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彼女を待ちながら  作者: 斉賀 朗数
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第二話 赤

 壁に掛けられた時計の短針は九の少し前で、長針は七を指している。


「先輩」


 新入社員の光がどすっと無神経な程大きな音を立て、椅子に反対向きに腰かけて話しかけてきた。

「俺ら、何の為に毎日頑張って仕事とかしてるんですかね? 毎日残業、毎週休日出勤、もう溜息も出ないですよ」

 そういいながら溜息を吐く光を見て、ふっと笑ってしまう僕はまだまだ余裕があるのだろう。それに笑うと少し疲れが和らいだような気もする。

「溜息、しっかり吐いてるよ。残りやっとくから今日はもう帰って、ゆっくり家で休みな」


 光の疲れ切った顔を見ていると、社会人としてこれから頑張って仕事をやっていこうとしている、高校を卒業したばかりの未来に期待や希望を抱いている、将来の日本を担う人材になるであろう若き芽を、そっと優しく保護するビニールハウスの役割は、未来に何の期待も希望も抱いていない僕のような人間が担うべきなのだろう。

 なんて格好をつけてみたものの、本当はただ残業代が欲しいだけなのだけど。


「それじゃあ、お言葉に甘えて。お先に失礼します」

 最近の若い子に見られる傾向なのかもしれないが、自分に都合の悪いことには難色を示し自分に都合のいいことは素直に受け止める。

 僕達の時代では考えられない事だが、その愚直さというか、利益率を純粋に求めたスタイルは嫌いじゃない。

 そんなことを考えながら、光がジャケットを羽織って鞄を手にもってこちらには一瞥もくれずにオフィスを後にしたのをぼーっと眺めていた。


「さてと」

 僕はオフィスの入口兼出口である両開きの扉から、自分の机の上に置いたデザイン資料に視線を移す。

 上部に色彩についてと書かれた資料の端にはポストイットが貼ってあり「今回のクライアントは目立つカラーリングをご所望だ」と丁寧ではあるが比較的汚い字で書かれている。


「目立つカラーリングねえ」

 呟きながら資料をぱらぱらと捲り、そんなの原色で決まりだろうと深く考えることもせずに、なんとなく、直感と勢いで決めた。

 その時ぱらぱらと捲っていた資料に色相環が描いてあるのを見付けた。ここにも原色という言葉が書いてあったので、これは直感に従うべきだなと自信を強くした。

 そうと決まれば、今作ったデザインに赤と青と黄色の三色をいい具合に配置すれば仕事が一つ片付く訳だ。


 それならまだまだ時間にも余裕があるなと思い、一旦コーヒーでも入れに行こうと席を立ったら、袖の部分に資料の端が引っ掛かり、ふぁしぱっ。ふぁしぱっさぱ。と何枚も何枚も連なって紙が机の前や下に落ちた。

 面倒だが仕事で使う資料だから拾わないわけにもいかない。やれやれと思いながらしゃがんで、机の奥の方に入り込んだ資料に伸ばした僕の手が止まった。


 机の下の隙間から見えるのは、前の机の、そしてそのまた前に続く机の下の隙間と、掃除の手が行き届いていない床だけのはずだった。


 しかし、二つ前の机のその隙間の奥に、黒いアウトソールに白のミッドソール。

 アッパー部分は目に飛び込んでくるようなどぎつい赤で、サイドに白で縁取りされた印象的だが他の多くのモデルに比べると少し小さいアルファベットのNの文字と、一五〇〇という数字が付いていて、その丁度中間地点からつまさき方向に進みシューホールの一番つま先側付近でほぼ九十度に曲がった黒いラインが入った靴。ニューバランスの一五〇〇が見えた。


 見えたのが靴だけならよかったのだがその靴は誰かが履いているものだった。

 もうこのオフィスには僕しかいないはずなのに。

 背中の表面を汗がつるりと流れ落ちる感覚が、恐ろしいほど鋭敏に肌の神経を刺激する。


 ここからすぐに逃げた方がいいのか?

 それともこういう場合は気付かない風を装った方がいいのか?

 もしくはこの人間が誰か確認した方がいいのか?

 もしかすると人間じゃなくて幽霊なのか?


