第五話 緑
目に飛び込んでくるのは、美しく彩られた樹木と葉が作り出す自然界のパズル。
秋になると現れるそれは、この辺りに住む人間が唯一自慢できるところではないだろうか。
電気は通っているが、ガスはプロパンだし、水は井戸水。道路だってちゃんと整備されていなくて、更に勾配がきつい事もあり車でも苦労する。そんな不便な道の先にある山の中の集落。
しかし唯一自慢できるその光景は、そんな不便をしてでも余りある程の感動を与えてくれる。
その光景を作り出す樹木や葉は、夏が終わる前から静かに準備を始める。
それは普段から自然と共存するものでなくては気付かない程小さな変化で、都会の騒々しさや慌ただしさの中にいる限り、誰もが見落としてしまう様な些細なものである。
私も以前、神戸の中心地に住んでいた時には、そんな変化に気付いていなかった側の人間だった。しかし訳あってここで暮らし始めた事で、自然の厳しさ、それに立ち向かう困難、その先にある自然の偶然が生み出す美や荘厳さを知った。それともう一つ知ったことがある。
それは、人の優しさ。
神戸に住んでいた時の私は、近所に住む人の事なんて誰も知らなかったし、知ろうとも思わなかった。きっと近所に住む人達もまた同様だったのだろう。今思うと、それはとても不気味な事である様な気がする。
本来同じ種族同士は協力し合って自然界を生きていくもので、それは動物でも植物でも同じなのではないかと思う。
動物や植物に対して特別詳しい知識を持っている訳ではないけれど、この集落で生活している内に、周辺に生えている植物や、山の中を闊歩する動物達が身を寄せ合い助け合って生きていると感じる出来事がいくつもあった。
それは集落の人々も私も同じ事で、この集落には神戸では存在しなかったそれがしっかりと根付いている。
目の前に広がる自然界のパズルとは違い現代日本というパズルのピースである人間の多くは、上下左右のピースを見付ける事を拒み続けているので、すかすかで何の魅力もない絵しか作り出す事が出来ないのが現状だ。
私もここに来るまではその大多数の上下左右が空白のピースの一つだった。
だが今は違う。
私のピースの上下左右には、たゑさんとそれ以外にこの集落に住む八人の人達みんなと密接な関係を築いた事によるピースとピースの結び付きがしっかりと存在しているのだ。
自分の事を変えてくれた、この美しく荘厳な自然界のパズルを都会の人間にも見せる事が出来れば、少しは何かが変わるのではないかと、私は信じている。
少しの変化でもいい。私は現代社会というパズルの完成形が魅力ある一枚の絵であると信じて、それを完成させる手助けがしたい。眼前に広がる樹木と葉は、静かに、ゆっくりと、自己の存在を発散し続けて終わりへと向かっている。
「ダム建設の予定地になるって。県からの要請みたいだから色々と補助金とかが出るみたいで、町としても喜んで引き受けるとかなんとかって」
たゑさんの言葉に驚いて、私は何も言えなくなる。
この集落に引っ越してきて三年が経過し、生活にも慣れてきたので、ここの魅力をどの様に都会の人間に知らせていけるか方法を考え出している矢先の出来事だった。
せっかくのこんなに美しい景色を奪い去って、無骨で巨大で美しさの欠片もないダムなんて建造物を作り出すのは馬鹿げている。と上の人間が考える事に腹を立てて、頭の中でぐるぐると数々の罵詈雑言が巡り巡る。
そんな気持ちがありありと表情に出てしまっていたのか、たゑさんは私の眉間に指をそっと添えて、皺を伸ばす様に動かした。
歳上の人にこんな事を言うのは失礼かもしれないが、その姿がなんだかかわいく見えた。
「皺なんか作って。せっかくのかわいい顔が勿体ない」
そしてなにより、この心遣いが胸にすっと染み渡り、それは血液を介して全身へ巡り、私の身体を温かくした。更に恥ずかしさも合わさって頬が赤くなるのを感じた。
「やめてよ、たゑさん。私もう子どもじゃないんだから」
