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サマーランドのペット達

作者: 旗 元彦

 私は犬に死刑にされた。犬も私を死刑にした。お互いでボタンを押し合い、一緒にそれぞれの刑が執行されたところを見守った。物語としてはおもしろかった。次に、私と犬は死刑執行中の人間と動物を置いて、ボタンを押す役目の方達と機械に別れを告げると連れ立って建物を出た。新しい仕事が待っていたからだ。


 栄養ドリンク一二本パックを見たときに、多すぎる、と指摘した。試供品として二本余分についてきた。彼は「得だ」と言った、同時に一気に飲むわけじゃない、でも全部必要とするような感覚になるかもしれない。私は感覚といわれてもそれはどういったものなのか理解できずに、まごまごと食い下がって指摘した。不安にさせられた、たとえば買った卵が帰り道に割れないかなって程度だけど、言わないでは済まなかった。

 駐車場まで擦られる前のマッチ棒みたいな角度で彼の後ろを歩いた。断っても強引に私の分の買い物をおごられた事情にしたがい、ビニール袋を持ったその手から袋のなかのおごり分を出してもらわない限りどうしようもなかった。一緒に詰められてしまったのだ。 お互いの現場は不幸だった。先輩には距離の才能がないのだ。私だって個人的にそうだった。


 起き上がらないのが不思議なくらいに、遺体はベルトコンベヤーに、装置の波に乗せられているんだ。人間と動物は流れていた。すでに一個の象徴みたいでもある。頭にタオルを巻いて、顔にパックをして、焼酎を一口、化粧の落ちた唇をつけて飲んだ。今日は彼のための日なのだ。


 彼は言った、あるいは、思った。

 ああ、

 ・・・・・・幸せだ。


 本屋に彼の写真集が置いてあった。希望通りの写真集だとわかった、夢の生き写しなのだ。私はそれをたくさん買った、安売りの野菜みたいに、店頭のは買い占めた。いま、本は袋に包まれたまま部屋の隅にあり、誰にだって教えたくはない。ペットではない犬の死体の写真など、あまり眺めるものじゃないし、撮るものでもないけれど、撮るな、と反抗しなかったほうが悪いわけだ。そうじゃない。計算によると一日の死亡件数は二〇件前後で、数時間に一人は死んでいるという予測を弾き出した。ペットはどれくらい、飼い主はどれくらい、どれくらい、ってことだ。どれくらいって、私は諦めて、ベッドに入った。


 本当に、でしょ。


 私の夢は気にされなくてもいい夢だ。

 夢はいつも元気だ。


 奈津子、どこにいるのよ?

 お母さん、ここよ。

 アンタとろくさいわね。

 そうだね、

 お母さん。

 私はグズなのよ、ママ、

 あなたの言った通りだ。


 居間の床に転がったブランデーの匂いときたら、玄関まで広がっていて、嗅ぎつけた者を悲しませた。といっても私だけでしかない。

お母さん、ったらどこに行っちゃったんだ。

犬の散歩? まさか。でも犬は庭にいなくなっている。私はキッチンのテーブルにゆっくり自分ちの買物袋のお尻を着地させ、底の皺を全体に、血管みたいに細かく行き届かせた。お母さんは近くの物や壁の後ろから突然出てきてひとを脅かして喜ぶ幼稚な癖をいまだにもっているので警戒したのだ。

 居間に行くより、お母さんを見つけないと。

 母子家庭なので探すのは片方だけ、ラクチンだ。


 私は言った、か、思った。

 で、ママはどこに?


