第四話 黒
俺の視界の右端に見えるのは、昨今若者の間でブームになっているスポーツサンダル。
全体が黒色で、甲の部分と踝の前、踵の三点をベルクロでしっかりとホールドしていて、ソールの部分の少しいかついフォルムからすると、テバのハリケーンXLTだろう。
彼女はそのスポーツサンダルに赤色の靴下を合わせて履いていた。俺はしっかりとトレンドを押さえているなと思った。しかし俺が見えるのは、その足元だけで、服装までトレンド押さえているのかどうかは分からない。
何故足元しか見えていないのかというと、俺自身状況を把握出来ていないのだが、彼女は俺の右後方に座っていて、そして俺自身はどうしてだか首から下を全て地面に埋められているのだ。
振り返ろうにも自分の長髪が仇となり視界を遮っていて、彼女のズボンの裾の方がぎりぎり見える程度である。
あまり深く考えていなかったのだが、これは何かの拷問なのだろうかと今更ながら思い始めると、波の音が聞こえる事に気付いた。
先程までこんな音はしていなかった様に思ったのだが。
俺は身体で動かせるのは首より上だけなので、そんな役に立たない部分ではなく脳を動かし思考する事に努める。
正直に言うと身体を動かせないのはかなり辛い。
フィジカルよりメンタルに多くの疲労が蓄積するので、俺はそれを誤魔化す為、気を紛らわす為に思考を続ける。
その間にも彼女はくすくすと笑い続けている。完全に俺のこの姿を見て楽しんでいるのだろう。
笑い声の雰囲気からは比較的若い女性といった印象を受ける。
俺の様にもうおっさんといって差し支えのない年齢の男からすると、若々しく張りがあり甲高くて耳が痛くなる様に感じてしまう、そんな少女の様な声色。
そんな年齢で俺の様なおっさんを埋めて楽しむなんて嗜虐性を秘めているのかと思うと、煙突の中みたいに汚らしく煤けて光が届いたところで、見えるのは結局深い黒色といった感じに、表面化されたどす黒さを持った人間が現れる社会が訪れてしまったのかと俺は嘆いた。
「あなた、今どんな気分?」
右後方の彼女が突然口を開いた。
俺の思考が一瞬止まった。そして次の瞬間から先程にも増して脳が動き出し、思考の連続は打ち寄せる波の様に、俺の前頭葉を刺激した。
俺は気付いた。
「お前、井上か? そうなんだろ」
右後方の誰かのくすくすとした笑いが止まった。
俺は昨日井上を振った。
井上とは三年近く付き合っていたのだが、彼女の束縛に耐えられなくなったので、一方的に別れを告げたのだった。
彼女の愛は重たすぎた。
それこそ今の状況の様に、纏わりつく砂に埋もれた様に、心の身動きを奪われた生活だった。
俺は昨日から自由を得たはずだったのに、結局身動き出来ないでいるこの状況を思うと、この世に自由なんて存在しないのではないかと小言の一つでも言いたくなった。
しかし、ここで余計な事を言うと、尚更井上の思う壺なのではないかと思考し、踏み止まる。
右後方で井上が、何かをしていて、何かを感じていて、何を企んでいるのかは分からないが、俺は井上に屈するつもりはない。
望んだ訳ではないが、井上と決着をつけるいい機会なのかもしれない。
それにしても井上はどうして何も言わないのだろうか。俺は出来る限りではあるが右後方にいる井上へと視線を向ける。
確かに井上はそこにいる。
テバのスポーツサンダルと赤い靴下は未だそこにあって、しかしそれは存在感だけがそこに介在していて、気配というものに関しては恐ろしい程に希薄で、目で存在を確認しているのに俺はそれを疑ってしまう。
沈黙が続くと一層疑いは濃厚さを増していき、増した疑いは不安を招く。俺は不安を更に募らせていく。右後方にいる人間がもし井上でなかったとしたら。
そんなはずはない。
俺は先程井上の声を聞いていて……
果たして、あの声は本当に井上だっただろうか?
