01話 晴天の霹靂
※書き貯めている部分を投下中です(笑)
※※これが投稿に踏み切った本来の目的でもあります(笑)(笑)
今日もベインズは喧騒としていた。
ベインズは今でこそ賑やかな商業都市ではあるが、元来、都市と港とを継なぐ、いわば中継地として肥沃な大地に生い繁る木々を切り開いて創られたことに始まる。
元々は水捌けの悪い土地で、しばしば水害に悩まされもしたが、地を踏み固め舗装することによって馬車でも難無く行き交うことの出来る道を造った。
そして、家屋を築き、命を育むことでこの街は徐々に発展していった。
当初は物資の搬送や移動の際の休憩地としてだったものが、やがて多様な者に利用されるようになり、半ば自然に商業都市となった歴史を持つ。
故人の想いを受け継ぐように、今日も今日とて一人でも多く客を惹こうと声を荒げる商人や、女の尻を追いかける若気た男など、立錐の余地もないほどの人でごった返していた。
そんな人混みを掻き分けるように、襤褸を纏った小汚い一人の少年が、黒ずんだ如何にも硬そうなパンを抱えながら駆け惑っていた。
齢七つか八つと思われる少年が作った軌跡を辿るように四十絡みの男が少年の後を追っていた。
後ろから迫り来る男に捕まるまいと必死に逃げる少年ではあったが、何者かの足に躓き、少年の次の足が地を捉えることは叶わなく、重力は容赦なく少年を地に張り付けた。
少年は足元に気を使わなかった後悔と今の状況に焦燥の念を覚えながらその足の持ち主に憎悪の視線を送った。
忌々しい足の持ち主は外套を深く被った青年であった。
「盗みはいかんなぁ、坊や」
短く告げられたその声は、喧騒の中とは思えないほど鮮明に少年の耳に届いた。
凛としていて、やや高く、澄んだ声であった。
こんな状況では、その声もとても意地らしく嫌らしく聞こえ、少年は青年を睨んだ。
むしろ、少年に出来た唯一の行動が、ただただ睨むことであった。
「くっく。良い眼だこと」
少年の持つ翡翠色の眼は吸い込まれそうになるほど穢れなく澄み透っていた。
そして、その眼は憎き青年の姿を捉えて離さなかった。
「……だが、そんな余裕、今はなかろう?」
「あ……」
少年はその冷徹な笑みを浮かべる青年の言葉を受け、咄嗟に後ろを振り向いた。
案の定、後ろには鬼がいた。
『追いかけっこは終わりだ』と言わんばかりのその形相に少年の身が竦み、彼の小さな身体がさらに一回りは小さく見えた。
「はぁっはぁっ、はぁあ……!」
野次という恰好の障壁もあり、逃げ場は既になくなっていた。
肩を上下に揺らした店の男は笑みを浮かべて青年に歩み寄る。
「あんちゃん、そこの泥棒小僧を捕まえてくれて有難うよ」
「礼には及ばんさ」
青年は店の男に気障な台詞を返した。
少年がこれを聞き、不快そうに顔を曇らせた。
少年の頭にはもう絶望しかないのであった。
「……だが、一つだけ願いがあるんだ」
青年は右手の人差指を立てて、それを男の眼前に突き出した。
男だけでなく、少年や野次までがその指を凝視した。
「……この坊やの処分は私に任せて欲しい」
店の男の眼前にあった青年の指の先はゆっくりと少年へと向けられた。
青年の動作に見蕩れていた店の男は、青年に視線を向けることで我に返って憤慨した。
「はあ!? 冗談じゃねえや。この糞餓鬼にゃ何度も痛い目見せられてんだ。これからこいつは役所に連れてくところよ」
「そこをなんとか頼むよ。代金は払うからさ」
青年はそう言うと、革袋から冷たい音を響かせながら、銀貨を二枚ばかり取り出して男に握らせた。
「……っ!」
銀貨の持つ独特の冷たさが男の頭に滾った熱い血を冷やしていった。
人間の大概は目の前に大金を見せられると心は容易く揺れるものであり、それが一銭でも多く稼ごうと懲りずに日がな商いを繰り広げている商人相手だと尚のことであり、それはこの男も例外ではなかった。
むしろそれだけの価値が銀貨というものにはあった。
それが二枚と言うことなら尚更である。
「お、俺も役所に突き出すのは悪いと思ってたんだよ」
店の男はどぎまぎした声色で、バツの悪そうな顔でそう言った。
「ロハじゃねぇってんなら、俺からは何も言うこたぁねえしな」
「器の広い御仁で助かる」
「だがよぉ、なんだってこんな小汚え盗人を庇うんだ? こんな餓鬼に銀貨一枚の価値だってありゃしねえぞ?」
感謝の意を口にする青年に男は小声で耳打ちした。
男の言うことは尤もであり、間違いではなかった。