 どうしたものかと思い悩んでいると、ニューバランスの一五〇〇のつま先がこちらを向いた。

「今の生活に満足している?」若い女性というよりは少女のようなかわいらしい声は続ける。

「明日、また、同じ時間に来るから、考えておいてね」

 僕の答えなんて最初から聞く気がなかったみたいに、ニューバランスの一五〇〇は向きを変える。


「ちょっと待って」


 部屋に大きな音が響く。

 急いで机から抜け出ようとしたせいで、後頭部をしたたかに打ち付けた。

 視界がぼやけるくらいの勢いで打ち付けた為、目に涙が溜まったがなんとか机から抜け出し、先程まで声の主がいた場所に視線を向ける。だが、すでにそこには誰もいなかった。

 彼女が立っていた場所に移動してみたが、そこには彼女の気配を感じるものは何もなかった。


 僕は夢を見ているのかもしれない。


 そう思い、ベタではあるが頬をつねってみる。

 さきほど後頭部を机に打ち付けた程ではないが、痛みがぎゅるりと熱をもって伝わってくる。というより、さっき頭を打ち付けた時に痛みは感じていたんだから、その時点で夢ではなかったと気付くべきだった。

 無駄に痛い思いをしただけじゃないか。

 そんなことを考えている内に緊張感が薄れてきたのか、彼女の声をもう忘れそうになっていた。


 本当についさっきの出来事だというのに彼女の存在はとても希薄で、意識していなければすぐに忘れてしまうような夢の住人であるような気がした。

 いい大人が何を言っているんだと笑われるかもしれないが、彼女を見たらきっとすべての人がそう思うはずだ。

 そうは言っても、僕が見たのは彼女が履いていた靴、ニューバランスの一五〇〇だけなのだけど。

 壁に掛けられた時計の短針と長針は九の上でちょうど重なっていた。


 雨風が窓を叩く音が意外に大きく、僕は目を覚ました。


 昨日の夜、彼女が姿を消してから色々と考えてみたのだが、彼女が何者なのか全く想像がつかないでいた。

 仕事も全く手につかず、光には悪いと思ったがなんの進展もないまま作業を放置して会社を後にしたのだった。


 彼女自信の希薄さとは裏腹に「今の生活に満足している?」といった彼女の言葉が耳にこびりついて離れない。

「今の生活に満足している?」というフレーズはどこかで聞き覚えがある言葉だった。

 僕は自分でもどうしてそうしたのか分からないが、出勤前で時間があまりないにもかかわらず、インターネットでその言葉を検索してみた。すると思いの外、多くのサイトがヒットした。

 その中の一つをクリックしてみるとそこには、訳の分からない文章が書かれていた。


 「今の生活に満足している?」

 そう質問してくる女性の存在を御存知でしょうか?

 彼女はあの時こうしていれば。

 あの時こうしていたら。

 そんなやり直したい過去がある人のところに彼女はやってきます。

 彼女に出会う方法がいくつかあると言われていますが、それはどれも定かな情報ではありませんので、ここでは割愛させてもらいます。

 しかし、これだけは言えます。

 彼女には人の心を読み取る能力があるのです。だから、やり直したいという強い気持ちを持っていると必ずあなたのところにもやってくる事でしょう。

 ただリスクがない訳ではありません。

 過去をやり直した先が今より幸せだとは限りません。

 当然、今より不幸で、辛い現実に向き合わなければならない可能性がある事を肝に銘じておいて下さい。

 そして、もう一点。

 彼女の質問に、今の生活に満足していると答えた場合。

 勝手に現れておいて理不尽だと思うかもしれませんが、彼女はあなたをこことは違うところへ連れていってしまいます。

 それがどこかは分かりません。何故なら、そこに行った人にはもう誰も会えないのだから。


 いやいや、こんなの都市伝説とも呼べない。

 そんな馬鹿らしい内容に辟易として、見ていたサイトを閉じた。

 そんな質問に答えるだけで過去をやり直せるなら苦労はしない。

 過去をやり直す。その言葉で、不意に、普段の生活から色がなくなり、世界がモノクロームのように味気ないものに感じられるようになった、あの時を思い出す。

 いや、思い出した訳じゃない。

 いつも心に、歯の隙間にものが詰まった時の様に、いやな引っ掛かり方をしていたが思い出さないようにしていただけの事。

 その記憶が急に引っ張り出された。


 物心ついた時には両親は離婚しており、母はいつも仕事に勤しんでいて遊んでもらえず寂しい思いをした。

 小学生になるとその悲しみは不満に変わり、中学生になるとその不満は嫌悪に変わり、高校生になるとその嫌悪は軽蔑に変わった。

 その頃には母が僕に貧しい思いをさせない為に一生懸命仕事に勤しみ、自分の心身を削っていた事に気付いていたのに、思春期のせいか今更それを認めるのも恥ずかしく、僕はそのまま母を軽蔑し続けた。


