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彼女を待ちながら  作者: 斉賀 朗数
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第三話 黄

 誰かに愛されるという事は、こんなにも素晴らしい事だったのか。


 彼に包まれていると思うと、至福というものを全身で感じて心が浮足立った。

 先日までは私の事など世間の誰もが見向きもしなかったし、たまに誰かが興味を持っていたとしても、それは疎ましがっていただけであり、好意的に私を見る人などいなかった。

 そして私自身周囲の人をなんとも思っていなかった。


 そんな私の姿を一匹狼と評した彼はなかなかの皮肉屋ではあったが、私の心の雪を溶かすべく訪れた春の様であり、その温かさは私の人生で初めて感じる感覚であった。


 私は幾度目かの人生において遂に見付けた彼の許で、生を死んでいくのだ。


 この事実を彼女に伝えたかったのだが、いつの間にか彼女は眼前から姿を消していて、私は彼の手に抱かれたままで周囲にさり気なく注意を配ってみたが、結局彼女の気配を見付ける事は出来なかった。

 彼女は以前から異世界の住人然とした匂いがしていたので、きっと彼女は私の事を導いてくれた天使や神の類だろうと今でも信じてやまない。

 彼女はこの世界における存在感というものが希薄であるのに、それでいて妙に心の深くに印象を植え付けるものを携えていて、それは即ち天使や神に通ずるものであるとしか私には思えないのだ。

 馬鹿げていると思うかも知れないが、実際に彼女を見てみたら分かる筈だ。

 それだけ彼女は浮世離れした女性なのだから。


 彼女は不意に私の前に現れた。

 私は繁華街の路地裏を目的もなく歩いていた。そこは大通りの喧騒が、壁一枚隔てた先からテレビやラジオの音が流れてくる様に聞こえるくらいには静かな所で、繁華街の大通りとは建物を挟んでいるだけだというのに恐ろしい程に人の気配がなかった。

 そんなところに、彼女はぽつねんと、私を待っていた風に佇んでいた。

 伏し目がちな視線が見据える先を妨害するのではと思える程に長い上の睫毛は、重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けていて、二重瞼でぱっちり開いている目には強い目力がある。


 その目が私を捉える。


 その視線に射抜かれて、私は戸惑った。

 こんなに目力のある目で私を見ているというのに、彼女には存在感というものが希薄なのである。

 しかし足元に目を向けると、存在感のある個性的な色の靴を履いていた。


 彼女はアッパー部分がほぼ全面黄色で、両サイドに鳥をデフォルメした様な形にも見える灰色をした波形のラインを配し、その波形のラインには丸い穴が三つ開いていて、そこから黄色が覗いているのがかわいらしい。

 その波形のラインと同じグレーをタンには四角く、ヒールカウンターは上部に、そして上から二つ目のシューホールの部分までのシューレースだけに纏っている。

 特徴的でありながらデザイン自体は少しレトロな要素も感じさせるが、良く言えば普遍的なデザインとも言える。

 アウトソールは波形のラインなどの部分よりは薄いグレーで、ミッドソールは白色の靴底が少し薄い作りになっている。


 彼女は私がその靴に注意を奪われている事に気付いたのか、口を開いた。

「この靴が気になるの? これはサッカニーのジャズロウプロって靴。ジャズっていうモデルが元々あるんだけど、それのロウプロファイルモデルでジャズロウプロって名前なの。ロウプロファイルは薄底化って意味ね。アウトソールに三角形のラバーを配置しているのも特徴的なんだけど」そこまで一息で言いきると彼女は、はっとしたような顔をして続ける。

「そんな事聞いても仕方ないか。靴に興味なんてないよね、君の場合」

 そう言うと彼女は笑った。


 その笑顔は彼女の大人びた表情から想像していたものとは違って、少女の様に屈託のない純粋さが溢れ出した笑顔であった。

 それだけに私は、靴に興味がなかった自分が情けないような気分になった。

 彼女に話を合わせてあげる事も出来ないなんて。と思うと自然と謝罪の気持ちが胸を渦巻いた。

「申し訳ありません。靴に興味がないのは全くその通りです」

「気にしなくていいよ。別に好みを押し付けようと思って靴の話をした訳じゃないから。ただ好きなものについてはやっぱり語っちゃうものだね」彼女は少し真剣な表情になって続けた。