 たいへんだ。何度も拭いて手間を費やした、前にお母さんのゲロがひっかかった裏口の窓を開けた。都市ガスの入った巨大な容器のふちだけ覗いているのが見えた。まったく、お母さんの酒癖は寂しいからだし、私がもっと家に居るようにしてあげたのに、役にたたなかった。それにしても当の本人が行方不明ごっこの習慣を身に着けるというのは、どうなんだろうか。お母さんはひとりではなんだってうまくいかないときがあるのに、なんとかしてあげなきゃ、きっと、泥酔して廊下に倒れて眠り込んでいるのだ。


 私は家を出て母と暮らしていた。

 先輩は仕事先にいた。

 仕事の先輩・後輩といった関係だ。

 いまでは先輩の消息はわからない。


 では犬が救われた話をします。


 同じ会社の高田先輩の部屋に遊びに行ったとき意外な物をみつけた。犬嫌いのはずの高田先輩は犬の写真集を本棚一列占拠するぐらい買い込んでいた。意外なことだった。

 高田さんは真顔になれない顔で言った。

「前の彼女が置いていったものなんだ」

「なるほど」私は犬の本を一冊手に取った。「それで高田先輩あんなに犬嫌いになったんですね」冷やかし終えると犬の本を戻した。

「うん、まあな」


 高田さんと一緒に営業へ行った帰りのことだ。私達が駐車場に戻り、日々の営業のせいでくたくたになるほど使い込んだ車の運転席のドア板をわたしが開けたとき、迷い込んだ理屈はわからないけれども、取引先の敷地に一匹のハスキーが侵入していたうえに続いてやってきた先輩に向かって凄い勢いで飛びついて、じゃれた。高田さんはみるみるうちに青くなり大声で女の私に助けを求めた。

 高田さんは大の犬嫌いなのだ。犬を見ただけで全身にじんましんができ、犬を撫でただけでゲロを吐いてしまい、犬に飛びつかれると失神をしてしまう。駐車場の犬の件でも私に助けを求めたと思ったら先輩はすぐさま失神してしまったほどだ。私はせっかく座った運転席を抜け出して急いで現場に駆け寄った。

高田先輩の意識はとっくになくなっていた。

精悍でかわいいハスキー犬の頭を撫でるついでに、あんぐりと口を開いたまま私は呆然としてしまった。こんなにいい子なのにな。


 私達は犬事件のあった夜、野球を観戦していた。リーグ優勝が決まったところで今年導入されたクライマックスシリーズの話になった。三つ巴争いはなかなかおもしろそうだし、私達が応援しているチームも優勝は逃したものの、ぎりぎりクライマックスシリーズには出場できてるので結構楽しみがまだ残っている。

 缶ビールのロング缶の6缶パックをお互いで4本空けて最後の一本ずつを飲んでいた。

ビールは栄養ドリンクと一緒に買っておいた品々の一部だ。栄養ドリンクは冷蔵庫の上に落ち着いて、私は本当に効くのかな、と疑って眺めていた。その間も雑談は飛び交っていて、試合は六回裏に進んでいた。

 ワンアウト。

 いままで快活に話し続けていた高田さんは急に黙り込むとビールをちびちび陰気に飲みはじめた。私はなにか失言でもしちゃったのかな、と雲行きを心配した。なにしろ高田さんという人はお喋りでも無口でもないが、一旦、話題にのると自分から不意に話を打ち切るような人ではないからだ。

 私たちの贔屓のチームは負けていない。

 テレビの野球中継も終わりはじめ、テレビ放送の活況はしんみりとしてきた。

「どうしたんですか?」

「うん。さっきの話、嘘なんだ」

「ふむ」私は、野球のクライマックスシリーズのことかと思った。「先輩、クライマックスはちゃんと開催されますよ」もちのもちろんで。

「それはね」先輩は歯を覗かせた。「犬の話さ」

「犬ですか?」

「うん、そこの犬の写真集、彼女が置いていったんじゃないんだ。俺が買ったんだ」

「へえ」

 私はまぬけな声をだして、また意外に思ったがそんなにおかしい話でもないと感じた。少なくとも新導入されたクライマックスシステムよりは現実的だ、犬、犬の話ですか。

 そういえば・・・・・・。

「先輩はなんで犬嫌いになったんですか?」

 高田さんは長いあいだ缶ビールにじっと視線を落としてから私に目を移した。なんとなく私がそういう質問をするのをずっと待ち続けていたみたいな気がした。母親にバカにされてもやはりしかたがない鈍感なのだ、でも早く言えばいいのに。

