02話 万福の温もり
マルクはやや重みのある扉に恐る恐る手をかけた。
力を込めて扉を押すと、蝶番の擦れる音が耳に触り、マルクは顔を顰めた。
扉が開くと風が飄々と二人を取り巻きながら中へ吸い込まれていくことに気味の悪さを感じながら、中を覗き見る。
中は木窓を拵えてあるおかげで陽を十分に取り入れられていて、屋内は蝋燭の必要がないくらいには明るい。
受付の机の上にささやかに備えられている花瓶や年期を匂わせる戸棚に埃が被っていないところを見るに、手入れはされていることが窺える。
「イルミさぁん」
マルクが辺りを見渡していると後ろから入ってきたアリエルが店の者であろう誰かを呼んだ。
すると奥からぱたぱたと忙しない音を響かせて、割烹着を身に着けた女性が、後ろで纏めた髪を揺らしながら二人を迎えた。
「あらあらアリエルさん、お早いお帰りでぇ。あら、そちらの子は?」
イルミと呼ばれる女はそう問うて、マルクに訝しげな視線を向けた。
彼女のその澄んだ瞳は小汚い餓鬼を見るような冷ややかで突き刺す視線ではなく、単純に二人の関係が気になったというような眼差しに感じた。
あまりに興味深そうにマルクを見てくるので、マルクはぎこちない苦笑で対抗した。
「少々訳ありでね。これから一緒に逗留することになる」
「あらぁ、そうですの」
「あの、お世話になります。ま、マルクです」
マルクの拙い自己紹介に、イルミは『こちらこそ』といったふうに微笑んだ。
「イルミよ。よろしくねぇ、マルクちゃん」
「……おほん。部屋は変えたりしなくていいんだが、追加料金は銀貨で足りるかい?」
「ええと、ええと……。十分すぎるくらいですよぉ!」
アリエルから手渡された銀貨を手にしたイルミは、それが放つ輝きに明らかに戸惑っていた。
世に上位の貨幣の金貨が出回っていても、銀貨は銀貨で十分に大金であった。
長期の逗留でもなければ、宿泊の勘定で銀貨が支払われることはまずない。
それを踏まえても黒ずんだパンなどに銀貨を二枚も支払う酔狂な輩など──アリエルを除いて──この世にはいない。
「そいつは助かります」
アリエルは目を細めて明るい笑みを浮かべた。
「ああ、それと手隙になったらでいいから部屋に水を張った桶を持ってきて欲しい」
「はぁい。わかりましたぁ」
マルクが汚い身形をしているからか、イルミはすぐに察して了承してくれた。
おっとりした口調でもイルミもやはり根は商人で、損得勘定はお手の物であった。
ともすれば、然るべき代金さえ受け取ったら顔を顰めることなく行動に移してくれることは容易に予測出来る。
「では、しばらく部屋にいるから、飯時になったら呼んでくれ」
「ああ、アリエルさん、鍵! 鍵をお忘れですよぅ」
「おっとと。有難う」
アリエルはイルミから鍵を受け取り忘れていることを催促され、格好がつかず居所が悪くなったのかそそくさと行ってしまう。
マルクはイルミに深く一礼だけしてアリエルを追うのであった。
◇
二階に位置するマルクたちの部屋のは簡素なもので、机やベッドなどの最低限な家具を除いたら殆ど何も残らない伽藍堂であった。
旅人には荷は少ないことが美徳とされ、執拗に物を用意するのは旅に不慣れな者がする所業であるが、仮にそうであったとしても年頃の娘の住む部屋としてはあまりにも物が無さ過ぎるというのが本音である。
それでもこれまで家無しの生活をしていたマルクには雨風を凌げるうえに温かいベッドで寝ることが出来る喜びの方が大きく、心が跳ねるのを止められないのであった。
しばらくしてイルミが混じり気のない湯の入った桶を持ってきてくれた。
しかし、気を利かせて湯を持ってきてくれたところをみるに、銀貨の効果は覿面であったようだ。
布巾にその湯を湿らせ身体を拭いていく。
マルク自身、川などで水浴びをして汚れを落としてきたつもりではあったが、冷たい水と温かい湯とでは汚れの落ちる量は雲泥の違いになった。
今までその身にこびり付いていた穢れは透き通っていた水面をあっと言う間に覆い尽くした。
マルクは最後に顔を拭き、ぷう。と、胸一杯に溜め込んだ生温い息を一つ吐いた。
「ふん。なんだかおっさん臭いな」
「お湯、気持ち良かった」
「そいつは良かった」
「ありがと」
アリエルはマルクの仕草を鼻で哂いながら、机の上に置いてある水差しから器に水を注いでそれを嚥下していた。
まるで一杯引っ掛けている四十絡みの男のようなアリエルの様を見て、『お互様』とマルクは心の中で呟いておいた。
「そういやこれから飯だが、腹にはまだ入るか?」
「う、うん、大丈夫……。多分……」
アリエルの言葉が、先ほど食べたパンのことを思い出させた。
マルクが食べた硬いパンは十分に腹を膨らませ、まだやや腹の中を支配しているようであった。
逆に考えると小さいマルクには相応な大きさではあったが、如何せんこれより夕餉の時分であった。
マルクのしどろもどろな返答を聞いたアリエルが片方の口端を釣り上げた。
「そいつは残念だ。ここの女将のエイダさんが作る料理は格別なのになぁ」
「えぇ!? 先に言ってよ!」
「盗品をいつまでも持っているほうが居心地が悪いだろう?」
「う、うん」
マルクの必死の訴えをアリエルはさらりと躱した。
折角のパンを捨てるのは恵みに対しての冒涜である上、曲がりなりにも此方は代金を支払ったのだ。
それにパンはいずれ悪くなる。