 そして、その日が訪れたのだ。

 いつものように母が出勤前に作ってくれた朝食を二人で囲むこともせず、いってきますという母の声を自分の部屋で聞いてからリビングに降りた。

 母は僕の分の朝食が乗ったお皿にラップをしてテーブルの上に置いていた。メニューは目玉焼きにウインナー、少しのポテトサラダ、レタスとトマトのシンプルなサラダに食パンという簡素なものだった。

 それには手を付けず僕はリビングのソファにどっかと大きな音を立てて座ると、ローテーブルの上のリモコンを手に取りテレビの電源を入れた。

 見るともなくテレビを見ながら、今日は学校をさぼることを決めて、前日眠りにつくのが遅かったので、そのままうとうととしていた。


 何分、何時間経ったのか分からないが、電話のコール音で目が覚めた。

 面倒なので取らないでいたが、コール音が思いの外長いので、気になって電話に目を向けた。

 携帯電話が十分に普及していた為に、最近では滅多に光る事がない、留守番電話のボタン。それがぱかぱかと点滅を繰り返しているのが見えた。

 コール音はまだ鳴っている。

 なにか嫌な予感がして、普段なら絶対に出ないであろう電話に出た。


 電話は警察からだった。母は家からあまり遠くない最寄駅付近の幹線道路の横断歩道を渡っているところで、車に轢かれたらしかった。

 即死だったらしい。

 血溜まりのイメージが頭をよぎる。

 鮮血の赤が頭から離れない。

 警察に車の運転手も搬送先の病院で死亡したと告げられた。

 僕は怒りの矛先をどこに向ければいいのか。

 僕は自分の気持ちに蓋をしていたが、母を愛していたことをこの時しっかりと確信した。


 しかし、もう遅かった。


 母が作ってくれた朝食はまだテーブルの上に載っていて、僕はそれから目を離すことが出来ずにいた。

 気付くと家には親戚達が集まってなにやらいっていたが、僕は彼らの会話など耳に入らず、ただテーブルの上の朝食をじっと見ていた。

 自分から距離を置いておきながら、わがままだと分かっているが、僕は母からの愛を、母と過ごす時間を、母との会話を、もっと、もっと、欲していたのだ。


 気付いた時には僕は親戚の家の近くにある安アパートで一人暮らしをすることになった。

 親戚は僕の事をかわいそうだと思ってはいたようだが、自分たちの生活に他人が入り込むのを良しとはしなかったのだろう。

 僕としても他人に干渉されずに済むので気にはしなかったが。

 なんにしろ僕は母が残してくれたお金で暮らすことになった。

 この頃からだろう、僕はお金に母の影を見出すようになった。

 母が僕に残してくれたものがお金しかなかったからだろう。


 その結果僕は高校を中退し、目につくものは片端から面接を受け、すぐに社会に出た。

 お金を自分の手で稼ぐようになると、やはり母の影だけでは物足りず、次はただただ母からの愛を求めた。しかし母からの愛を求めようとも母はいないので、付き合う女性たちにその愛を求めたが結果は明白だった。

 当然そこにある愛は別物であり、僕は短期間で何度も女性たちと付き合い、そして別れる事を繰り返すことになった。

 そのうち一人の女性が別れ際に「私にお母さんの影を求めるのはやめて」といった。


 僕は母に否定されたような気がした。


 その言葉を聞いて、愛を求める事は諦めようと思った。

 もう僕の求めるものはこの世界では手に入らないのだと。

 僕は一人静かに泣いた。

 母の死から八年が経って、やっと母の死を理解した気がした。


 そうして味気ないわりに平坦な、モノクロームの世界が始まった。

 だが諦めたつもりでも、無意識では母の影を追う事を止められないのだろう。

 僕は残業を繰り返し、お金を只管貯め続けている。

 当然今の生活に満足はしていないというのが僕の見解だ。

 実際今の生活に満足だという人間が日本に何人いるというのだろうか?

 ブランド物の服が欲しい。最新モデルの家電が欲しい。スポーツカーが欲しい。お金が欲しい。


 愛が欲しい。


 結局そんな人間たちばかりなのではないか?