照れ隠しもあってか、たゑさんの指を自分の額からそっと離す。本当はもっと触れていて欲しいし、その指から感じる優しさと温かさは一生でも感じていたいと思えるものだった。
「この集落のもんはみんな、早苗ちゃんの事を娘だと思っとるよ」
そう言って皺だらけの顔で微笑むたゑさんを見ていると、こんなに見ていて心が安らぐ顔が出来るのなら、いくらでも皺が増えても良いな。と私の怒りはどこかに消えてしまった。
しかし、ダム建設についてはそうそう受け入れられる問題ではない。私の前で微笑むたゑさんの為にもこの自然を守らなければならない、そんな使命感の様なものが沸々と芽生えた。
「本当にそれは感謝してます。みんないい人だし、いつもお世話になりっぱなしで。でも、ダムの事は真剣に考えないと。このあたりは、私たちの大事な場所だから」
そう言うとたゑさんは再び私の眉間に指を添える。
「また怖い顔して、早苗ちゃんは笑顔が一番似合うてる」
また表情が険しくなっていたみたいだ。
私は笑顔を作って、たゑさんを見る。
とりあえずダム建設の事は自宅に帰ってから考えるとして、今はみんなで育てた玉ねぎとじゃがいもの収穫を急ごう。日もそろそろ落ちてくる。いつまでも時間をかけてはいられない。
たゑさんの指が離れるのを待ってから、再び作業に取り掛かった。
その後黙々と作業を続けた成果は、堆く積みあがった大量の玉ねぎとじゃがいもの山を見れば一目瞭然だろう。
その山にある一つ一つは形も歪で、スーパーなどに売られているものと比べると見劣りする出来ではある。しかし実際に家庭菜園でもやった事がある人なら分かるとは思うが、自分で作った野菜や果物は何故かびっくりするほど美味しく感じるものなのだ。
私がここを訪れた当初、たゑさんが作ってくれたじゃがいもの煮っ転がしを食べて、あまりの美味しさに感動した事があった。
確かに味付けが上手だったのは認めよう。でもそれ以上に、じゃがいも本来のうまみが圧倒的に市販のそれとは違った。
驚いている私にたゑさんが言った言葉を私は一生忘れないだろう。
「売り物のじゃがいもが不味いとは言わんよ。でもね、食べてくれる人の顔を思いながら、その人に向けて作ったじゃがいもには思いが詰まっとる。流通させる程ぎょうさん作ってたらその思いも薄まって思いが伝わらない。じゃがいもだって生きてるんだから、思いを込めたら思いに応えてくれるんだよ」
たゑさんは、そう私に言ったのだった。
そんな事を思い出し感慨に耽っていると、たゑさんが「これ、早苗ちゃんの分な」と言って玉ねぎとじゃがいもを数個ずつ渡してくれた。
その玉ねぎやじゃがいも一つ一つの歪さがそれぞれ特徴的で私は微笑む。
あるものはじゃがいもとは思えない様に長細くなっていて、さながらきゅうりの様に見えるし、また別の玉ねぎは丸々と太っているわりには頭の出っ張りの部分が小さく、ころっとしたフォルムがかわいらしい。
そんな玉ねぎとじゃがいもが愛おしく見える様になるなんて、神戸にいる時は思いもしなかったのだが、実際に私は今そういう風に感じている訳であって、それに私は幸福を感じている。
今たゑさんと会話を続けて、目の前に無造作に置かれた玉ねぎとじゃがいもを愛おしく感じているこの時間は、神戸にいた時に感じていた幸福とは毛色が違うものだが、人間らしさで言えばこちらの方が何倍も貴いものであるように思えた。
何て事のない会話を続けていると、部屋の中でも比較的目立つところに置かれた古く大きな柱時計がごぉうおーんごぉうおーんとけたたましく、しかし間延びした様に鳴り響き、私とたゑさんだけの静謐な空間を引き裂いた。
その音を聞いて「もうこんな時間か。はよ帰らんとじいさんに怒られるわ」と言って、たゑさんは大量の玉ねぎとじゃがいもが入った籠を持った。
そして、さらさらと水が低い方低い方に流れていく様な滑らかさと柔軟さをもって草履に足を通すと、親指と人差し指の間に自ら飛び込む勢いで鼻緒が入っていった。
