれたと。自惚れでしょうか…。少なくとも、「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳すよりはセンスがあるのではないでしょうか?僕に言わせれば、そんな訳をした輩には、“本当に綺麗なもの”が見えてなかったと思うんですけどね。すみません。最後くらい懐かしき日のように冗談から始めたかったんです。
あなたが交通事故で亡くなって十年、しつこくて、くどく、女々しい手紙ばかり書いてきました。届く宛の無い手紙ばかりを書く僕を、どこか遠くで見てくれているのなら、きっと呆れていることでしょう。行く宛の無い愛を引きずる僕を哀れんでいると思います。それも自分本位の手紙ばかり。あなたが生きているのなら何度叱られたことでしょうか。
あなたの忘れ形見は、半透明に色褪せた幸せと、虚無に染まるモノクロの世界と、君のいない明日を生きていける強い僕でした。そんなもの…要らなかった。あなたのいない世界に生きる意味なんて無いと思いました。それなのに、あなたから貰ったものだから…捨てられなかった。抱えるだけ重く、抱き締める程に痛い棘なのに、あなたがくれたものだから…愛おしかった。僕の命ごと捨てるのが、勿体なく思えたのです。たぶん、そう思わせてくれたのはあなたでした。だから生きてみました。捨てずにここまで生きてこれました。
最期まで叶わなかったあなたとの口約束が道標になっていましたし、それは今も続いています。あなたと行くつもりだった…高台からの綺麗な海だけが取り柄のカフェ、客が来ないから文字通り動物しかいない小さな動物園、物理的に潰れそうな下町の廃れた映画館、野良猫の王国になった公園。あなたの言葉を頼りに、思い出せる限りの場所へと、独りで足を運びました。でもそこにはいつも、半透明の君がいてくれたんです。おそらくそれは、僕の記憶が創る幻影でした。それでもよかったんです。そこには二人だけの世界がありました。幻でもいい。触れられなくてもいい。現実という名の実体を帯びてないだけで、あなたといる世界線はそこにあったんです。幸せでいられた世界は、目に見えないだけでずっとそこにありました。だから、ちゃんと寂しいけど寂しくなかった。僕はあなたと、二人で生きてこれたのです。
僕は根っからの無神論者で、死者の楽園も永遠の監獄もくだらないおとぎ話だと思っています。神なんて空想の生き物です。来世なんて概念はまやかしにも満たない妄言で、怪異や幽霊なんてのも誰かの勘違いです。だからあなたは何処にもいない。もういない。そんなことはわかっていました。それでもあなたが半透明な影を、僕の記憶から伸ばしてくれていたおかげで、生きていても退屈はしませんでした。
今思えば、こうして手紙を書いてきたのも、僕の中に眠る半透明の君へ贈る為だったのかもしれません。それは自問自答のようなものかもしれない。一人芝居だったのかもしれない。届かないままでもいいのです。ただあなたのことを想う時、半透明な君の中に僕は確かに存在していたと思うのです。向かい合った瞳にお互いの影が映るように、君と生きた世界は確かに存在したんです。
埋まることの無いはずだった幸せを…未完だった僕の人生を、創ってくれたのはあなたでした。完成させてくれたのは君でした。甘くも酸っぱいこの人生は十分に熟したと思います。僕に残された命の賞味期限は、死ぬまで待っても余りそうです。あなたがくれた幸せな命ひとつ、時間の許す限り、味わって頬張ることにします。もし冬まで生きられたなら、君が食べたがった蟹鍋を食べに行こうと思います。もちろん…二人だけで。
人生は刹那。そんな一瞬の中であなたと知り合えたことが本当に嬉しい。あなたと出会えた奇跡は尊い贈り物で、あなたと生きた時間は美しい煌めきでした。喜びを分けあったのがあなたで本当に幸せです。
君の全てに ありがとう
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ペンが止まる。微笑みから零れた心の滴が、宛名の無い便箋の上で溶けた。午後の日差しに照らされて、宝石のように輝く。人はそれを涙と呼ぶ。