見ず知らずの盗人を救って百害こそあれど、一利あることなぞまずないものであるからだ。
「ははっ」
青年は短く哂い、裏表のない笑みをこぼした。
「失礼。ご忠告痛み入ります」
「まあ、俺にゃ関係ねえか」
バツが悪そうに男が頭を掻く。
「ただ、次はねぇ。それだけのことだ。じゃあな」
男は言うだけ言い、少年を一瞥して踵を返し、来た道を引き返した。
男が立ち去ると、止まっていた時が動き出すように、事の始終を見守っていた野次も動き出した。
そして再び街が音を取り戻した頃、青年は少年に手を差し伸べた。
「やあ、坊や。立てるかい?」
半ば動転していた頭でも、青年のその言葉にどうやら助かったことを悟る少年。
差し出された青年の手を取って少年は立ち上がった。
「あの……、有難う」
「うむ。まあ、ここじゃなんだ、一先ず歩こうじゃないか」
少年にとって青年の手はどこまでも温かく感じた。
◇
二人は人気の少ない街の外れまで行き、更地を見つけて立ち止まり、角材の小山に腰を下ろした。
「あぁ、膝を擦りむいているな。一寸じっとしててくれ」
青年はそう言うと、徐ろに少年の膝に手を当てた。
その手は、『ほうっ』と淡い光を帯びていて温かく、ややもすると少年の膝の傷を癒した。
「魔法……?」
「そうさ。魔法を見るのは初めてか?」
「お母さんも使えた」
「使えた?」
「うん」
少年は青年の魔法に亡き母を思い出した。
とても優しい母の魔法。
その懐かしさに自然と目頭が熱くなるのを感じた。
少年はそれから斯々然々、自分の境遇を語っていった。
◇
「……そうかい。そいつは今まで辛かったな」
「だから、僕はどうしても生きなきゃならないんだ……! お兄さん、僕を連れて行ってください!」
「くっくっく。まあ、落ち着け。お前は二つほど勘違いをしている──」
青年はくつくつと喉を鳴らしながら少年を諭し、そのまま続けた。
「──ひとつは私はお兄さんじゃあない」
青年はぱさりと外套のフードを取ると栗色の髪を後ろで纏めた、端正な顔つきが顕になった。
「ええ!? だって胸が──ッ」
「喧しい」
青年は容赦なく手刀を少年の頭に食らわした。
体躯も男のそれと差がなく見えるのはすらりとした身の丈とやはり胸が原因で、少年が男と見間違えるのも無理はなかった。
「こほん。もうひとつはお前を連れて行くのは元より決まってるということ。私は銀貨でお前を買ったんだ。つまるところお前は私のモノ、謂わば奴隷みたいなものさ」
「う、うん」
ベインズでも奴隷はちらほら見かけられる。
商業などが発達してくるとどうしても人手が要るようになるため、そうなってくると街の発展に付随して奴隷のやりとりも盛んになる。
ベインズにて生を受けてより今まで奴隷を見てきて、その待遇を理解している少年は固唾を飲んだ。
「まあ、お前の口から『付いて来たい』という言葉が出てくれて安心したというのが本音だがな」
「もし付いて行きたくないと言ってたら……?」
「ん。迷わず役所行きだな」
「ええぇ……」
青年は落胆する少年の頭を乱暴に撫ぜながら続けた。
マルクは先ほどまであまりにも余裕がなかったため全く気にしていなかったが、女性だと打ち明けられてようやくこの青年の指の細さが女のそれだと実感できた。
男のそれだとどうしても太く、そして逞しいものとなる。この青年の指は、母を思わせるほど細く嫋かであった。
「とまあ、これから宜しくな。そういやまだ名前を聞いてなかったな」
「マルク。マルク・ロペスです」
短く、区切るように少年は自分の名を口にした。
「……お姉さんは?」
「アリエル・ローナー。アリエルでいい」
「アリエルさんで──げふんっ」
アリエルは、さん付けを嫌い、再びマルクの頭に手刀を放った。
その動きは思いの外洗練されていて、二度目にも拘わらず微動だに出来ずに食らってしまった。
マルクの上顎の歯と下顎の歯が勢いよくぶつかる音が虚しく響く。
「アリエルでいい」
「ア、アリエル」
「うむ、それで良い」
叩かれて舌を噛んだのか、顔を顰めながら頭を抑えるマルクを見て満足したアリエルは、意地悪そうにくつくつと喉を鳴らしたのであった。
◇
日が傾き始めると先ほどの喧騒も和らぎ始め、人混みもある程度緩和してくる。
歩くことに不便ではないにしてもまだ人混みと呼べるだけの人はいるため、アリエルは逸はぐれないようにとマルクの手を引いて歩を進めていた。
マルクの反対の手には先ほど盗んだパンが握られていて、マルクはそれを頬張りながらアリエルのやや後ろを歩く形となった。