その一連の所作はたゑさんの歳からは想像できない程に流麗な動きで、私はそれを現認していながら、なぜか真実だと思えなかった。
気付くとたゑさんはもう家を出て行った後だった。
さっきのたゑさんの流麗な動きを思い出すと、この世界に亀裂でも入ったのか、若しくは綻びの様なものが生じたのではないかと思って私は身震いした。
今晩は、妙に底冷えする。
私は浴室に移動して、いつもより熱めにお湯を張った。
世界に亀裂が入った、若しくは綻びの様なものが生じたと感じる出来事があったなどすっかり忘れて、私は一年間ダム建設の反対運動や町長への直談判、周辺住民への理解と協力を求めて奔走した。
結果から言うと、惨敗だった。私一人が動いたところで、何も変わらなかった。
残酷にもダム建設はスタートされ、まさに今日、この美しく彩られた自然界のパズルは破壊されていくのだ。
たゑさんとそれ以外にもこの集落に住む八人の人達は最初こそ私に協力してくれていたが、町の代表と言ってやってきた、気色の悪い作り笑いをしたマスクを顔に貼り付けて、価値も分からないでただ値段が高いというだけで買ったのであろう小奇麗なスリーピース・スーツを身に着けた初老の男からお金を受け取ると、彼女らは私に干渉しなくなった。
私だけだったのだろうか、この自慢の景色を守りたいと思ったのは。
「早苗ちゃん、ちょっと」
不意に声をかけられ振り向くと、家の引き戸の玄関を少し開けて、その隙間から顔を出す、三和土に裸足で立っているたゑさんの姿があった。
久し振りに話すので少し警戒したが、あの皺だらけの顔で微笑むたゑさんの顔が胸の奥の方で薄ぼんやりと浮かび上がり、そこがそっと温かくなるのを感じたからか、すんなりと返事が出来た。
「なに、たゑさん?」
たゑさんは手招きして私を玄関の方に近付かせると、言った。
「悪いんだけどね、みんなが嫌がるから、ここから出て行ってくれないかい」
一瞬何を言っているのか分からなかった。
ここから、なんだって?
ここから出て行ってくれ。
私がその言葉を嚥下した時にはもう、たゑさんの皺だらけの顔はそこになく、無慈悲にも閉じられた引き戸があるだけだった。
私は一年前を思い出して、あの玉ねぎとじゃがいもを収穫した日に感じた違和感を思い出していた。
あの瞬間からもう、私の運命は決まっていたのかもしれない。
私はぼんやりとして着の身着の儘、ちゃんと整備されていなくて、更に勾配がきつい事もあり車でも苦労する不便な道を、ダム建設現場に向けて歩き出した。
どれくらい歩いたのか分からないが、私はさっきから見た事も歩いた事もない道を延々《えんえん》と歩いている。
喉も渇いたし、なにより足が痛くてもう歩くのが面倒だ。
目先、数メートルのところにある石まで歩いたら、少し休もうと一歩を踏み出す。
枯葉を踏みしめる乾いた音と地面を踏み固める湿った音が平穏の中を木霊する。
しゃっくしぎう、しゃく、しゃっくしぎう、ぎゅむ。
私は立ち止まり、背後に神経を集中する。間違いなく背後に誰かがいる。確かに足音が二重に聞こえた。
私はどうするべきか尻込みした。
「遭難って感じじゃなさそうね」
不意に聞こえた声に驚きつつも、振り返って声の主を認識する。
一人の女が、私が踏み締めた事で落ち葉と地面の境界が曖昧になった地点の上に、つくねんと立っていた。
長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いた強い目力を携えた目の持ち主が私の様子を嘲笑うかの様に、その少女と言って差し支えのない若々しい声で山中の空気を微振動させる様子は、どこか現実から乖離している様に思えた。
現実から乖離しているように思ったのはそれだけが理由ではない。
山には不釣り合いな靴と服装も、また現実との乖離を一層色濃く主張するようであった。
靴はアディダスのスタンスミス。