「君は好きなものってある?」


 彼女はどうして私の好きなものなんて聞くのだろうか。と不思議に感じた。

 しかし何故か次こそは彼女に話を合わせたいとも思い、自分の好きなものを考えあぐねていると彼女は言った。

「そんなに悩まなくてもいいよ。好きなものが無いって事だってあり得るんだから」

「申し訳ありません」

 私は再び謝る事しか出来なかった。


 本当に自分という存在の浅はかさが身に染みる。

 幾度人生をやり直したところで私は賢くなる事も思慮深くなる事もせず、ただ漫然と生きていく事を繰り返すのだろうか。

 今が幾度目かの人生かも私は把握していないが、周りのみんなは今が幾度目の人生かをしっかり把握しているし、最期までにこういう風になるのだと確固たる未来を強く持っている。

 その中において私は今の生活をだらりだらりと過ごしているせいか浮いた存在であり、全ての人から疎まれているのを手に取るように感じていた。

 そんな折に出会った彼女は、何故か私を疎ましく思う事もなく話しかけてくれていて、それ故に私は少しでも彼女に嫌われたくないと思った。彼女の持ち得た特殊な存在感の為せる所業かもしれない。


 しばらくの沈黙の後に彼女は言った。

「人と喋るのに慣れてないのね」

 私のコミュニケーション能力の低さを一瞬で的確に読み取ったようで、彼女はそう言って私を見ている。

 私は何と答えるべきか逡巡した。

 彼女は全てを見通している様に、達観している様に私を見据えていた。

 そんな彼女に取り繕った事を言ったところで仕方がないのかもしれないと私は思い、素直に認める事にした。

「仰る通りです。人とまともに会話すら出来ないのです。私はそんな程度なのです」


 彼女が私の言葉を聞いてどう思ったのかは想像すら出来ないが、急に無表情になってから私の全身を舐めるようにじっくりと見ているのは見て取れる。


 その時間は無限に感じられる程長いものであった。


 時間が停止しているのだろうかと思ったのは、周囲の音が完全に聞こえなくなるという不可思議な現象が起こったからで、世界が静止しているのだろうかと思ったのは、彼女が私を一通り眺めた後に微動だにしなくなったからである。

 そして私自身そんな彼女から目を離す事が出来なくなり身動きが取れなくなっていた。

 この場は、彼女を中心にした一枚の絵画に纏められてしまったのではないかと錯覚してしまう程、妖艶に彼女を彩らせ、甘美に彼女を縁取り、そこには確かに耽美があった。

 無限に続くのではないかと思ったこの時間も実際は数秒の出来事で、彼女がまばたきをすると完成されたこの世界の歯車は再び音を立てて動き始め、繁華街の雑踏が俄かに私の耳に蘇った。


 もう少し今の時間を堪能していたかった。


 そんな気でいたのだが、現実というのはそんなに甘いものではなくて、時間というのは本来容赦なく駆け抜けていってしまうものなのである。それも駿馬の様な速度で猛然と。

 幾度の人生を過ごしていようと、そこを捻じ曲げる事が出来ない事は理解している。

 世の理というのは絶対であり、それは致し方ないものであるのだから。

 私が物思いに耽っている間にも時間は刻一刻と流れていく。時間は有限であるからこそ幽玄なのだと理解しながらも、先程感じた夢幻である無限の世界に憧憬の念を抱いてしまうのは、彼女が持ち得た耽美に魅了されてしまったせいだろう。


