デネボラ・セルファ
菜穂子が自殺を図った。
良平が菜穂子を無理やり犯した事件から、二か月がすぎていた。
夏休みが終わっても、菜穂子も良平も学校には来なかった。それでも事件は長いあいだ、誰にも知られることはなかった。菜穂子や良平の両親も、そして学校も、表沙汰にしないことを選んでいたようだ。
僕は菜穂子と会えないままで、眠れない夜と勉強に身が入らない日々を、悶々と過ごしていた。やり場のない怒りと、空しいだけの後悔が、かわるがわる僕を苛んだ。
そして、仲秋の名月が夜空を渡ったその夜、第二の悲劇は起きた。両親の留守を狙いすましたように、菜穂子は処方されていた睡眠薬や抗うつ薬を酒と一緒に多量に飲んだのだ。幸いにも命はとりとめたが、彼女はそのまま入院することになった。
僕がそのことを知ったのは、菜穂子が病院に運ばれた翌日のことだった。
夕食が終わったころ、なんの前触れもなく自宅に警察官が来た。会社員のようなスーツ姿の警官は、良平が菜穂子を襲った事件の話をあれこれと尋問した。それは取り調べというような剣呑なものではなかったが、最初から最後まで僕を見下しているような冷たい眼差しを感じた。
警察は、学校にも来ていたらしい。
学内に緘口令が敷かれたが、そんなことで生徒の口を封じることはできず、事件は誰もが知るところとなった。間もなく、菜穂子の自主退学と、良平の退学処分が発表された。
僕は、学校全体から浴びせられる憐憫とも蔑みともつかない視線に、耐え続けるしかなかった。人が集まっているのを見れば、僕たちの陰口を叩いているのだと思った。北校舎の屋上にある天体観測ドームを見るのも嫌だったし、部室に近寄る事すらしなかった。そこはまるで、朝陽北高校の暗部あるいは恥部のようにすら感じられた。そして僕は、自分がそれらと一体であるような錯覚に囚われて、そう感じた自分に嫌気がさした。
やがて天文研究部は、部員全員の退部とともに、無期限に活動停止となった。重荷のひとつを肩から下したように、それで僕の心は少しだけ軽くなった。
菜穂子の自殺未遂から一週間が過ぎたころ、僕はようやく彼女の入院先を知ることができた。僕はすぐに、その病院に向かった。
秋の日差しを浴びた総合病院の白い建物は、そのなかに悲喜こもごもの出来事を飲み込んで、ただ泰然とそこに佇んでいた。
ナースステーションで菜穂子の病室を教えてもらい、その扉の前に立つ。
二か月ぶりの、恋人との再会だった。だが、いざとなると、僕は気持ちの整理ができていないことに気づいた。菜穂子と会って、いったいどんな顔をすればいいのか、なにを話せばいいのか、それが思いつかなかった。
けれど、それでも菜穂子に会いたいという気持ちが勝った。もしかしたらそこに、ただひとつの救いがあるかもしれないと思った。
ノックをして引き戸を開ける。
西に向いた窓から柔らかな陽光が差し込む病室は、思っていたよりも明るいおだやかさに満ちていた。
菜穂子は、うすいピンクのパジャマを着て、こちら向きにベッドの上に座っていた。彼女の胸に抱かれたテディベアのつぶらな瞳が、僕をじっと見ていた。
突然の来訪者から守るように、菜穂子はぬいぐるみを抱きしめる。僕の胸に、梅雨空のような暗雲が広がる。
「菜穂子」と、僕はすがるようにその名を呼んだ。
彼女は、敵意すら感じさせる眼差しで、僕を見据えた。
「この子を奪いに来たのね。だれにも渡さないから」
狼狽して立ちすくむ僕の背後で扉が開いた。振り返ると、菜穂子の母親が驚いたような表情で立っていた。
「出て行って。私の子どもに手を出さないでっ」
菜穂子のヒステリックな叫び声が、病室に響き渡った。
ナースステーションの隣にある面会所で、僕は菜穂子の母親と向かい合っていた。