アッパーやアウトソールなどベースは白だが、ブランド名やモデル名と共に、このスニーカーがシグネイチャーモデルである事を主張する、テニスプレイヤーのスタン・スミスの顔とサインをあしらった緑のシュータンと、アディダスのロゴとモデル名が書かれた緑のヒールパッチが強い存在感を持っている。
服装は、膝小僧が丁度隠れる丈の薄い生地で出来た白いプリーツスカート。
同系統のブラウスの上には、スタンスミスの強い存在感の元になっているのと同じ緑色をした、オーバーサイズのスウェットを着て手は袖の中にすっぽりと納まっている。
スタンスミスとプリーツスカートの間の空間は綺麗な白い足と、それを少しだけ覆い隠す白色のクルーソックス。
前を真一文字に揃えた髪の毛を覗かせて、白色のベースボールキャップを浅く被っている。
かわいらしい甘めのコーディネートだが、ベースボールキャップが甘さを少しマイルドにしているのが、彼女の顔の雰囲気から感じる印象にとても似合っている。
しかし、ここは山の中だ。
その服装はこの空間にいるにはあまりに不釣り合いで、赤色と黄色と茶色が群生するこの空間において明らかに異彩を放っている。
「あなたは山に迷い込んで、いかにも遭難していますって感じ」
「皮肉を言っている余裕があるなら、もう少しダム建設を抑止する方法でも模索してみたら? それとももう、そんな事はどうでも良かった?」
彼女は冷たい表情のまま言った。肌の白さもあってか、その冷たい表情から発せられる冷たい言葉に私は畏怖の念を抱いた。
殺気を極限まで抑え、自然と一体化して獲物に狙いを定める野生動物の様に、突然目の前に現れた彼女は、なぜか心の内を読み取れるかの様に的確な言葉で、私に言葉で襲い掛かかった。
それはとても深く、私の心を抉りとった。
「もうこれ以上、私が頑張る事なんてないのよ」
いい歳した大人の女が惨めだと思われるかもしれないが、私は俯いて泣いた。
美しく彩られた自然界のパズルを守る事、それは私を変えてくれた大事な場所を、たゑさんとの、そして集落のみんなとの場所を守る事であり、現代社会というパズルを完成させる為の足がかりであるはずだった。
しかし、この集落の中のピースすら守る事が出来なくて、何が現代社会のパズルだろうか。
私に残されたのは悲愴と寂寥と憤怒だけで、もはやこの世界に希望などというものは抱くべきではないのだと悟った。
人間なんてものは結局どこに住んでいようと、根っこの部分は何も変わらないのだ。
悲観的な考えが脳にある皺の隅から隅まで縦横無尽に根を伸ばしていく。
こういう時に考えてしまうのだろうなと思う。
死というものについて。
「涙を流せるって事は、まだあなたの中に後悔があるんじゃないの?」
優しく心配でもしている様な言葉とは裏腹に、彼女の表情はシニカルという葉によって覆いつくされている。
その姿はとても不気味で私は恐怖を感じながらも、コンビニエンスストアの前に掲げられた殺虫灯に飛び込む虫たちの様に、不思議な魅力に吸いつけられるかの如く興味を抱いてしまい、目を離す事が出来なくなっていた。
彼女は言った。
「今の生活に満足している?」
古く大きな柱時計が、ごぉうおーんごぉうおーんとけたたましく、しかし間延びした様に鳴り響き、私とたゑさんだけの静謐な空間を引き裂いた。
「もうこんな時間か。はよ帰らんとじいさんに怒られるわ」
たゑさんはそう言うと、大量の玉ねぎとじゃがいもが入った籠を持った。
そして、さらさらと水が低い方低い方に流れていく様な滑らかさと柔軟さをもって草履に足を通すと、親指と人差し指の間に自ら飛び込む勢いで鼻緒が入っていった。
その一連の所作は、やはりたゑさんの歳からは想像できない程に流麗な動きだった。
私は何故かあの日に戻ってきた。
何が起こったのか分からず呆けている間に、たゑさんは家から出て行った。