「昔、保健所で働いてたんだ」

 私は献血かなにかをする場所を思い浮かべた。

「いやそういうのじゃない。犬を始末するところだ」

 私は「そっちでしたか」と言って頷いた。

「ああ、俺はそこに居たあいだ何百頭という犬の命をガスで奪ったよ。殺したんだ」

 惰性で頷いていた私は「普通のことでしょ」と言った。「きわめて一般的なことでしょ」

 先輩は曇った顔をぐにゃっと無理矢理歪ませた。きっと泣いてみせたかったのだ。彼の普段、もともと、笑っているような顔のつくりが邪魔した。

「犬を持ってくる人間の事情はさまざまだし、ふざけたのもあれば切実なのもあるんだ・・・・・・。あるとき犬が子犬じゃなくなったからって理由で犬を持ち込んできた親子がいたんだ。子犬が欲しかったから子犬を買って、犬が子犬じゃなくなったから、それを処分して子犬の犬を新しく飼いなおすっていうんだ」

 私は口を挟まないとすまなかった。

「酷い理由ですね。次の子犬も大きくなったら保健所行きなんですか?」

 高田さんは首を振った。それは返答のためではなかった。

「子犬が欲しかったんだろう。俺はそういった人たちを責める気はない。ただひとつだけ、ただひとつだけ理解できないことがある。その子犬の親子の、お母さんと二人の子ども達は真剣に泣いてたんだ。俺にはそれが理解できなかった。なにが悲しいんだ? いったいなぜ悲しいんだ? 奴らがなにを悲しんでるのかまったく俺には理解できなかった。奴らはレトルト食品を包んでるパウチをビニール袋に投げ捨てるみたいに飼い犬をガス室に送り込んでるのに。

 聞いてほしいのは。

 俺の実家では猫を飼っていてね、いつだか飼い猫のチャーが車に轢かれて死んだとき俺は泣かなかった。だけど妹は隣でダンボールに入れられて丸くなった姿勢で死後硬直し始めたチャーを見下ろして泣いていた。俺は妹は優しい奴なんだな、と思ったよ。それで俺は、妹も着いて来たかもしれないし、来なかったかもしれないけど、まあ、親父と一緒に、高校のマラソン大会で走らされた山が割と近所にあるんだけど、車にチャーの死体をのせて親父とチャーを埋めて葬ってやるためにその山に行ったんだ。いつもは家の庭に埋めてたんだけどな」

 わたしは中身の残りが少なくなった缶ビールを片手で前後に揺らした。高田さんのほうはとっくに缶ビールを飲みつくしていた。

 テレビの映像は変わって流れた。

「俺ははっと気づいたんだ。それまでも犬をガス室に送るボタンは俺が押していた。でもちっとも俺自身は悲しくはなかった。ただ、くだらない理由で犬を連れてきて書類にサインして犬を置いていく奴らを軽蔑して馬鹿だと思ってた。さっきの話した子犬の親子が来たときだ。奴らはバカが雁首揃えて、アホの母親と低脳な娘と息子が涙流してやがった。それでもしっかりと犬は保健所に置いて帰りやがった。母親はこう思ってるだろう。子どもの情操教育にこのワンちゃんは役にたってくれた! あなたのおかげで新しい子犬《、、》を飼えます。ありがとう! ってね。なにが役にたっただ馬鹿野郎。・・・・・・。そういうふうに俺が心の中で最大限侮蔑の言葉を吐いていたときだ。ふと奴ら親子の娘の泣く姿が、昔、妹が死んだチャーのために涙を流した姿と重なってみえた。俺はショックだった。善悪を考えたとき妹が必ず善で、ガス室へ犬を送った奴らが悪のはずだ。けれども俺のなかでなにかが発生したんだ。それは妹の悲しみも奴らの娘の悲しみも同じもので等価であるんじゃないかって考えだった。俺はなぜ自分がこんなことを考え付いたかわからなかった。でもそれからは俺はもう犬達をガス室に送る、あの丸い緑色の単純な、『送る。戻す』、っていう二種類のボタンを押せなくなってた。そして俺は心底気づいたんだ。実際、本当に犬をガス室に送ってたのは俺なんだってね」