 そうして彼女に見入っていると、一陣の風が吹いた。

 その風は彼女の肩程まで伸びたツヤのある黒髪を持ち去るかの如き勢いで吹き上げて彼女の顔を一瞬見えなくした。

 不意に私の後ろで大きな音を立てて扉が閉まったので、驚いて飛び跳ねた。比喩ではなく実際にである。

 半開きだった扉が先程の風に煽られて閉まったのだろう。

 彼女はそんな私の姿を見て、再び少女の様に屈託のない顔をして笑いながら言った。

「何をびっくりしてるのよ」

「申し訳ありません。まさか突然、こんなに大きな音がするとは思っていなかったので、いやはやお恥ずかしい限りです」

 私は言いながら、羞恥心を抱いていた。

 彼女が今の音に対して全く驚いていなかっただけに、私だけが目立ってしまった様に感じたのだ。


 彼女はそんな様子に気付いているのかいないのか、閉まった扉に近づいて真剣な表情で扉を眺めている。

 そして実際に扉に触れて開けたり閉めたりを繰り返している姿は妙に滑稽であった、私はそんな彼女の姿を見てこっそりと笑う。

 私が感じていた羞恥心は彼女の意図せぬ行動で瞬く間に消え去った。

 彼女は私の顔を窺うと頬を少し膨らませて、不満を演出してみせながらも言った。

「私の姿を見て笑うのはどうかと思うけど、羞恥心は消えたようで良かったわ」

 私は再び驚いて飛び跳ねた。

 しかし今回は心の方であって、実際に身体が飛び跳ねた訳ではない。彼女は私の全てをお見通しなのだろうかと疑問が湧く。

 不思議な雰囲気を身に纏った彼女であれば、それも可能性として存分にあり得るような気がしてしまう。


 彼女はもしかすると……


 突然彼女が急に私との距離を詰めたかと思うと、私の頭の上に小さな手を置いた。

 近づいた勢いで揺らいだ周囲の空気が渦を巻いて、私の鼻腔に彼女の匂いが届く。

 鼻腔を通り抜けると私の身体の中で方々に拡散し一層彼女の匂いは強まった様に感じた。

 今までに嗅いだ事がないような匂いではあったが心地が良くなる、心が安らぐものであった。

 その匂いで呆けてしまった私に、彼女は言った。


「君の事は、なんでもお見通し。私がもしかすると何だって言いたいの?」


 この時に私は強く思った。

 彼女は天使や神の類なのではないだろうかと。

 そんな考えもお見通しなのか、彼女は何も言わずシニカルな表情をしてみせた。


「今の生活に満足している?」


 次に会った時、彼女はそう私に問いかけた。

 以前と同様に存在感が希薄で、私は彼女の存在を覚えているつもりでいたのだが、実際目の前にしてみると私が記憶しているつもりだった彼女の雰囲気とは少し違う様に思えた。

 しかしその存在の儚さと言うべきか危うさと言うべきか迷う所ではあるが、その感覚を私に抱かせるという事実が、尚の事彼女で間違いないと確信させる要素になっていた。


 浮世離れした彼女の、現実を見据えさせる様な質問はなんとも的外れな内容に思えたが、何故かそこには有無を言わさぬ圧力を感じさせる迫力があって、質問に対して真摯な回答を求められている、そんな風に感じた。


 今の生活に私は満足しているのだろうか?


 他人から疎まれ、時には存在すら無視されて生きていく事。幾度の人生を過ごしても、私はそれを繰り返すばかりであった。

 しかし周囲の人間が私に興味が無かったりする様に、私自身も周囲の人間に対して興味があった訳ではないので、それに関しては不満がある訳ではない。と今までは思っていたのだが、彼女と会話をした事で気付いてしまった。


 私は本当は寂しかったのだ。


 周りのみんなにも相手にされず、周囲の人間にも相手にされず、一人の人生を続ける内に自分の本当の気持ちに蓋をして生きていた事に気付いてしまったのだ。

 それを一度理解してしまうと、私という存在はがらんどうで、ただ長い間意味もなく時間だけを浪費して生きていたという事実は、自分に対する失望や後悔、抑鬱となって私を苛んだ。


 見えていた世界がぐるぐると回りだすのを感じた。


 世界は回転を続け歪な形に変容を続ける。

 ただ一点だけ正常な形を残して。

 その正常な形を残している先に立つのは、目立つ黄色の靴サッカニーのジャズロウプロを履いた彼女。

 彼女はシニカルな表情でこちらを見据えている。

 その表情からは、以前私に見せた少女の様に屈託のない純粋さは見受けられない。

 しかしと言うより、それだからこそと言った方がいいのかもしれないが、彼女がそのシニカルな表情で歪な世界に取り囲まれた中にある正常さを唯一保った場所に佇む姿は、妖艶さが強調されて宛ら陽炎のようであり、自分自身の甘美を理解して全身に完備したその姿は、今までに見たなによりも耽美で私は嘆美の言葉がいくつも頭を過った。