代わりに少し間を置いて、スタンスミスを履いた彼女が靴の音を家の中にぬるりと纏わりつく様に響かせながら入ってきた。
顔には相変わらずシニカルという葉を大量に貼り付けていて、殊更に不気味さを演出している。
彼女は言った。
「今度はどう奔走してくれるの?」
その言葉を聞いて私は気付いた。
そうか、もう一度やり直せるのか。
私は彼女が何者であるのかよりも、もう一度ここでやり直す可能性を見出せたという事実に気持ちが昂った。
私は意識を、戻ってきたこの世界にしっかりと固着させて身体を動かす。
机の上に置いてあるノートパソコンと一眼レフカメラを手に取って立ち上がると、彼女の横をすり抜けて車に乗り込む。向かう先は昔懐かしい神戸の地。
車のなかではいくつかの妙案が思い浮かんでいた。
SNS上に集落から見えるあの美しく彩られた自然界のパズルを投稿して、観光客を増やし活気が出れば町としても利潤が発生するので、ダム建設の話も頓挫し得るのではないかと考えたのだ。
しかし私にSNS上で投稿を多くの人に見てもらう程の地盤がないのは知っているので、大樹に協力を仰ごうと考えたのだ。大樹ならプロの写真家としての実力と地盤が整っている。
なにより向こうが浮気をして私とは別れたのだから、お願いを断りづらいだろうと踏んだのだ。
もう一度訪れたチャンスに心臓が早鐘を打つ。
しかし何故だろう、たゑさんの流麗な動きを思い出すと、心の奥の更に奥の隅の方にこの世界に亀裂が入った様な、若しくは綻びが生じた様なあの感覚が、靄の如く不定形で不鮮明な姿をちらちらと現すので、私は身震いした。
世界に亀裂が入った、若しくは綻びの様なものが生じたと感じる出来事があったなどすっかり忘れて、私は一年間集落から見える美しく彩られた樹々と葉が作り出す自然界のパズルを世間に認知させ、ダム建設によってこれがなくなろうとしている事実を批判し、実際に現場を訪れてもらう事で人間本来のあるべき姿を自然界から見出して、現代社会のパズルを埋めていく事の手助けをする事に奔走した。
大樹の協力もあってか、集落から見える自然界のパズルは大きな話題になって秋の内だけではなく、冬も、春も、人が多く訪れ、ダム建設反対の署名には多くの名前が連なった。
そしてここに訪れる観光客が動かす経済への影響もあったのだろう。町はダム建設を中止した。
夏になっても人は途切れることなく訪れ続け、もう一度秋になり、自然界のパズルを多くの人の目に焼き付ける事が出来た。
私の努力は報われた様に思えた。
しかし、実際は違った。
観光客が増えると、施設が多く必要になる。
この集落には元々個人の家しかなかったので、近くのこの集落よりはまだ利便のいいところにコンビニエンスストアや簡易的ではあるが宿泊施設などがいくらか作られた。それが、集落とここの樹木や葉、この山に住む動物達の運命を大きく変えた。
まず人が多く訪れた事によってごみの投棄が問題になった。ペットボトルやビニール袋などは自然に帰るものもいくつかはあったが、全てがそうとは限らない。
自然の循環のシステム外に位置するそれらの物質は、取り除けど取り除けど、数は増えていく一方で、結局山の中に堂々たる顔をして居座り続ける事になった。
そして施設が出来るという事は多少ではあっても、山を整備する必要があって、その際には当然樹木は伐採され、動物達の縄張りは侵されていった。
その被害は甚大で、生ごみであればそこに住む動物達の食糧事情を変えてしまい、動物を含め昆虫など生物全体のバランスが崩れて生態系に問題が出てくる可能性があると専門家に指摘された。
問題はそれだけに留まらなかった。
煙草の問題と言うのも浮上した。この一年の間で火の不始末によるボヤ騒ぎが四度も発生していたのだ。
そして、遂にそれは起きてしまった。
その頃私は神戸で一週間を過ごしたら次の一週間を集落で過ごす、そんな生活を送っていた。