先程聞いたはずの、あの声が、あの声とはどんな声だっただろうか。
俺はさっき聞いたはずの声を思い出せない。
そんなはずはない。昨日だって井上と会ったのだから声くらいは思い出せるはずだ。
昨日の事を思い返してみればいいんだ。そうだ、そうすれば。脳の中から井上に関連する記憶を検索する。
しかし何故だろうか、どの記憶にも不自然さが残る。
井上を俺は本当に知っているのだろうか?。
雲行きが怪しくなってきた俺の記憶。尚更思考を止める訳にはいかない。
俺は再び脳を動かす。
井上という人物との記憶が存在しているのは事実なのだが、それは知識として持っている情報であるかの様に文章として記憶に残っているだけで、映像としての記憶が皆無だと気付いた。
本当に俺は井上という人物と時を過ごしていたのだろうか。
脳裏を過ったのは記憶の操作。
今現在記憶の操作なんていうのは漫画や映画など空想の産物でしかないと俺は思っていたが、俺の脳にしっかりと植え付けられている、この記憶――映像としてではく文章として――はどこからやってきたものなのかと思考した時、記憶の操作という可能性は一概に否定できるものではないと思えた。
そう分かっていても、可能性は認めていても、記憶の操作なんてSFめいた事を受け入れられない俺がいるのもまた事実。
安易に分かりやすい答えを求めすぎるのは間違っているのかもしれないと新たに思考し、俺は井上という人物との記憶の糸を手繰ってみて、そこに何かヒントが隠されていないか確認する事にした。
そうでもしないと俺は、いつからか恐怖へと変貌を遂げた、元は不安であったそれに身体を、精神を、蝕まれつつあり、そろそろ正常な判断すら出来なくなってしまいそうで、それにまた恐怖を覚えて、俺はおかしくなっていくのを身をもって感じた。
思考を止めるな。
井上という人物との間にある記憶の、不自然な、違和感のある点を見付け出す事に集中する。
相変わらず右後方にいる誰かは口を開かずに、だんまりを決め込んでいるので思考する時間はまだありそうだ。
何分、いや何時間経っただろうか。
俺は相変わらず砂の中に埋もれていて、状況は何も変わっていない。
強いて言うなら、聞こえる波の音が大きくなってきた事と、時間が経つ毎に井上との記憶がどんどん思い出せなくなっている事が変わったと言えようか。
今や俺に残された井上との記憶は、別れた日の事と、別れるに至った原因の日のみとなっている。
こんな事が現実にあり得るのかは分からない――実際に今起こっている事すら、現実なのか判断出来ない――が、記憶がどんどん抜き取られている様な違和感を、記憶の消失が起こる度に抱いた。
そして、記憶を抜き取られる様な違和感を抱く度に右後方の誰かの存在感はどんどん希薄になっていく。
それなのに何故か濃厚な気配だけは怪しく漂わせ続けた。
俺はこの不気味な誰かの正体が人智を超えた存在ではないかと疑い始めた。
悪魔。そんな言葉が頭を過る。
記憶を弄び――どうやっているのかは分からないが――シニカルな表情でもしているのだろうかと思考すると、俺の中に怒りが蔓延し、凶暴性といった類の片鱗が顔を出そうと、理性の扉に手をかけているのが分かって、なんとかそれを抑え込もうと努力をしてみるのだが、理性の扉は西部劇に出てくる汚く無法者が集う酒場の扉に似ていて容易く開いてしまう。
無法者は解き放たれた。
蔓延していた怒りを媒体にして、攻撃性を携えた無法者は行き場を探して俺の全身を駆け巡る。
そして脳に行き着く。
無法者は脳を支配して身体へと命令を下すが、地面に埋められて纏わりつく砂の重圧により動けない事を悟ると、唯一砂に触れていない首より上の部位でも、とりわけ口に集中して命令は下された。
そして実行されようとしたのだが、外部からの影響で無理矢理にそれを中止させられた。
水だと理解するまでに数秒を要した。
先程までも水の音は聞こえていたが、あれはやはり俺に迫ってきていて、俺が怒りに囚われて外部から入る情報の収集を疎かにしている内に、こんなに近くまできていた様だ。
口の中に水と砂が入る。
喋る事がままならなくなって、怒りを吐き出すより、水を吐き出す事に神経を集中させる。
