アルクトウルス
――あれから二十年、か。
小田久は、目頭を押さえてため息を落とした。
開け放した職員室の窓からは、花の香りを運ぶような春風が吹き込んでいた。
大学の教育学部を卒業した久は、物理学教師の県職員になった。県内の高校をいくつか巡ったあと、朝陽北高校に着任した。懐かしい母校であったが、できることなら避けたい場所でもあった。
新任の時のように緊張しながら門をくぐり、青空に鈍く輝く天体観測ドームを見上げたとき、久の意識は一気に歳月を遡った。胸の奥が締めつけられるように苦しくなり、不覚にも涙がこぼれそうになった。
しかし、二十年という年月は、なにもかもを変えていた。制服はスタイリッシュなデザインに一新され、まるで別の高校のような雰囲気だった。そして、天文研究部が復活を果たしていたことが、なによりも久を驚かせた。ある女子生徒が学校とかけあって、活動を再開させたのだと聞いた。事件はすでに忘却の彼方に追いやられ、見る影もなく風化していた。
取り残されたような疎外感を、久は感じた。
あのとき確かな形を持って存在していた悲しみも、時間の矢とともに増大するエントロピーのように均質に拡散して、それとわからないほどに薄れてしまったのか。ならば、菜穂子の死も良平の罪も、現在になんの影響ももたらさないほど、とるにたりないことだったのか。
いや違う、と久は確信する。
因果律が――過去の事象が今の自分を作ってきたように、今のあり方が未来を形作っていくのだ。あれから久は、なにかを盲目的に信じることができなくなった。どんなものもいずれは失われ、どんなこともいずれは終わる。こんな荒涼とした人生観を持たざるを得なくなるような出来事を、生徒たちに経験させてはならない。あんな事件の原因となるようなものは、排除しなければならないのだ。
壁のスピーカーから、SMAPが歌う『夜空ノムコウ』が流れてきた。昼休みの校内放送に、だれかがリクエストしたのだろう。その歌詞に久は悲しげな笑みを浮かべ、メガネをかけなおすと手に持った便せんに目を落とした。
丁寧な文字と端正な文章でつづられた文面の横には、満開の桜のイラストが添えられていた。
「小田先生」
頭上から聞こえた声に、久は読んでいた便せんから目を上げた。
そこには、ブラックのノーカラージャケットとタイトスカートを颯爽と着こなした、長い黒髪の若い女性が立っていた。イギリスのパブリックスクールに留学した経験を持つ、地学教師の富士香菜子だ。朝陽北高校の卒業生であり、在学中に天文研究部を復活させた張本人であり、現在は久とともにそのクラブの顧問をしている。
「富士先生……なにか?」
香菜子はその問いには答えず、久が手にしている便せんに視線を投げた。
「詩織ちゃんからですね」
香菜子が口にしたのは、昨年の秋まで天文研究部に所属していた女子生徒の名前だった。彼女は、いくつかの不良行為で停学処分になったあと、保護者の転居に合わせて朝陽北高校を中途退学していた。それが原因で、天文研究部は再び活動停止になっている。
久は、ええと低く答えて、便せんを香菜子に差し出す。
「今年の春から、もういちど三年生として、東京の都立高校に通っているそうです。天文研究部をつくりたい、とも書いてある。……私になど知らせてこなくてもいいのに」
香菜子は、便せんを受け取らずに、表情をほころばせた。
「編入試験のために小田先生があれこれと骨を折ってくださったこと、あの子はよく知っていますから」
「富士先生が知らせたのですか?」
「はい。……余計なことをしましたか?」
久はいやと言葉を濁して、手紙を机の引き出しにしまった。
「ところで……」
改まった口調でそう言ってから、香菜子は手に持っていた書類を差し出した。
「私の担任クラスの新一年生から、入部届が出ていまして。小田先生にはご迷惑かもしれませんが、私としては受理しないわけにもいかなくて。でも、縁ってあるんですねぇ」
心なしか、香菜子の声は嬉しそうだった。
三枚の書類には、それぞれに女子生徒の名前が書かれていた。
「軽津ありす、御堂萌、それに……」
氏名を読みあげた久の声は、三枚目の書類で途切れる。
「星河弥生。星河だと?」
久の脳裏に浮かんだのは、今春卒業した天文研究部部長の男子生徒の顔だ。
もしやと思い、希望クラブの名前に目をとめた久は、眉間に深い皺を刻んだ。
一枚目は丁寧な文字で、二枚目は力強い文字で、三枚目は弾けるような文字で、同じクラブの名前が書かれていた。
--天文研究部、と。




