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スピカ・アシメク

 じゃあ弾くね、という菜穂子の声が聞こえた。

 読んでいた「ノルウェイの森」から目を上げると、夏の夕方の風に揺れる白いカーテンが見えた。その手前、黒いグランドピアノの前に座った菜穂子は、ちょうどその両手を鍵盤にかざしたところだった。

 左手がふわりと鍵盤に触れ、一瞬の間があって、その中指が白鍵を押し下げた。

 音楽室に響いたドとミの音が、凪いだ水面に落ちた雨粒のように波紋を広げる。すぐ後を追った右手が鍵盤に着地して、ソドミと上昇するアルペジオを奏で出す。

 ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲、平均律クラヴィーア曲集第一巻第一番ハ長調プレリュード。

 菜穂子の指がしなやかに動き、神に祈りを捧げるがごとき清浄な分散和音を繰り返していく。

 ガラス窓から差し込む夕陽の中で、菜穂子の長い髪が艶やかに光り揺れる。白いワンピースの夏制服に身を包んで、一心にピアノに向かう彼女の横顔は、敬虔な修道女のようだった。

 このまま光の中に召されてしまうのではないか。

 僕はそんな不安に襲われ、恋人に向かってそっと指を伸ばす。

 彼女に届くはずもない僕の指は、行先を失ってひととき宙をさまよい、最後は読みかけの本のページに戻った。


 プレリュードが終わると、僕の隣から深いため息が聞こえた。

 スケッチブックを広げ、色鉛筆でデッサンをしていた良平は、だめだと呟いて手を止めた。

「もうこれ以上、俺には描けない」

 白い画用紙には、ピアノを弾く菜穂子の姿が写し取られていた。年齢よりも大人びた印象を与える、彫の深い目元や濡れたような艶を放つ唇、そして薄い生地の夏制服では隠し切れない、彼女の豊かな曲線が艶やかに描き出されている。

 僕は、その生々しい肉感に嫉妬と慄きを感じながら、それでもつとめて冷静を装った。

「よく描けてるじゃないか」

 僕の言葉に、良平は悔しそうに唇を噛んだ。いつもはどことなく物憂げな表情なのに、絵をかくときはその顔に生気が宿る。描く相手の内面まで見透かすような深い眼差しが、切れ長の目から放たれる。その視線が菜穂子を捉え、しかし良平は一筆も描かずに伸ばした黒髪を右手でかき回す。

「だめなんだ。筆が……」

 左手に持ったファーバーカステルの色鉛筆が、折れるのではないかと思うほど握りしめられる。歪んだその口元から、くっという声が漏れ出した。

「心に追いつかない」

 押し出すようなその言葉は、フーガを奏でるピアノの音にのって、夏の夕暮れの中に消えて行った。


 深く静かな旋律を奏でていたピアノが、そのとき不意に止まった。

 音楽室の扉が開き、壮年の音楽教師が顔をのぞかせた。彼は、勝手にピアノを使った僕たちを咎めることもなく、下校時刻だと告げた。

 菜穂子が落ち着いた声で、いいえと答える。

「私たちは、これから部活なんです」

 僕と菜穂子と良平は、そろって音楽室の天井を見上げた。

 この部屋の真上に、僕たち三人の部室がある。

 市内にある県立高校で唯一の、天体観測ドームとプラネタリウム投影ドームを擁する、天文研究部の部室が。


 *


 土岐菜穂子と兼高良平と僕とは、小学校のときからの友だちだった。

 再開発地区の高層マンション群に暮らす僕たちは、同じ小学校と中学校に通い、そして同じ高校に進学した。僕は理系で菜穂子と良平は文系という違いはあったが、通学から放課後の部活まで、僕たちはずっと三人で同じ時を過ごしていた。

 幼いころに芽生えた少年と少女の友情はやがて、思春期を迎えて美しく成長した娘への恋心に変わっていった。けれど菜穂子への僕の気持ちは、憧れのままで終わるはずだった。ピアノを習っていた菜穂子と、絵を描くのが上手かった良平は、お似合いのカップルだと思った。

 だから僕は、自分の気持ちを気取られないように、菜穂子に内緒で良平と約束を交わした。どちらかが彼女と付き合うことになっても、三人の友情はずっと守っていこうと。

 親しくなった同級生にそんな話をすると、彼は知ったような口ぶりで僕をからかった。

「高校生にもなって、男と女の純粋な友情なんてありえないだろう。そんなの常識だ」

 彼の言いたいことは、もちろん分かっていた。けれど僕は自信をもって反論した。

「僕たちの関係は違う。そんな常識は、僕たちには関係ない」

 このとき僕は、あの約束があんな皮肉な結果を導くとは思いもつかなかったのだ。

 しかし、破綻の予兆は唐突に、そして意外な形で僕の前に現れた。


 二年生を目前にしたバレンタインデーの夜に、僕は菜穂子から呼び出された。

 マンションの前庭を兼ねた公園に行くと、キャメルのダッフルコートを着た菜穂子がひとりでベンチに座っていた。

 どうしたのと僕が問うと、菜穂子の唇から白い息とともにその言葉が漏れ出した。

「これを受け取ってほしいの……」

 差し出された小さな包みに、僕は戸惑った。寒さのせいか、恥ずかしさからか、菜穂子は頬を染めながら言葉を続けた。

「あなたに貰ってほしくて、頑張ったの」

 冷たい夜風が吹いていた。けれど、僕は寒さを感じなかった。

 はじめて触れあった唇は、柔らかくて暖かかった。こんなに愛しいものを、僕は諦めようとしていたのかと思った。

「こんどね……」と、菜穂子はなにかを告げようとした。

 けれどその続きは言葉にならなかった。

 公園を歩いてくる良平に気づいた菜穂子は、僕の手を強く握り返してきた。

 ベンチで肩を寄せ合った僕たちの姿を見た良平は、そうかと低くつぶやいて、ぎこちない笑顔でうなずいた。

「お前なら、安心だよ」

 ありがとうと僕が答えると、それで緊張もわだかまりもなくなった。

 僕たちは、揃って夜空を見上げた。

 そこには、ひとあし早い春の訪れを告げる星々たちが煌めいていた。

 アークトゥルス、スピカ、そしてデネボラ。何度季節が巡ろうが変わることのない春の大三角が、僕たちを見下ろしていた。


 告白されキスをしてからも、僕と菜穂子の関係はそれ以上には進まなかった。そしてそれからも、僕たちはよく三人で出かけたり、市立図書館で勉強を教え合ったりした。

 先輩が卒業して三人だけになった天文研究部では、学園祭の展示の目玉としてプラネタリウムを自作した。菜穂子の提案で、その台座には三人の名前を書き込んだ。いつかこれを見る後輩たちに、僕たちがここにこうしていたということを伝えたい。そんな願いを込めて。

 変わることなどない、壊れることなどない。そう信じていた、僕たちの美しい関係(アステリズム)

 けれどそれはあっけなく、そしてもとのかたちがわからなくなるほど粉々になって、壊れた。

 あの日――菜穂子のピアノを聞き、それから満天に広がる星々を見上げた、初夏の夜。

 菜穂子の悲痛な叫びとともに。

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