海水の、塩分濃度が高く塩辛い、その味が舌の上を通り抜けて喉の奥を滑り落ちていく。その感覚と時を同じくして、砂がじゃりじゃりとした嫌な感触を口の中に残した。
俺は何故、こんな思いをしなければならないのだろう。そう思考した時、何かの気配を感じて視線を右後方に向けようとするが、首から下が全て地面に埋まっていて、右後方の誰かの全貌を確認する事が出来ない。
しかし、黒色のスポーツサンダルを履いている事だけは、なんとか確認することが出来る。
甲の部分と踝の前、踵の三点をベルクロでしっかりとホールドしていて、ソールの部分の少しいかついフォルムからすると、テバのハリケーンXLTだろう。
彼女はそれを、赤色の靴下を身に着けて履いていた。
俺は何故、そのスポーツサンダルを履いた人物を女性だと思ったのだろう。
確かに足のサイズは小さいし、足も細そうではあるが、成人男性とは言わずとも中学生くらいの男の子という可能性だってあるのではないだろうか。
濡れた髪から垂れる水が鬱陶しいし、口の中に砂でも入っているのかじゃりじゃりとした嫌な感触が俺を不快にさせ、思考の邪魔をする。
どこか遠くの方から波の音がした。
とても遠くの方から聞こえた、その波の音で今の状況のおかしさに気付いた。
どうして俺の髪の毛はこんなに濡れていて、口の中に砂が入り込んでいるのだろうか。
水の音はとても遠くの方から微かに聞こえる程度であって、俺のいる所にまで水が来る事なんてありえない。
潮の満ち引きがあったとしても、俺の髪がまだこんなに濡れている内に、微かに水の音が聞こえる程遠くにまで波が移動しているなんて事があるだろうか。いやあるはずがない。
いくらなんでもそれは早すぎる。
それじゃあ何故俺の髪の毛は濡れているのだろうか。
右後方にいる誰かが俺に水をかけた可能性は?
何の為に?
もしかするとこれは拷問なのだろうか。俺は一体何をしでかしたのだろう。
記憶を蘇らせる。いや、蘇らせようとしたのだが、何も思い出せない。
俺は俺の名前を思い出せない。
俺は誰だ。
俺は何者なんだ。
右後方にいる誰かは俺の事を知っているのではないだろうかと閃いて、質問を投げかけた。
「おい、お前。俺の事知ってるか?」
右後方の誰かは何も言わない。しかし、俺の声はしっかりと届いている様に思う。
なぜなら、その誰かは俺の声を聞いた時から気配というものを顕著に発散させ始めた。その気配からは純粋な悪意の様なものを感じた。
いや感じたというより、俺はその気配を知っていて、その気配の持ち主が純粋な悪意を内していることを、身体が、心が、覚えている。
そんな気がした。
純粋な悪意ほど質の悪いものはない。何故そう思うのかは分からない。
抜け去った記憶のどこかで純粋な悪意と対峙したことがあったのだろうか。
俺は今その純粋な悪意と対峙する事は出来ないだろう。
首から上しか動かせないからという理由ではない。この状況が精神面に大きなダメージを与えていて、とてもじゃないが純粋な悪意と対峙した時に俺の心が平常に戻れる自信がないのだ。
俺の精神はもう崩壊寸前で、前回の波が俺を巻き込んだ時に……
今俺の頭の中に浮かんだ声の様なものはなんだ?
前回の波とはいったい何のことを言っているのだ?
今のは何だ?
俺の頭の中でもう一つの俺の心の声の様なものが聞こえた気がした。いや、気がしたのではない。
確実にそれは起こった。事象として、それは起こった。
いよいよ俺の精神は駄目になってしまったのかもしれない。
もう一度俺を波が襲う。
もう一度? 俺は何を言っているのだろう。
波なんて来ていない。
確かに波の音がしている――そうだ、これは波の音だ――が、微かに聞こえる程度の小さな音であって、波に襲われる事なんてあるはずがないのだ。
改めて耳を波の音に集中させてみるが、やはりその音は遠くの方にあって、俺が今いるこの場所にまで勢いよく水を運んでくる程の勢いがある様にはとてもじゃないが聞こえない。
いや、実際に波は俺を襲っていて、口の中の水と砂を必死に吐き出している。
このままだと俺は溺れて死んでしまうだろう。
右後方の誰かの事もこの頭に直接響く、もう一人の俺の事も分からないまま。
もう一人の俺だって?