 頭を過る言葉の数々は頭の中をぐるぐると回っていて、今の彼女に丁度良い言葉をその中から見付け出そうとした。

 だがその中にあるどの言葉も、彼女を表現するには劣っている様に思えた。


 結局私は何も言わず、ただただ彼女を静観していた。

 その間にも世界は歪さを増していき、それに比例する様に彼女はより耽美を究めた。

 私はもう完全に彼女に陶酔してしまっていた。

 深く陶酔するあまり時間の感覚が曖昧になって、彼女が質問を口にしてからどれ程の時間が経過したのか分からなくなっていた。

 その間彼女はじっと私の返事を待っていた。


 何と答えるべきだろう。

 考えながら私の頭にぼんやりとしたものではあるが、何か映像が浮かぶのを感じた。

 集中してその映像をより具体的なものとして頭に思い浮かべる。

 鮮明になった映像は私が経験した事のない世界のものだった。

 その世界で私は一人の人間と愛を分かち合っていた。

 愛と言う感情。今だ知らないその感情をお互いに与えあい、受け取りあうその姿は眩しく輝いていて、とても温かく、素晴らしいものに見受けられた。

 そんなのは想像だと言われてしまうかもしれないが、それでも今見た愛に溢れた映像――愛が何たるかは知らないが――は、私を魅了して虜にするには十分すぎるものであった。


 私はこの愛が溢れる世界を生きたい。


 その衝撃が私を貫いた時、返事は決まった。

 彼女は変わらずシニカルな表情で、歪な世界に取り囲まれた中にある正常さを唯一保った場所に佇んでいて、その歪さは過剰な程に世界を侵食しており、もうこの世界の原型を留めていない。

 私がこの世界に留まる事を、世界が、彼女が良しとしていないかの様に思えた。

 だからこそ私は顔をしっかりと上げ、しっかりとした意思を持って彼女を見据えて、答えた。


「今の生活に満足などしておりません。私はもっと充実した、愛に溢れた生活を送ってみたいのです」


 言霊というものは存在しているのかもしれない。

 それを言っただけで私の気持ちは少しだけ晴れて、心持ちが軽くなった。

 いや、それだけじゃない事に私は気付いた。

 彼女を唯一の正常として形成されていた歪な世界が一瞬で元の世界に戻っており、今は世界の唯一正常な部分が私に移動した様に思えた。

 何故かと問われたら、答えはすぐに捻り出せる。

「それじゃあこちらにいらっしゃい」

 彼女が紛う事なき歪な世界の特異点であるからだ。

 私はそれを理解して何故か少し安心した。


 私の前に彼は立っていた。彼は私を見て目を輝かせたように思えた。

「お前、一人なのか?」

 そう問われて周囲を見回してみたが、彼女はどこにもおらず、確かに私は一人だった。

 返事をする暇も与えず、彼は私に手を伸ばし背中をそっと撫でた。

 始めて人に背中を触られたと意識するよりも、背中を撫でられた刹那に妙な安心感を覚える方が早かった。


 私の心に小波が立った。


 つい先程頭に浮かんだ映像――だった様に思う――を再度思い出した。

 愛を分かち合う、あの光景は今のこの状況に似ている様に思われた。

 お互いが身を寄り添い、仲睦まじく笑いあう光景。私の世界にはありえなかった光景。

 それが今突如として出現しつつあるのではないかと、それが心の小波の示すところなのではないかと、そう思うと私は彼の存在をすんなりと受け入れられた。

 彼に背中を撫でられようが首を撫でられようが、すべてを心地良く感じる自分がいる事に気付いて我ながら驚いた。

 一度でもこれを悪くないと思ってしまうと、塞き止められていた水を放流する勢いで心の中にあった自らの固定概念が流出し、新たな概念がそこに溜まっていくのを感じた。


 本来|愛玩用として飼い慣らされてきた訳ではない我々が、愛玩用として近年人間から扱いを受けている事に戸惑いを持つものが今でも少なからずいるものの、その数は極めて少なく、そして私の様に疎まれる存在として社会に位置し続ける事など稀を通り越してほぼ皆無であるのは間違いない事であった。

 しかし、その希少種であった私も今や人間に心動かされている。


 それも波及的にではなく、押し寄せる津波の様にめまぐるしいスピードによって。


 私達は九つの魂を持つと言われている――そして実際にそれは正しい――が故に、人生を繰り返す回数が増えれば増える程、環境の変化や考え方の変化に柔軟に対応出来る個体が増える。