 そんな現代において「今の生活に満足している?」と問うてくる彼女には何の意図があるのだろうか?

 今ここで考えても仕方がない。今夜彼女に会えばその答えが分かるはずだ。

 僕はベッドを出た。


 放置してきた仕事は案外早くに片付いた。

 昨夜は彼女の事が気になっていたので仕事が手につかなかったが、今彼女の事を考えても仕方がないと思ったら、本来の仕事のペースに戻ることが出来た。

 光には嫌な顔をされたが、以前から何度も光の手助けをしていたこともあり、しぶしぶではあるが手伝ってくれた。仕事は遅いがミスの少ない光の手伝いも少しは役に立った。


「すまないね、昨日は先に帰っていいといっておきながら、この体たらくで」

「いいですよ、本来僕も残って片付けないといけないものだったはずですし。でも、先輩にしては珍しいですね。残業して次の日に仕事残してるって」

「ちょっと気になることがあってね」

 光は、気になることですか。と不思議そうに言葉を繰り返したが、僕が返事をしないのを見ると、特に気にする素振りもなく自分の机に向かった。


 その後はいつも通りに仕事をこなして、昨日と同じ時間になるのを待った。

 昨日と同じ時間までオフィスにいなければならないので、仕事のペースはいつもより遅めにしているが、そんな事はきっと誰も気付いていないだろう。

 夕方の五時になり、定時で退社していく社員が半数を占める中、残業代目当てだったり、単純に仕事のペースが遅く作業が終わっていない者がまだオフィス内にはぽつぽつと残っている。

 残業代がしっかり出るんだから比較的いい会社だ。

 ただ僕たちの事を考えずに仕事を受注する馬鹿な営業のせいで休日にも出勤が多いのが難点だとはいえるなとパソコンに向かっている振りをして、今更ながら自分の会社の事を思ったり、昼に行った定食屋のからあげが美味しかった事を思い出したり、彼女はいつどのタイミングでオフィスに入ってきて、どうやって素早くオフィスから出て行ったのだろうかと思索したりして時間を過ごした。


 その間にも社員は一人、また一人とオフィスを出て行く。

「先輩、お先失礼しますね」

「お疲れさま、気を付けてな」

 今日も遅くまで残っていた光が、やっと仕事を終えたようで、疲れた表情のまま、今日もこちらには一瞥もくれずにオフィスを後にした。

 今日も僕以外の人間でこの時間まで残っていたのは光だけのようだ。

 丁寧な仕事をするのはいいことだが、もう少しスピードをあげることも覚えた方がいいだろう。毎日この時間まで気を張って仕事をし続けるのも大変だ。

 僕のように残業代が欲しくてだらだら仕事をしているなら疲れも少ないとは思うが。


 それはともあれ、オフィスは僕一人だけになった。

 壁に掛けられた時計の短針は九の少し前で、長針は八を指している。

 昨日彼女が現れたのは、だいたいこれくらいの時間だったはずだ。

 僕はオフィスの入り口兼出口である両開きの扉に視線を向けた。


 まだ現れない。


 まだ。まだ。

 壁に掛けられた時計に目を向けると、長針の位置は九を少し超えたあたりだ。

 待つという行為をしていると時間の流れがひどく遅く感じられる。

 そして再び、オフィスの扉に目をやった。


 その時、廊下に人の影がゆうるりと動くのが見えた。


 鼓動が早くなる。

 昨日は突然現れたように感じたが、やはり気付いてなかっただけで、彼女は普通に扉から入ってきたのだろう。その影は僕がいるオフィスの方に近づいてきた。


 しかし、その人物は彼女ではなかった。


「おお。今日もまた残っとんのかい?」僕の返事を聞くよりも早く彼は言う。

「相変わらず家にも帰らず、残業代をせしめとる訳か」

 現れたのは警備員の内藤さんだった。

「そんな言い方止してくださいよ」

 そう答えると、内藤さんは嬉しそうに、歯が見えるくらい、にっとした表情で肩を上下に揺らしながらひっひっひと下品に笑った。この人は本当に楽しそうに笑うので僕は嫌いじゃない。