そんな事はありえない。一体何が起きているというのだろう。
戸惑いを露わに、俺は右後方の誰かに言う。
「これもお前の仕業か? いったいどうなってるんだ。答えろよ」
俺の口の中に入っていた砂のいくつかが、唾と一緒になって飛び散る。
目の前で水が飛び散ったのを認識した直後、波が再び俺を襲う。
俺の視界の右端に見えるのは、昨今若者の間でブームになっているスポーツサンダル。
今そんな事はどうでもいい。
今そんな事はどうでもいい。
「答えろって言ってんだよ」
俺の精神はもう崩壊を迎えた。
俺は波に呑まれて死んでいく。
俺は昨日、井上を振ったんだ。
井上。その名前には聞き覚えがある。そんな気がした。井上。どこのどいつだ。
水と砂が口の中いっぱいに入り込んで、意図せず飲み込んだそれらが食道から肺や胃に流れ込んでくるのを、何故か他人事の様に感じている俺がいる。
映画やドラマの溺れるシーンでは意識が徐々に遠のいていく様に表現されている事が多いが、実際は恐ろしく苦しくて、むしろ意識は覚醒している。
俺は身体を無理矢理に地面に埋もれたまま動かすが当然動くはずもなく、苦しんだまま目を見開いて右後方の誰かを、どうにか見ようと首を力いっぱい後ろに回すと頸椎が断末魔の叫びをあげた。
「お前、井上か? そうなんだろ?」
右後方にいる誰か――井上――が立ち上がった。そして俺の正面に回り込む。
俺が顔を上げると、そこには、誰か――誰か――がいた。
「誰だよ。お前」
「誰だよ。お前」
長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いた目力のある女が俺を見下ろしている。それもシニカルな表情で。
履いているのは黒いテバのハリケーンXLT。
服は白いMHL.の文字が胸ポケットの辺りにプリントされた黒色のTシャツ。
パンツは少し丈が短い黒色のガウチョパンツ。
そしてショートヘアだからか浅めで斜めに被っているベレー帽までもが黒い。
そんなオールブラックの中に、赤い靴下をアクセントとして落とし込んでいるのはなかなかお洒落な印象だ。
個人的には小物でもう一つ小さなアクセントを付けるか、柄物のオーバーサイズシャツなどでインパクトを付けた服装が好みではあるが世間の流れ的にはシンプルな、このままのスタイルの方が好印象ではないだろうか。
いや、こんな時に相手の容姿を気にしている場合じゃない。
俺は――俺は言った――言った。
「もう一人の俺を殺したのはお前か?」
「もう一人の俺ってどういう事だよ」
「うるせえな。お前は黙ってろ」
「はあ? これどういう状況なんだよ」
「だいたい分かるだろ? お前本当に俺かよ」
「何言ってんだよ。俺は俺だし、お前はお前だろ? って言うかお前誰だよ」
「俺はお前だよ」
「なんだよ、頭おかしいぞ、お前」
更に現れていた、死んだ方じゃない、もう一人の俺が騒々しい。
目の前にいる女が俺の前にしゃがみこんで、左手で頭を掴むと言った。
「井上って誰の事言ってるの?」
何かが津波の様に勢いを伴った奔流となって頭の記憶の倉庫の扉にぶち当たる。
そして扉をその波で押し流すと、記憶を倉庫の中から軒並み溢れさせた。
記憶は俺の全身に行きわたり、忘れていたと思っていた記憶は無理矢理眠らされていただけの様で、今それは解放され、俺の下へと帰還した。
井上に別れを告げた直後、彼女は俺の手を握って言った。
「どうして、そんな事言うの? 私はあなたといたいのに」
井上はしつこく俺に付き纏う。
「俺はお前無しでもやっていける。お前といると俺はおかしくなる」
井上は諦めなかった。
「そんな事ないよ。だって、あなたは私の」
「しつこいよ、お前」
井上はまだ諦めない。
「何が嫌なの? 料理だって勉強したし、あなたの好きなものは全部調べて勉強したし、それに」
「そういうところが重いんだよ」