 その方が生き延びる可能性が格段に高くなるからだ。

 しかしながら私の様に漫然と生きておきながら何故か幾度も人生を経験した個体もいる。

 理由は分からないが何故か、社会を、世界を生き延びる事が出来ているのだ。


 私は彼から目を離して考え込んでいたのだが、何故平然とこの世界で生きていけているのかと考えるに至ると頭を激しい痛みが襲った。

 理由は分からない。私が何故生き伸びているのかについて考えるのは、良くない事の様な気がする。

 虫の知らせとでも言うのだろうか、実際頭が痛んで考えるという行為自体が疎かになりつつある。もう立っていられない。


 目を閉じた。


 次に意識が戻った時、私が再び目を開ける事は無かった。

 しかし私は自身をしっかりと視界に捉えている。

 これがどういう状態なのかは分からないが、俯瞰的に彼ともはや抜け殻と化しているであろう自身を見ている。

 こんなものがあるのかどうかは分からないが幽体というものが存在するのであれば、この状況はそれに近いのではないだろうかと思われる。


 私は死んだのだろう。


 何が起こったのかはしっかりと理解出来てはいないが、彼が私を抱きしめているのを見てきっとそうなのだろうと合点がいった。

 一瞬出会っただけの私を抱きしめている彼はなんと殊勝な人間なのだろう。私は甚く感動した。

「一匹狼だったのか、お前は。あんな所に一人でいるなんて」

 彼は小声でそう言うと、私――抜け殻――を抱く手の力を強めた。

 彼の心は読めないし声から感情を読み取る事も出来ないが、その光景を見て私は感じた。

 誰かに愛されるという事は、こんなにも素晴らしい事だったのか。


 至福に包まれているはずだった。


 しかし私の心に何故か不穏で冷たく、不気味な感情の様なものが流入してくるのを感じる。

 今までに感じた事のない、暗く鬱屈とした悦楽。

 この感覚はどこからやってくるのかと考えていると、彼が上を向いて笑った。

 そして抱きしめていた彼の背中でしっかりと見えていなかった抜け殻――私――の姿が露わになると、私は愕然とした。

 抜け殻の頭はひしゃげていて欠損がひどく、故意に強い衝撃を加えられた様に見受けられた。


 一体誰が。

 まさか彼が。


 信じたくないが、笑っている彼からと思われるどす黒く歪な悦びの感情の流入は止まらない。

 私は幽体――意識とも呼べるかもしれない――こそ身体を離れているが、まだ息があるのかもしれない。だから彼からの感情の流入を感じているのかもしれない。

 正確な事は分からないので憶測の域を出ないが、これだけは確実に言える。


 私は消えるのだ。


 そう理解すると声が聞こえた。

「九つの魂の総決算に相応しいものになったかしら」彼女の声は独立した音域を確保でもしているのか、彼の耳障りな笑い声の中でもしっかりと言葉を響かせ続ける。

「君は一人じゃないわ。周りをよく見てご覧よ」


 周囲を見回すと猫の剥製がいくつも並んでいる。

 しかしそのどれもが何故か不自然で、歪で、違和感を覚えた。

 世界が歪に傾く、彼女を見た時に感じた、あの感覚が蘇った。

 歪になった世界は私の視界に猫の剥製をひとまとめにして見せつけるかの様に世界を丸くしていく。そして中心に彼と抜け殻があり、その周囲にいくつかの剥製が並び完全に世界を円に閉じた。