私は丁度神戸での一週間を終えて、集落へと車を走らせているところだった。何度も何度もスマートフォンに着信がかかってきていたが高速道路を車で飛ばしている最中だったので、その着信に出る事が出来ないでいた。
そして休憩をしようとパーキングエリアに入った際に画面を確認すると着信は大樹からだった。
「おい、梨華、燃えてるぞ、燃えてる」
「大樹、落ち着いて、何が燃えてるの?」
大樹は落ち着きを取り戻す事なく、槍で突く様に自分の言いたい事を私に突き立てた。
「養父の集落だよ」「養父の」「お前の住んでる」「養父の」「集落が燃えてるんだよ」
私は高速道路のパーキングエリアで茫然と立ち尽くした。
大樹が突き立てた言葉は、私もその場に突き立てた。しかし私は向かわなければならない。集落へ。
足をどうにか前へ前へ、重たい頭陀袋を引き摺る様に動かして車の座席に身体を沈めて、右足でフットブレーキを踏み込んでイグニッションキーを回す。エンジンがかかったのを手に伝わる感覚と音で理解する。シートベルトを装着するや否や、パーキングブレーキを解除し、左足でクラッチを一気に踏み込む。ギアをニュートラルからローに入れる。フットブレーキにかけた右足を離してアクセルを踏むと、同時に、クラッチにかけた左足を少し上げて半クラ状態にすると、エンジンの動力がクラッチ版を通してタイヤに伝わっていくのが、左足を通して私の足にも伝わる。右足でアクセルを更に踏み込んで、左足をクラッチから離すと車は闇の中へ転がり出した。
ヘッドライトを付けるのを忘れていたので、ライトスイッチを奥に捻って、道路に光の道を作り出した。
急いで集落に向かう。車を飛ばす。飛ばす。
田舎を通る高速道路の暗さには光量が足りていないし、本数も少ない左右の外灯が視界の前から後ろに光線の様に長く伸びて流れていく。
月光の光が揺蕩う森を駆け抜ける様に、私はこの曖昧な世界を突き進み、他の車の姿が見えない高速道路のカーブに差し掛かる。タイヤが僅かに横滑りしたのをハンドルから伝わる振動で感じた。
体制を立て直そうとハンドルを反対に切る。しかし、それは誤った判断だった。
向かう先に見える微かだが視界に激しく飛び込んでくる煌めきに私は飛び込んだ。
視界の先で炎が、見えた気がした。
身体が宙に舞う感覚は一瞬の事で、直後に身体に衝撃が走る。その衝撃は脳を揺らし骨を撓らせ血液を逆流させた。
私は目を開いたまま、二つ並んだ光量の弱い月を見て、集落に思いを馳せる。
後部座席の方から声がした。
「気分はどう?」
私は振り返った。視界はぼやけ、骨は軋み、声を出そうとしても喉の奥から空気の音が惨めに漏れ出るだけであった。
しかし、そこに彼女がいる事は分かっていた。
「喋れないのね。いいわ、見せてあげる」
私は養父の集落に辿り着いた。
車から転げ落ちて、集落へ駆ける。大勢いる警察官や消防士の人達の中にたゑさんと集落の八人全員の姿があった。
「たゑさん」
私の声に導かれ、集落の人達が一斉にこちらを振り向く。
集落の人達の軽蔑と憤怒と絶望とが入り混じった十八個の眼によって、私はその場に打ち据えられた。
彼らの眼から流入してくる罵詈雑言の数々に、私は耐えられず頽れる。
目は口ほどに物を言うなんて言葉があるが、目は口以上に如実に真実を映し出しているのであって、私はその真実にも耐えられなかった。
私が信じたものは悉く私を裏切っていく。人間なんてものは結局自信を守る事で精一杯なのだ。
美しく彩られた自然界のパズルと同様に、人間界のパズルも美しく彩られる事なんてあるはずがないのだ。
私は空を見上げる。
そこには光量の弱い月が一つ、孤独を絵に描いた様に、ぽつんと静かに浮かんで、見えるはずもない日本の未来を見ようとするかの如く、どこか一点を見据えている様に思えた。あるいはそれは月ではなく私の事なのかもしれないが、もはや私にそこまで考える心の余裕など存在しなかった。
私は今になって燃え盛る、その愛していた集落をじっと見る。