 高田さんはテーブルを離れると本棚に向かい犬の写真集を手に取り、パラパラと捲った。

 彼はキッチンの棚に置いてあった栄養ドリンクを一本取り出して飲んだ。

 私は言った、こう考えたらどうですか、って。善悪を考えるよりも別のことを考えてみるとかどうでしょう。わたしたちはデリケートなことになると「偽善を言うな、偽善者ぶるな」と言ってしまうって、よくわかってます。だから善悪という枠組みを取り外して考えましょうよ、ただひたすら機械的な数字的な静的なモデルで犬と周囲を捉えるんです。そのモデルのなかではやっぱり犬が死ぬことは同じなんですけど、犬を助けたいひとは無心に犬を助けても「これが世の中なんだ」っていう、もとは悪側だった陣営の声を無視して、ちょっとでも犬の生存という数字の値を維持して多くするために全力を尽くす。このモデルのなかでは犬をガス室に送るボタンを押す役目の人も、戻るボタンを押して犬をガス室に送る檻のなかから犬を助ける、もとは善意ある陣営の人の行動と高田さんをイコールで結んでも問題ないことにする。だって高田さんが悪側と繋がってるなら逆にそっちと繋がっててもいいわけですから。「送る」と「戻る」は式の移項ってやつや交換法則で繋がってる。犬をガス室に追いやる人も救う人も式の変形の結果でしかないんです。高田さん、あなたは自分の気づかないところで犬達の命を救うボタンを押していたかもしれません、って、きっと。

「夢みたいな話だな」

 高田さんは背中をみせたまま振り返らなかった。

「犬を死なせた事実は消えないんだ」

「犬の死が消えたらダメですよ、救われることが永遠になくなるじゃないですか」

「君ってあんがい強情な奴だったんだな」

 私は椅子を後ろにスライドさせて本棚に近寄ると、高田さんの横で犬の本を手に取った。

 高田さんは泣いていなかった。

「俺はガス室に送られて死んだ犬の写真を撮ろうと思うんだ。それでできたら将来のいつの日か自費出版してでも、保健所で死んだ犬の死体の写真集を出したい。きっとなにか伝えられる気がするんだ・・・・・・」

「わたし十冊買います。家族と友達の分も」

 私達は本を本棚に返してテーブルに戻った。

 それからビールがなくなったのはわかっていたので、キッチンに行ってグラスに氷を落とし、ウィスキーを注ぎ、ウーロン茶で割って飲んだ。高田さんは私の分も当然つくってくれた。

 再び快活に喋り始めた高田さんに付き合いながら、犬のことで決して体の体調と神経を崩すことはなくなった、わたしの未来の高田さんと救われたガス室の犬達のことについてこっそりと想像を巡らせた。


 それで、時間は過ぎた。

 買った写真集を眺めるのを止めて、彼の出来上がった犬達をしまいこんで、一人暮らしで家に住む私は洗顔パックを剥がして捨てた。残念だけど母の分はない。すでに母と同じ年になっていた。


 うん、なかなかのもんだ。


 私は迎えに来た彼と家を出ることにした。二人とも四つん這いに歩いて各部屋を通過して自宅を出ると、その姿で外を歩き、エレベーターの前でどうやって下降ボタンを押すか議論した。往来に出ると四つん這いの私と彼に人々は注目しなかった。人間か動物かというより、自分の床は動いていないと思ったのだ。みんな、歩いていたわけで動いているのは動くものだ、というわけだ。合理的に私と彼は完全に床になれた。二人は腕利きの床職人としては希望があったので夏の土地に行ってみることにして旅に出た、ついでに日付変更線を跨ぐことができそうだった。

 もちろん、犬達を助けに行くのだ。


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― 新着の感想 ―
[一言]  拝読させていただきました。  前半部、「ん?」と思う文章が続いたので読み辛かったのですが(原因の一つに、一文一文が長過ぎる点が挙げられると思います)、高田さんの独白のシーンで「なるほど」…
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