マルクの盗んだパンは質の悪いものであった。
店頭に並んでいるパンは盗まれても比較的被害の少ない質の悪いものが多いためであった。
客引きのために混じり気のない白い小麦の粉をふんだんに使用したパンも並ぶこともあるが、その辺りは十二分に考えられていて、そのどれもが店主の目の届くような場所に置かれていた。
空いた腹さえ満たせればそれで良いと考えていたマルクが盗んだものは必然的に質の悪いものとなった。
『どうせ捕まるなら飛び切り好いパンを盗めば良かった』などという、たらればに苛まれて葛藤していると、アリエルに引かれていた手に力が込められていることに気付く。
「嫌な気分だ」
「どうしたの?」
「……周りの視線が気に障る」
アリエルは顔を顰めながらそう呟いた。
アリエルの言葉に辺りを見渡すと、こちらに視線を向ける者がちらほら見受けられる。
幸い、まじまじとこちらを見る様は先ほどの野次の視線とは別物に感じた。
「私らの髪の色が違うからかねぇ」
溜め息混じりにアリエルが言う。アリエルの髪は鮮やかな栗色で、マルクはほぼ白に近い銀髪であった。親子や兄弟という関係ならば髪は余程でなければ近しい色になるはずで、この髪色の違いは当然のごとく他人を意味する。
先ほどのやりとりを見ていなかった者からすると、きっと「偏った性癖から幼子を奴隷商から買ったのだろう」などと期待に任せて無意味に想像を働かせてるに違いない。
マルクより十ほども歳の離れているアリエルは既に良人おっとがいてもおかしくない年頃であった。
それに加え、若衆を容易く虜にすることも出来るであろう整った顔立ちである。
周りから視線が向けられるのは半ば必然であった。
「多分、気にすることないと思うよ」
「……私の貞操には響きそうだがな」
マルクは何も知らないでパンを齧りながら気楽にそう口にした。
それを尻目にアリエルは自らを皮肉った。
「そういえば、どこに向かっているの?」
「ん。これから私たちが住む所さ」
「へえ。楽しみだなぁ」
「おっと……、ここだ」
アリエルはそう言うと一軒の宿の前で脚を停めた。
「ここが私たちの根城だ!」
アリエルは建物を背に、マルクの方へ振り返り、両腕を広げて見せた。
「民宿……、コポリ?」
識字に自信がないマルクは、看板と睨めっこしながら口にした。
「んむ、上出来だ」
窓が拵えてある木造りの落ち着いた雰囲気の佇まいから、マルクは思わず値踏みしてしまう。
知らず知らずの内にきゅっとアリエルと繋いだ手に力が込められ、滑≪ぬめ≫り気のある汗が少しばかり滲む。
「痛ぁ……」
憂患な表情をしていると、頭上から拳骨が飛んできた。
力こそ込められていないものの、三度目となるとその痛みも鈍いものへと変わる。
「戯け。お金を払うのはお前じゃなくて私だ。気にしても仕方がないだろう」
「そんなこと言ったって……」
事実代金を支払うのはアリエルの役目であり、顔を顰める役は財布の紐を管理しているアリエルが買うはずである。
しかし、先ほど銀貨二枚という自身のための大きな出費もあったためマルクの脳裏には遠慮の二文字が焼きついて離れない。
さらに今日まで家無しであったのだから尚更である。
「尤も、ここでずっとのんべんだらりと過ごせるならいいんだがなぁ……」
「う、うん……」
「……んまあ、あまり気負うことはない」
アリエルは無理やり笑みを作って、マルクを落ち着かせようとした。
「銀貨二枚程度の価値にすらならんかったら、私の眼が曇ってたってだけのことよ」
「……」
黙りこくるマルクをアリエルは優しく撫ぜる。
三度の拳とは打って変わった柔く暖かい掌はマルクの膝を癒した時のような安心感さえ覚えるものであった。
「アリエル?」
「なんにせよ、そんなに気ぃ張るな。後が持たない」
「うん! 僕、頑張る……!」
「……まあ、よい。その意気だ」
自分の置かれた状況を理解して、マルクは両の拳を固く握り締めた。
それと同時にアリエルから受けた恩に報いようと静かに決意するのであった。
襤褸を着てても心は錦な存在を目指して頑張りたいところです。
あ、「青年」て言葉は、男性を指す言葉のように聞こえますが、女性を指す言葉としても使えるみたいなので、叙述トリックとまではいかないまでも、その言葉を採用してみました。
こっそり裏話。
ローナー⇒a lonerで一匹狼という意。
ロペス ⇒西ゴート起源で、「Lope(狼) の子」という意。