美しく彩られた自然界のパズルを侵していく、妖艶に揺蕩う炎の舞踏は、私の目に飛び込んでくると怪しい魅力でもって私の感情も揺蕩わせる。
そして冬になれば美しく彩られた朝焼けにも似た未来への道を輝きで示しているかの様な黄色や、夕焼けの様に終わった一日を優しく包み込んで疲れを癒してくれる緩やかな炎にも似た赤色を纏っていたのが嘘の様に思える、ざらついて質素な温かみも感じないただの茶色い肌を露出させ、寒い冬が終わるのを地味ではあるがひたすら辛抱強く、修行僧の様に強い信念を内にしっかりと持ち続けて耐えている樹木を、その炎でひたすら侵攻していく姿に私は興奮を覚えた。
息が上がり体の芯が熱くなっていくのは、この炎が樹木を包み込みその内に秘めた水分と信念を蒸発させて、身を焦がしていく際に発生する煙と揺蕩う炎の舞踏が飛び火して舞踏場を広めていく際に発している熱によるものだろうかと考えて、それもあるのだが自分が性的な興奮を覚えているという事実をここではっきりと自覚した。
異常だと思ったが、炎がたゑさんの家や玉ねぎとじゃがいもを収穫したら保管しておく倉庫、集落に住む他の八人の家、そして私の家を燃やしていく様を眺めていると興奮は一層高まった。
しかし私はその興奮が怖くなり、なんとか足に力を入れると車の座席に、沈んだ。そして一連の動作を行い車を発進させる。一連の動作はもう身体に染み付いていて、意識せずとも馴染んでいる事は自然と行えるものだが、今回も私はヘッドライトを付けるのを忘れていて、ライトスイッチを奥に捻って、暗闇を引き裂いた。
光の先を見つめていると繰り返し感じた、この世界に亀裂でも入ったのか、若しくは綻びの様なものが生じたと感じたあの瞬間のたゑさんを思い出す。
あの流麗な動きは私の中で妙に印象に残っていて、今でもあの瞬間を思い出すと私は。
興奮した。
私はあのたゑさんの動きを見て世界に亀裂が入ったのか、若しくは綻びの様なものが生じたと感じた時、それを破壊したいと思った。
美しいものが好きなのではなくて、それを破壊して醜いものに貶める事を夢見た。
現代社会というパズルを完成させたかったのはその後のパズルの崩壊を見据えての事で、結局破壊衝動というものにこの身体と心を蹂躙されて、私という存在は支配されかけていた。
しかし、それでも、私はまだ完全に破壊衝動に支配された訳ではない。
破壊衝動に性的な興奮を覚えようとも、それに恐怖する自分がいるのだから私はまだ大丈夫なはずだと信じている。まだ正常な自分がいるのだと信じている。
高速道路に乗る。
私は破壊衝動の事を考えまいとして、車を飛ばす。飛ばす。
田舎を通る高速道路はやはり薄暗く、私はハイビームにしようとライトスイッチを捻る。
光が切り裂く闇の先に一人の女が立っていた。
私は慌ててハンドルを切る。咄嗟の事にハンドル操作が大きくなってガードレールに向かって進路を変えた自分の車は、もう体勢を変更する事は出来ない位置にまで来てしまった。
諦観の境地と取れる程に落ち着いて死を待つばかりの私は、視線を女に向ける。
それは彼女だった。
そこだけしっかりと光量が確保されていて、しっかりと姿を確認する事が出来る。靴はアディダスのスタンスミス。服装は、膝小僧が丁度隠れる丈の薄い生地で出来た白いプリーツスカート。
同系統のブラウスの上には、スタンスミスの緑色と同色のオーバーサイズのスウェットを着て手は袖の中にすっぽりと納めている。
スタンスミスとプリーツスカートの間の空間は綺麗な白い足と、それを少しだけ覆い隠す白色のクルーソックス。白色のベースボールキャップを浅く被って、前を真一文字に揃えた髪の毛の下の顔には、以前と同様シニカルという葉を大量に貼り付けていて、私の心の中の破壊衝動を見逃さんとするべく、樹液にも似ているどろりとしてへばりついたら離さないとでもいう様な全くもって気色の悪い視線をこちらに向けている。
そして衝撃が走る。