 いつのことだったか、僕が残業代を多くもらうことに味を占めて、残業を繰り返していた時に声をかけられた。

 なんと声をかけられたのかは覚えていないが、気付けばそれなりに話をする仲になっていた。


「そろそろ伴侶でも作らんと、いつまで経っても独り身は辛いぞ。俺みたいな生活でもいいなら無理強いはせんけどな。おっと、今日はまだ掃除せにゃならんところがあるから、失礼するよ。また残業中に会おうや。じゃあな」

 内藤さんは僕の返事を待たずにさっさとオフィスを後にした。

 この年代の人には、一人で喋って一人で完結するタイプの人間が多いのかもしれない。昔いた会社でも、ここの会社でも、同じ年代の上司にそういった人間が数人いた。

 時代というものは、多少なり性格や人格にも影響を与えるのかもしれない。


「そんな訳ないでしょ」


 その瞬間は突然訪れた。

 若い女性というよりは少女のような、あのかわいらしい声がした。

 声のした方に顔を向けると、いつからそこにいたのかわからないが、一人の女性が隣の机に腰かけていた。

 僕はさっと足元を見た。

 黒いアウトソールに白のミッドソール。

 アッパー部分は目に飛び込んでくるようなどぎつい赤で、サイドに白で縁取りされた印象的だが他の多くのモデルに比べると少し小さいアルファベットのNの文字と一五〇〇という数字が付いていて、その丁度中間地点からつまさき方向に進みシューホールの一番つま先側付近でほぼ九十度に曲がった黒いラインが入った靴。

 ニューバランスの一五〇〇を履いているこの女性こそ、昨日の彼女で間違いないだろう。

 

 彼女は、少しゆったりとしたシルエットのハイウエストのデニム、多分ボーイフレンドデニムと思われるそれを太めにロールアップして、アンクルソックスというのだろうか、くるぶしより少し上までの長さの白い靴下が見えるように履いている。

 トップスは白で胸元にポケットが付いたTシャツをデニムにインして茶色のベルトが見えるようにしており、それがいいアクセントになっている。

 黒色の細いフレームをした丸眼鏡で、髪の毛を頭の上部でお団子にして茶色のヘアバンドという出で立ちは、一見すると少女のようにも見える。

 しかし彼女の顔を見ると、思いの外大人びた顔立ちをしており、その服装が大人の女性のお洒落なカジュアルスタイル然とした印象だと訂正しておこう。


 そんな探るような視線に気付いてか、彼女は顔をしかめて嫌そうな声でいった。

「じろじろ見ないでよ。変態なの?」

 いきなり変態扱いされるとは思ってもみなかった。

 確かに彼女が現れた事で僕は少し興奮していた。しかし、この興奮は決して性的な興奮という訳ではないので断固として否定する。

「心外ですね。身なりだって普通でしょ?」そう言ったものの彼女の反応がないので、僕は別の質問を口にする。

「それはいいとして、あなた、いつからそこにいるんですか? どこから入って来たんですか?」

 彼女は嫌そうな表情を隠そうともせずに言う。

「そんな事どうだっていいでしょ」そして表情から一層嫌そうな雰囲気を漂わせて言う。

「それより、昨日の質問の答えは決まった? なにか気になる事とかあったら、質問してくれたら答えるけど。でも仕様もない質問をするなら今と同じで答えないから」


 今までの質問が仕様もないっていうのは少し心外ではあるが、とりあえずその事については受け流す事にした。

 僕は昨日から気になっていた、この質問の意図について問うてみようと思う。

 彼女が当初尋ねてきた「今の生活に満足している?」という質問への答えはもう決まっているので、なんとなく彼女との会話を楽しんでみるのも悪くないかもしれないと思い立ったのだ。


 これが最後の会話になる可能性だってあるだろうから。


 彼女の存在は今こうして目の前にしてみてもやはりどこか希薄で、そんな不思議な要素を持っている彼女に、少し、いや、多大に興味が湧いてきたというのも一因である。


 それでは彼女に「今の生活に満足している?」という質問の意図を問おう。と思ったのだが、もしかするとこの思考を彼女はすでに読み取っているのかもという可能性が浮かんだ。