陽射しが景色を歪ませるほど暑くなる今の季節では出来るだけ早く食べてしまったほうが正善であった。
「まあ、エイダさんは飯が美味いのは確かだがな」
「……やっぱり意地悪」
意地悪く揶揄うアリエルに付き合い切れず、マルクはそっぽを向くのであった。
◇
一階に位置する食堂は二階のマルクたちの部屋とは打って変わってとても賑やかであった。
料理の温かい空気と匂いで客人の心が解れたのか、鍋の煮立つ音や調理器具のぶつかり合う音が聞こえないほどに大いに談笑する者等や、対称的に厳かに舌鼓を打ちつつ静かに食事を楽しんでいる者も見受けられる。
そして、皆に言えることは、料理を口にしているもの全てが幸せそうであるということであった。
「やあやあ、来たね!」
そんな騒がしい食堂でもはっきりと二人に声が届くほど声高に物言うのはこの宿の女将のエイダであった。
それよりも目を引いたのは彼女の恰幅の良さであった。
彼女の恰幅は彼女の料理に胃袋を捕まれた偉丈夫に何ら引けを取らなかった。
どっしりとした足取りで二人に歩み寄り、アリエルの前で立ち止まった。
「こいつがこれから一緒に暮らすことになったマルクです」
アリエルがマルクの頭の上に手を置いて紹介する。
ふうわりと乗せられた手から温もりが頭に伝わるのを感じていると、エイダの手がアリエルの手を払った。
「その汚い手をどけな! あんたがマルクちゃんだね? アタシがエイダさ、よろしくな!」
彼女の手が容赦なくマルクの頭を掻き回した。
エイダにとって優しく触れたつもりであっても少年のマルクにとってそれは乱暴に感じた。
頭を撫ぜられること自体は吝かでないにしろ、日に何度も頭を蹂躙されることはまた別の話であって、アリエルと出会ってもう何度目のことであろうかとマルクは独り思い悩んでいたところ、エイダに払われて行き場をなくしたアリエルの手が二人を割って入る。
「怖がってるじゃないですか。ほれ、自己紹介しな」
マルクはアリエルの言葉にはっとし、慌てて口を開く。
「ま、マルクです。エイダさん、これからよろしくお願いします」
「なんだ、好い子じゃないか。一寸そこらに座って待っててくんな」
エイダはそう言うと踵を返して厨房の方へ戻って行った。
イルミがエイダに何と伝えたのかは定かではないが、どうやら歓迎してくれた様子であったことに、マルクは自身の頭ではなく胸を撫で下ろしたのであった。
◇
「もう、だめ……」
部屋のベッドで横たわり、鱈の腹のように膨らんだ腹を摩りながらそう口にしたのはマルクであった。
久方ぶりのふうわりとした寝具の和かさや温かさを楽しむことも出来ずに天井を見つめながらマルク自らが犯した罪を悔いていた。
原因はマルクが欲張ってエイダが腕に縒りを掛けて作った幸せを頬張ったことがその総てであった。
エイダはマルクのその痩せ細った身体を心配して御馳走を振る舞った。
評判の彼女の料理は今しがた食べたパンのことなどなかったかのようにマルクをがっつかせた。
マルクの食べっぷりはエイダを調子に乗せたことは言うまでもなく、今のこの醜態を晒す羽目となったのであった。
「エイダさん、怖いけど、好い人だった」
天井を見つめながらマルクはぽつりと呟いた。
強面で、その見目を裏切らない福与かな体躯をしている彼女であったが、内面は快活で竹を割ったような性格の持ち主であった。
骨がうっすら浮き出るほどに痩せこけたマルクを心配して沢山の御馳走を振る舞ったことは結果的に最悪の事態を招くことになったのであるが、お腹が満たされているからか心も十二分に満たされていた。
「ああ。あそこに通ってまるまる太った連中は皆お前と同じことを言ったそうだ」
「……でもアリエルは太ってないでしょう?」
「ふむ、確かに」
世辞を抜きにしてもアリエルは肥え太ってはいない。むしろ線が細くしなやかな体つきをしていて、めかし込んで人前に出たら、良くも悪くも視線を集めかねない風貌をしている。
「では、私はエイダさんを好い人と思っていないのかもしれんな」
「……どちらかというと怖いと思ってないんじゃない?」
「さて、どうだかなぁ」
アリエルはそう言って水差しから器に水を注ぎながらくつくつと喉を鳴らす。
そのほくそ笑むアリエルの表情では胸襟をどこまで開いているのかマルクにはわからなかった。
「ふぅん……」
マルクは気の抜けた声を漏らして目を閉じた。
アリエルの胸中を読むことよりも、自身の腹の塩梅の方が今のマルクには肝腎であった。
腹何分目といった許容なぞ疾うの昔に越えていて、今のマルクは梃でも動かないであろう。
尤も、無理に動かそうとする者がいようものなら、悲惨な光景を見ることになる。
幸いなことに部屋にいるのはマルクの他にはアリエル一人であって、わざわざ彼女自身の部屋を地獄絵図にするようなことはあるまい。
「まあ、好い」
アリエルはそう言って、すんと小さく鼻を鳴らした。
「今日は疲れたろう。今夜はゆるりと休みな」
「うん……」
アリエルの言葉にマルクは短く返した。
どの途、動くことが適わないのなら精一杯アリエルに甘えることにするのが賢明であるとマルクは判断した。
──明日のことは、明日考えよう……。
腹一杯に溜め込んだ万福と、久しいベッドの布団の温もりに、マルクは早々に意識を闇の中に手放したのであった。
万福と満腹をかけてるだなんて言えない……。