私の身体は宙を舞い外に投げ出され、再度衝撃が走る。
直後に吐き気を催すほどに脳が揺れて、折れてくれた方がまだ痛みが少ないのではないかと思えるほどに骨が撓う、血液は私の身体の構成を忘れたのか逆流を始める、私は目を開いたまま、光量の強い二つの月を見て、彼女に思いを馳せた。
後方から声がした。
「気分はどう?」
私は振り返った。視界は霞み、骨は錆びつき、声を出そうとしても喉の奥から血がひたひたと押し寄せるだけであった。
しかし、彼女がそこにいる事なんてもう分かりきっていた。
彼女は何も言わずただそこに立っていて、私ではなく二つの光量の強い月を見て、顔を顰めている。
その顔は大人びた彼女の顔立ちからはいくらかかけ離れている様に思える程、幼稚な仕草に思えた。
声だって若い女性というよりは少女のようなかわいらしい声色をしていて、年齢不詳なところがある。
私は彼女の質問には答えず――今の状況を見たら答えなんてすぐに分かるだろう――に逆に質問を投げた。
あなた、何歳なの。と言葉に出そうとするが、押し寄せる血の影響でうまく声が出ない。しかし彼女にはそれが伝わる。
「年齢なんてないわ。いつになっても存在していなくて、ただそこにあるだけなのだから」
禅問答みたいな事言うのね。と再び言葉を紡ごうとするが、汚らしい音が出るばかりである。
「事実をうまく飲み込めないからって、禅問答とか言わないでくれる?」
彼女はそう言うと車へ、するすると足音を立てず、しかしふらふらと左右に揺れる独特な歩調で近付いていく。
その動きはさきほど見た、集落を蹂躙していく炎の揺蕩う様子に似ていて、意図せず私の口角は上がる。
彼女は車の横に辿り着くと、ライトスイッチに手を伸ばしそれを捻って、光量の強い二つの月を消し去った。
空に浮かぶ月は出番が回ってきたとでも言いたげに、雲のノイズを取っ払うと、私たち二人の存在の希薄さを裏打ちする様に、薄ぼんやりとして心寂しい舞台を築きあげた。
この舞台の演者は二人。二人は対立も強調もしない。ただ二人はそこにいるだけ。
あら、ちょうど眩しいと思っていたのよ。と私はもう声に出す事は諦めて心の中で、ただ、思う。努めて平静を装いながら。
「今更隠したって無駄。自分の内に秘めたものに気付くチャンスは何度かあったはずよ。こんなに大きくなる前に」
気付くチャンス。
きっとたゑさんの流麗な動きを見た時に感じた、この世界に亀裂が入った様な、若しくは綻びが生じた様なあの感覚の事だろう。
しかし彼女は何度かあったはずだとそう言った。他に何かあっただろうかと考えていると彼女は呆れた様な顔をして言った。
「見たでしょ? その目で。炎を」
炎。
ああ、あれも同じだったのか。と私は妙に落ち着いた気持ちでその事実を嚥下した。
自らの身体の破壊すらも欲するほどに私の心は歪んでいた事を知ったのに、絶望はおろか悲しみという感情すら湧く事はなかった。
それどころか、こんな時でさえ私は興奮を抑え切れなった。
「生粋の変態ね」
私は死んでいく。そう思うと胸が高鳴った。
自らの死という破壊の形は一度しか味わえない、それは至上の贅沢である様に思えた。
身体の痛みが徐々に引いていき、意識はヘリウムガスを入れた風船の様にぷかりぷかりと浮かび上がり、月に向かって飛んでいきそうになっていた。その時は近い。
彼女の表情を見ると、シニカルという葉は完全に散り、樹の幹の様に太くどっしりと構えていて多少の風雨では揺らがない程の憐憫が姿を現した。
彼女は私から興味が無くなったのか、くるりと向きを変えて車の後方へと歩いていく。
私はその姿をしばらく眺めてから、魂というものが、私の中を通り抜けて地面に向け降下していこうとするのを感じる。
意識は上がり、魂は下るのか。とぼんやり考えていると、突然私に恐怖が舞い降りた。
死が怖い。
その時微かに声が聞こえた。
「今の生活に満足している?」
魂が私の身体からぷつん。