無色の風に乗ってきた私からはもう流れない。
あぁ、彼のその優しい笑顔が好きだった。無造作な黒髪をイタズラに撫でたい。もう一度力強く長い指を絡めてほしい。広い背中に抱きついたら驚いてほしい。叶わない想いが際限なく溢れる。涙の代わりに溢れてくれる。こんなにも近くにいるのに、限りなく遠い。
でもそれでいいの。未完のままだった私の人生は、キミの中で完成した。キミが創ってくれた。キミが私を想い続けてくれたことは、未完の私を満たしてくれた。だからそれでいい。キミを太陽にして私の幸せも十分に熟した。
キミのラブレターがつまらないなんて思ったことは一度もないよ。でも渾身の口説き文句は相変わらずダサい。「月が綺麗ですね」と言われた方がずっとロマンチックな気がする。流石は凡才の小説家。キザで胃もたれするような台詞選びなら天才だと思う。でもそんな凡才の口説き文句が誰よりも好き。誰のどんな言葉よりも嬉しい。
声が無いから“ありがとう”を返せない。でもキミは私の声が聴こえなくたって大丈夫。姿が無いからキミの左に見る景色になれない。でもキミは私の姿が純透明だろうと私を見てくれる。それが…寂しくないけど寂しい。けれど、私の幸せはちゃんとカタチを持ってここにある。
キミの全てに ありがとう。
叶うのなら、キミが蟹を食べる顔を、一番近くの遠くから見ていたい。もう少し長く見ていたい。次の春だって見ていたい。キミは死んでも幽霊になることはないと思う。キミの人生を看取ったら、私も無色の風に消えると思う。だから、瞳を交わすことはもうない。でもそれでいい。キミをもう少し長く見ていたい。それだけでいいの…-
夕焼け色に染まった皮を丁寧に剥く。旬が過ぎたばかりの香り。たぶん、甘くて切ない香り。白い繊維を無駄なくらい丁寧に除く。美味しいのに…勿体ない。彼は、私の大好きだった果実をひとくちで頬張る。味わってよ…勿体ない。そして素敵な笑顔。十年前から、ずっとその癖は変わらない。
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。
初投稿・処女作になります。小説を書くって…本当に難しいですね…笑(汗) 誰かに読んでもらえる環境に身を置くのは、緊張しますが新鮮ですね!
この短編小説のコンセプトは「手紙」です。手紙には、送る人と受けとる人の関係性とその背景が、他の意志疎通の手段よりも色濃く現れると思っています。
もし仮にですが、私が街中で手紙を拾ったとします。それを読むとするなら(※人様のプライベートには干渉しませんので実際拾っても読みませんよ?!!!)…そこには、送る人が受けとる人に何を伝えたいのか、伝えるに至った心情などが書かれていると思います。そして読み進めるごとに、送り手がどんな人で受け手がどんな人なのか…というのが見えてくるのです。それはもう物語足り得ると思います!
この時の私は、当事者ではないので第三者の視点になりますよね?それと同じく、この小説では…読者の皆様が第三者の視点で手紙を読み進めることによってひとつひとつ明らかになっていく物語…を目指して書いたつもりです笑
凡才の小説家と幽霊の少女による二人の一人芝居。
凡才の小説家で表現したかったのは「自分による幸せの完結」で幽霊の少女には「他者による幸せの完結」を表現・代弁してもらいました。似ていて非なるものですが、その本質は何処かで交わっていると思います。それを、交わることのない彼らの人生に投影したつもりですが…伝わってくれていると幸いです。笑
半透明と純透明の違いや…彼らのお互いの呼称の変化など、それは書いた私にもわかりません。笑
解釈は自由なのです。なんせ、、私たちは無関係の第三者なのですから!笑
改めて、最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました。次回作もよろしくお願いいたします!