苛々とした鋭利な感情が、俺の理性の糸の繊維を、一本一本、じわりじわり、ぷつぷつと切っていくのを感じる。
井上は俺の気持ちなんて知らずに、俺の手を握るその手にぐっと力を込める。井上の肌の温かさが伝わってくると、理性の糸がぷつりと音を立てて切れるのを認識した。
俺は肌の温かさを如実に伝えてくる迷惑極まりないその手を振り解くと、井上の頭を左手で掴み壁に打ち付けた。
井上の喉の奥から空気と共に恐怖の感情が漏れる音が聞こえ、目からは不安と何が起きたのか状況が分からないといった様子がありありと伝わってくる。
俺は空いている右手で井上の顔を殴る。先程手から伝わってきた温かさとは違い、暴力から発生する痛みの熱が俺の手を温めて、それが気持ちよい。
井上は助けを呼んだりする事もせず、ただただ静かに自身を自身から少し切り離して、痛みに耐えていた。微かに井上が霧散する。視覚で捉えている訳ではなく、第六感的な感覚でそれが俺に伝わる。
俺は井上の涙と鼻血が混ざって床に垂れていくのをじっくりと見届ける。
「ごめん、汚れちゃったね」
そう言うと井上は無理をして笑顔を作った。
その演出された健気さに俺は更に苛々を募らせて、感情だけでなく暴力すら鋭利に尖らせていく。
左手の力を緩めて、井上が壁から頭を浮かせたのを見計らって、また頭を壁に打ち付けた。
そして、殴る。
右手で。次は腹を。腹に拳が沈んでいく感覚が、井上を壊しているという事実を俺に強く意識させる。
涎と胃液が混ざったそれを、床にいくらか垂らして、井上は言った。
「ごめんなさい。ちゃんと掃除するから」
左手を離す。井上が床にへたり込む。
そして、着ている服の袖口で涙と鼻血と涎と胃液を拭いている。ごめんねごめんねと言いながら。
その光景を何故かスローに感じて、無駄に長い時間その演出された健気さを見せつけられて、俺は完全に井上を壊そうと決めた。
それに気付くよりも早く、身体は動き出していて、もう井上を壊し始めていた。
それも徹底的に。
まず最初に腹を集中的に壊した。
幾度もそこに拳をめり込ませて、その度に壊している実感を感じて、俺を恍惚を覚える。
止まらない。
前に倒れ込もうとする井上の顔を蹴り上げる。
もはや破壊に支配され渾然一体となったこの場所においては、涙と鼻血と涎と胃液とよく分からない体液が混ざったそれすら美しい。
天井と壁に飛んで行ったその液体を眺める余裕すら、今の俺には存在する。
俺は破壊を止めない。
俺が井上を壊すその度に自身を自身から少し切り離していって、そして最後に切り離し過ぎて井上はいなくなった。
目から光が消えて、動かなくなったものがそこにあった。
しばらく様子を眺めてから、俺はそれを風呂場に運んで、キッチンに向かった。
包丁を持って風呂場に戻る。
なぜそうしたのかは分からないが、首より上は置いておこうと思い、最初に包丁をそれの首に突き立てた。
破壊は終わらない。
包丁は頸椎に当たって動きを止めた。
包丁が頸椎に当たって動きを止めた時の感覚が脳裏に蘇る。
俺は何故、今までこの記憶を忘れていたのだろうかと思う程、鮮明で、強烈な記憶が頭の中を渦巻く。
濃厚な血の匂いと、瞳孔が開いたからこそ感じる、煌々たる血の輝きを思い出し、気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
それは客観的に認識すると美しい映像作品の様で、脳内で何度も気に入ったシーンを再生しては巻き戻し、再生しては巻き戻し、脳の中で何度もそれを壊す。
微かに聞こえていた波の音が鼓膜をささやかに包み込み、それが脳内での映像と絡まりあって、俺は美しい映像作品を一本の芸術的映画の域へと昇華させた。
そんな俺の楽しみを邪魔するように、彼女は俺の頭を掴んでいる左手の力を強めて言った。
「一つだけ聞かせて欲しいんだけど。あなた、井上って子となんで付き合ったの?」
何故付き合ったのか。俺は思い出す。井上は。井上とは。
何故だろう?