「せっかく来てもらって悪いけど、このまま帰ってほしいの。そしてもう、あの子には会わないであげて……」
悲痛としか形容のしようがない表情で、母親は菜穂子の身に起きたことを話してくれた。
夏休みが終わるころになって、菜穂子はようやく気持ちの整理がつきはじめていたらしい。しかし、まるで塞がりかけた傷口を抉るように、良平の子どもを妊娠していることが発覚した。
その日から、菜穂子の様子がおかしくなった。夜も眠らず食事もとらず、ぼうっとしていたかと思うと、突然意味のわからないことをつぶやいたり、泣きわめいたりした。
中絶手術を勧める両親や医師に向かって菜穂子は、僕との子どもだから産みたいと言い張ったという。
両親の判断で中絶手術が強行され、退院した翌日に彼女は自殺を図った。そして三日三晩の昏睡から目覚めたとき、菜穂子の心はどうしようもないほどに壊れてしまっていたという。
「あの子と仲良くしてもらっていたのに、こんなことになってしまって……」
最後は涙声だった。
けれど、病室の菜穂子を見たときから、僕の感情は消失し思考は停止していた。なにが起きているのか、なにをすべきなのか、なにをしてはいけないのか。僕にはわからなかった。
ただひとつ、もうあの頃の僕たちには戻れないのだということだけが、はっきりとわかった。
病院の入口の大きな自動ドアが開くと、いちばん会いたくなかった男と出くわした。この場所をどうやって察知したのか、憔悴しきった顔をした良平が、セロファンで巻いた花束を手にして立っていた。
かけるべき言葉も、交わすべき話も、あるはずがなかった。
無言で横を通り過ぎようとした僕の耳に、その言葉が聞こえてくるまでは。
「お前が悪いんだ」
聞き間違えたのかと思った。こいつが口にすべきは、謝罪の言葉しかありえないはずだったから。
「お前がぐずぐずしているから」
僕を詰るように、良平の言葉は続いた。
「俺は、菜穂子がお前を選んだのならしかたがない、と思っていたんだ。そう思って、諦めるしかなかったんだ。なのに、お前は……。なぜ、俺が菜穂子に手を出せないようにしなかった。なぜ、あいつのすべてを、俺から奪わなかったんだ」
その言葉の意味は明白だった。
僕と菜穂子の選択は、二人が守ってきた純潔は間違っていたのだと、良平は断罪しているのだ。自分の犯した過ちの、弁解の余地もない蛮行の、その責任をあろうことか僕たちに押し付けようというのだ。
知らず知らずのうちに、僕は拳を固めていた。
「責任は取るつもりだ。俺は仕事をみつけて働く。そして菜穂子と……」
菜穂子と、だと?
聞き逃せないその言葉に、ついに僕の感情が爆発した。堰き止められて行き場を求めていた濁流が、その一点に向けて迸った。
右手の拳に鈍痛が走り、良平はその場に倒れ込んだ。
「なにもかも、お前が壊したんだ。菜穂子も……」
言いたいことは、もっとあるはずだった。だが、それ以上の言葉は、僕には見つからなかった。
「もう二度と、顔を見せるな」
僕はそう吐き捨てて、親友だった男に背を向けた。
その日を最後に、良平の消息は知れなくなった。
親友を失った僕は、その年の冬に恋人を――恋人だった少女をも永遠に失った。
温暖な朝陽市には珍しく雪がうっすらと積もった日、菜穂子はマンションの最上階の踊り場から地上に転落した。テディベアのぬいぐるみを抱いたままだったという。事故なのか自殺なのか、僕がそれを知る事はなかった。
僕は、巨大すぎる喪失に途方に暮れながら、しかしただひたすらその空間を埋めるように、それからの日々を走り続けた。星空を見上げることもなく、あの日星空の下にあったものを顧みることもなく。
そして――。