 そこで私は気付いた。

 全ての剥製が私なのだ。

 剥製は八体。そして今彼が抱いているものを合わせれば九体となる。

 私は幾度目の人生においても彼の手によって終わりを迎えていたのだ。

 そう悟った時、いくつかの記憶が蘇った。

 一度目の人生の時、私は飼い猫で、彼に愛されて育った。と思っていた。

 しかし彼は私に飽きた。

 彼は何度も私を路頭に置き去りにしていったが、その都度私は彼の家へと戻った。彼と別れたくなかった。

 そして彼は苛立って、私に何かをした。

 記憶は身体に残された衝撃だけで、それ以上の記憶は残っていない。

 一度目の終わりだ。


 次の二度目の魂で私はまた彼の所に戻った。

 一度目の記憶は都合よく解釈されていて彼との幸せな思い出しか残っていなかったのだ。

 昔の彼はもういなかった。彼はおかしくなっていた。一度私を殺めた事で快感を得てしまっていたのに、そんな事とは知らず、また私は魂を彼に捧げる事になった。

 それ以降私は以前の記憶を思い出す事なく魂を使った。

 しかし元々飼い猫だった故に私は土地勘が無く、毎度彼の家の近くから人生をやり直していたらしい。その都度彼は私を見付けた。

 彼が気付いてやっていた事ではなく、決められた世界の歯車の一つ。

 人間はこれを運命や縁と言うのだろう。


「いい線いってるけど、残念。ちょっと違うの。よく思い出してみて」


 彼女はそう言った。

 記憶をもう一度掘り返してみる。


 私は確かに彼の手の中で抱かれて死んでいった事があって、その記憶は私の脳内だけの出来事ではないはずなのだ。


 私の至福の瞬間。

 愛。


 あの感覚が虚構であったなら現実というのは何をもってして現実というのか。

 あれは確かに私の心を温かくする慈愛に満ち溢れていて、その時の慈愛の感情が私の中には残っているのだ。


 慈愛の感情?


 私はそこに違和感を覚えた。

 何故慈愛の感情があった事を、受動者である私が認識出来ているのだろうか。

 享受する事は出来るかもしれないが、感情そのものを認識する事は能動者しかあり得ない。

 希望的観測である可能性も考えてみるが、心を掴んで離さないこの粘っこく纏わりつく感覚があまりにも生々しく、希望的観測である可能性を真っ向から否定している様に思えた。

 能動者でないとあり得ない認識が私の中にある理由。

 私自身が能動者である可能性。

 私が彼である可能性。


 その可能性について考えだした途端、あっけなく違和感の尻尾を掴む事が出来た。

「そう。思い出したのね」

 とても簡単な事だ。


 私自身が能動者であるが故にこの記憶が生々しく残っているのだ。

 可能性ではなくそれは事実なのだ。

 つまり私であった抜け殻を抱える彼も、また私自身なのだ。


 私は私の世界で一人、ただ一人で生きていたのだ。


 私は一人でいながら一人を恐れて、自分自身に彼という存在を作り出して、それすら私で演じた。

 彼女が何者であるかは知らないが彼女の協力によって、私はこの内向きの一人の世界を一人で構成して、演出して、そして演じきろうとしていたのだ。


 あの至福の瞬間はこれから上演される私の一人芝居の初演をラストまで完璧に演じきった時を思っての高揚感と、この作品への愛であって、それは当然私の役への愛であって、彼もまた私の役でしかなく、当然私を愛する事は彼も死に逝く私も愛する事となり、作品への愛が私を包んで、円で私を包んで、円で包まれているのだから当然出発点と終着点は繋がるのだ。

 だから縁だと思ったものそれ自体も円に辿りつくのだ。


 しかし、私は最後の最後で協力者だと思っていた彼女という特異点により、作品に、私の円に歪が生じて、それを修復出来ぬまま、ただ死を死んでいくだけなのだ。

 円は途切れる事がなく一度描いてしまえばもう出発点も終着点もすべてを包括して、故にそれは無限とも受け取る事が出来る完全な形と言えよう。

 私はその完全や無限や永遠こそが美だと信じていたので、彼女という存在そのものを耽美だと思ったのだろう。私も彼女の様に完全な艶で円を終焉出来ればさぞ耽美であっただろうと思うと後悔の念が、抑鬱が、私を苛む。


 今までどこにいたのかは分からないが、不意に私――幽体――の視界に姿を現した彼女は、純粋さの欠片も残さないシニカルな表情でこちらを見ている。

 八体の私――剥製――と私――抜け殻――と私――彼――と私――幽体――の中央に立ち全てを見通している彼女は、この円の円周上ではなく円の中心にいて、それはすなわち彼女が世界の中心である事を表している事になるのであって、やはり彼女は私が抱いた予想通り、神や天使、もしくは悪魔の類なのだろう。

 私は世界の歯車にも組み込まれていない。


 私はただの猫であって、ただ死の形を表現するだけのモチーフでしかないのだ。


 それに気付いたところで、何かを出来るわけでもない。

 死を死んでいく事を繰り返すのは生きているとも死んでいるともどちらとも言えるし、どちらとも言えないのだろう。


 それは出発点と終着点を包括する円と同様である。


 彼女は円の中心で色々な私を順々に眺めていく。

 その円になった光景を見て満足したのかどうかは分からないが、もうここに用事は無いとでも言いたげに、退屈そうな声で、悪魔は囁いた。

「今の生活に満足している?」

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