俺には分からなかった。
「そういう事よ。分かるはずがないの。だってあなたは」彼女はシニカルな表情で俺を眺め言った。
「そんな事より、自らを切り離すなんて、そんなの自ら死んでいくのと同義だと思わない?」
自ら死んでいく事、それは井上を批判して言っているのだと思うのだが、何故俺にそれを問うのか。聞かれている事の真意をはかりかねて、彼女に聞いた。
「どういう意味だよ?」
「今の人生に満足している?」
彼女は俺の質問には答えずに言った。
先程の楽しい気分を邪魔されて、正直気分が悪い。
「まあ満足してはいないな。とりあえず、出してくれよ」
彼女は馬鹿にした様に笑ってから言った。
「あなたには、今のそれがお似合いよ」
俺は自らの中で、自らを切り離して少しずつ死への道を歩んでいる。
それは今になっても同じで、まだ頭の中の俺も俺も、死へ進んでいるのだ。
「おい。もう一人の俺。どうせ今頃溺れてるんだろ」
返事はなかった。
とうとう俺は一人になった。
そう認識すると、地面に埋もれている訳ではなく恐怖と不安に埋もれているのではないかと錯覚する程に、恐怖と不安が俺の中に飛び込んできた。不安と恐怖は俺の心をその冷たく汚い手でぎゅっと握りしめる。
一人が怖い。
そうだ俺は一人が怖い。
そう知ると後悔と抑鬱が激しい波となって、俺に襲い掛かってきた。
それらも不安と恐怖は飲み込んで更に大きくなって、俺の心を握りつぶそうと躍起になっている。
いつまで俺はこうしているのだろう。
何年、何十年の期間が過ぎた様に感じる。
しかし、何故か俺は死なない。
死へ一歩一歩近付いているのは確かに感じるのだが、死なない。
アキレスと亀の話の様に、無限に終わる事がないかの様に、俺は死を迎える事は無いのだろう。
「アキレスと亀。そんな話があったわね」
何年、何十年の期間振りに聞いた誰かの声。
何年、何十年の期間振りに見る誰かの姿。
「あの話はね」彼女は、何年前、何十年前にもそうした様に、シニカルな表情で俺を見下ろしながら言った。
「無限回続ける事と無限の時間が続く事を混同しているだけよ。例えばアキレスが秒速一メートルで進んで、亀が秒速〇・一メートルで進むと仮定しましょう。亀は遅いから、ハンデをもらってスタート地点の一メートル先からスタートする。一秒後、アキレスはスタート地点から一メートルの所に到着して、亀はスタート地点から一・一メートルの所に到着する。一・一秒後、アキレスは一・一メートルの所で亀は一・一一メートルの所。一・一一秒後、アキレスは一・一一メートル、亀は一・一一一メートル。これは、この亀とアキレスの話の定義があっての問題だから、実際に無限の時間なんて存在しないし、この亀だって現実世界で二秒後なんかになったらもうアキレスに抜かされてる。理屈でものを語るから、そういう事になるのよ。第一、あなたとこの話が一緒だと思わないでくれる」
シニカルな表情は鳴りを潜めて、感情というものを一切排した、目や鼻などが付いているから出来た凹凸と、その凹凸によって出来るコントラストだけが張り付いた、人間とは違う別の生物――もしくは生物ではない何か――の様な表情をした彼女の姿に、俺は何の言葉も出せない。
そんな俺の様子をしっかりと記憶に留める様に、彼女はその長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いた目力のある瞳で俺を射抜いた。
そして言った。
「あなたが信じているかどうかは別としても、属しているという認識は持っているのね」彼女は俺ではなく俺の根源となる部分に直接話しかける。
「五億七千六百万年。一説には五十六億七千万年っていうのもあるけど、あなたは繰り返しなさい。釈迦牟尼仏の入滅後、弥勒菩薩が下生するまでの期間」
五億七千六百万年?
五十六億七千万年?
釈迦牟尼仏?
弥勒菩薩?
下生?
仏教の話か?
確かに俺の家は仏教だった気がする。
そこまで宗教に関心のない俺には詳しい宗派だったりは分からないが、明らかに仏教というものが今ここで話されている内容のベースになっている様に思う。
しかし、それが何だと言うんだ?
「属しているものに興味を持ちなさいって事。宗教に属しているのなら、少しは宗教に興味を。恋慕という本能に属するのなら、あの井上って子にも興味を持ってあげれば良かったのよ。あなたに足りないのは属するものへの興味の不足。あなた本当に気付いていないのね」
そう彼女は言った。
俺は彼女の言う意味は分かるが、理解し享受する事が出来るかと問われたら、ノーと言うだろう。
「今回も駄目か」
彼女の言葉の多くは真意が読めない。もう彼女には興味も湧かないので気にしないでおこう。
あと、これはどうでもいい事かもしれないが、地面に埋まって首だけ出しているこの状態は苦行の様に見えなくはないだろうか?
俺の視界の右端に見えるのは、昨今若者の間でブームになっているスポーツサンダル。
全体が黒色で、甲の部分と踝の前、踵の三点をベルクロでしっかりとホールドしていて、ソールの部分の少しいかついフォルムからすると、テバのハリケーンXLTだろう。彼女はそのスポーツサンダルに赤色の靴下を合わせて履いていた。