 僕はわざわざ彼女に今思った事を口で告げる必要なんて無いのかもしれない。

 何故なら先程彼女は、僕が心の中で思っていた考えに、僕が口に出していないにも関わらず、コメントをしてきた。

 そんな事が出来る人間がいるのかどうかは分からないが、絶対にいないと言い切れるだけの証拠なんてなにもない。


 僕は彼女の存在をどう解釈するべきなのだろう。

 考え込んでいて下に向けていた視線を、上に向けて彼女の顔色を窺おうとした時、彼女がシニカルな表情を見せて僕はぞっとした。

 やはり彼女は僕の思考を読み取っているのではないか。と思うと同時に今朝見たサイトの話を思い出した。

 オカルトなんて僕は信じていない。

 しかし、それを目の当たりにした時に信じないでいられる程、自分自身に強い自信がある訳ではない。


 僕は揺らいだ。心が。


 彼女はそれを感じ取っているのか、シニカルな表情を顔にへばりつけたまま、こちらから目を離さないでいる。

 そして僕もまた、その長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いて強い目力を持つ彼女の目から視線を逸らす事が出来ずにいた。

 そんな僕に呆れたのかどうか、彼女と違い僕は思考が読み取れる訳がないので分からないが、彼女は口を開いた。

「その質問も仕様もない事。一応、通過儀礼みたいなものだから聞いておくわね」有無を言わさぬように、そして、わざと不快感を与えるような、ねちっこい纏わりつく声色を作り言う。

「今の生活に満足している?」


 いってきますという母の声を聞いて、僕は部屋を飛び出した。

 今ならまだ間に合う。

 僕は階段を降りて、廊下を進み、玄関を開けた。

 母が見えたが、道の角で曲がってすぐにその姿は見えなくなった。

 靴を履く事すらせずに僕は玄関から外へと飛び出した。


 刹那、激しい痛みに襲われ視界が真っ白になったのを認知し始めた途端、目の前に突如壁が現れて僕はそこにぶつかった。

 状況がよく分からない。


 いや、今理解した。


 これは壁じゃない。地面だ。

 そして僕の視界の先には、その地面を這いずる鮮血が見える。

 鮮血は緩慢な動きで必死に地面の上を進んでいたのだが、何かがその進路を妨害するかの如く立ち塞がる。

 それは誰かの足で、誰かの靴で、誰かのニューバランスの一五〇〇で、僕はその人物を知っている。

 なんとなく予想はしたが、やはりその通りで、彼女はシニカルな表情を浮かべてこちらを見ている。


 僕は笑った。


 当然、皮肉を込めて。

「こんなのひどくないですか?」

 彼女はそんな僕に負けず劣らず皮肉を込めて言う。

「今の生活に満足している?」

 僕は笑った。

 次は皮肉とかそういったものは抜きで、本気でおかしいと思い笑った。

 今この状況で誰が満足していると言えるだろう。

 なかなかブラックジョークが過ぎるな。と僕は遠くなる意識の中で思った。

 そして笑ったつもりでいたが、実際は声になっていなかったその笑いは完全に地面に溶け込んで、僕自身も地面の冷たさが気にならなくなる程に体温が下がり、身体の感覚が少しずつ空中に蒸発していくのを感じた。


 僕は死ぬのか。


 自分の境遇を理解した時、やはり母を救えなかった惨めな自分に落胆し、後悔と抑鬱を深めて、以前よりも深く重く強い自責の念を抱いた。

 結局人生をやり直したところで何も変わらないのかも知れない。

 背負うべき自らの罪というものは一生背負い続けて生きていくのが、人間なのだろう。その罪を背負えないものは、その重さに負けて潰されて死んでいく。

 それが世の流れというものか。

 彼女は不敵な笑みを浮かべて死にいく僕の姿を眺めている。

 僕はそんな彼女の姿を見て、もう一度やり直せるなら。と思った。

 すると彼女は言った。

「それじゃあ、こちらにいらっしゃい」

 僕の耳に彼女の声が歪んで響く。


 いってきますという母の声を自分の部屋で聞いてからリビングに降りた。彼女が見ている。母は僕の分の朝食が乗ったお皿にラップをしてテーブルの上に置いていた。彼女が見ている。メニューは目玉焼きにウインナー、少しのポテトサラダ、レタスとトマトのシンプルなサラダに食パンという簡素なものだった。彼女が見ている。


 それには手を付けず僕は彼女を見る。


 一体彼女は何者なのだろう? いや、僕は彼女の事を知っているような、そんな気がする。

 彼女は誰だ。

 思い出せ。

 思い出せない。

 そう自問している間にも、彼女はシニカルな表情を浮かべて口を動かしている。

 別に読唇術を心得ている訳ではないが、何と言っているのかなぜだか分かる気がする。

 きっと彼女はこう言っているはずだ。

「今の生活に満足している?」

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