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彼女を待ちながら  作者: 斉賀 朗数
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第七話(第零話)白

『あなたは何者なの? 彼女はシニカルな表情を浮かべたまま、質問には答えずに、逆に私に問うた。今の生活に満足している?』

「とりあえず一話目は、こんな感じでいいか」

 僕はそう言って、ノートパソコンに打ち込んだ文章を保存する。


 小説を書くなんていつ振りだろう。

 高校を卒業して大学には入らず就職する道を選んで、ある程度お金が貯まった時に一度同人誌を出した事があったが、それが何年前の事かすらもう覚えていない。

「あれ以来、一度も書いていなかったのか」

 昔の記憶を蘇らせて、しみじみと物思いに耽っていると、娘の泣き声が聞こえた。

「あっ、起きた」

 娘が目を覚ましたみたいだ。

 僕は娘が眠る布団に向かう。向かうと言っても、1LDKのこの家では隣の部屋に移動するだけなのだが。

 娘は嫌な夢でも見たのか、掛け布団を剥いで、その場に座り込んで泣いていた。そんな娘を抱っこして背中を軽くとんとんと叩きながら言う。

「大丈夫。パパがいるよ。もう一回寝んねしようね」

 娘は最初の内、もぞもぞと身体をくねらせて僕から逃げる様に動いていたが、次第に落ち着きを取り戻して、もう一度目を閉じ眠りに就いた。


 娘は最近よく夜中に目を覚ます。

 夜泣きの時期はとうに過ぎたものだと思っていたが、周期的に何度もやってくるものなのかもしれないな。と思いながら、ずっしりと重たさが腰に響くまでになった娘の成長を感じていた。

 娘が産まれてから、まだ一年半。いや、もう一年半と言った方がしっくりくるか。

 その間娘には、辛い思いを何度も何度もさせてしまったなと申し訳なく思っている。


 仕事柄、僕も妻も夜勤があるので、どちらかが娘と過ごして、どちらかが仕事をするというパターンの日が月に数回はあった。当然日勤の日もあるので、保育園に預けているとほぼ丸一日娘と顔を合わせない事もある。

 こんな生活は子どもからするとストレスだったりしないのだろうか。

 そんな話を妻とした事もあったが、僕自身給料が多い訳ではないので、妻と娘二人をしっかりと養っていける自信がなかった為に、結局今の生活を続ける事になっている。

 僕が子どもの頃にはいつも近くに誰か家族がいてくれたものだった。そして、それが普通の事だった。

 でも今は我が家の様に両親が共働きで、子どもは保育園や幼稚園に預けて、家族の時間が少ない家庭が増えているらしい。それに伴ってかは分からないが、日本は夜更かしの子どもがとても多いと言う話を聞いた事もある。

 家族の時間を作ろうと思うと、必然的に夜になってしまう。仕方がないのかもしれないが、それも子どもにとっては良いとは言い難いと僕は思う。

 子どもにとって睡眠も大切なものだと知っているからだ。

 寝る子は育つ。

 昔からある言葉だが、それは紛れも無い事実だ。

 家族との時間。

 子どもの成長。

 どちらも無下には出来ない。

 家庭と仕事の両立は、現代の日本社会が抱える大きな問題の一つだと、僕は思っている。


 そんな事を考えながらも何の解決策も見出せないまま、眠った娘を布団の上にそっと戻して、掛け布団を被せた。

 静かな寝息が部屋の空気を微かに振動させて、娘の存在を強く主張している様に思えた。

 僕はそんな娘の頬に自分の頬を当てて、その温かさを受け取ってみる。

 僕が娘を愛する気持ちが少しでも伝わったらいいな。と思いながら、当てていた頬をそっと離してリビングに戻った。


 一度は終わりにしようと思って閉じたノートパソコンを、僕は何故か再び開いている。

 どうしてなのか僕の頭には彼女という人物の物語がいくつも浮かんできていて、それを文章に起こさなければ気が済まなくなってきている事に気付いた。

 心の中に薄い膜のようなもので包まれた彼女というものの核があるのではないかと疑いたくなるほど、僕は自らが作り出した彼女に魅了されながら、彼女に近付きたい、果ては彼女になりたいと思い出していた。そんな意味の分からない思考に陥ってしまうのは、慣れない執筆作業の所為であって、きっと先程まで書いていた作品に深くのめり込み過ぎてしまったからだろうと無理矢理に自分に言い聞かせる。

 それでも僕の中にある薄い膜に包まれた彼女の核は、小さくではあるが確実に鼓動を打ち続けていた。

 それに気付いていながらも僕は心の中に、森の奥深く自然の発する音だけしか聞こえない荘厳で静謐な空間を思い浮かべてそこに飛翔し、その空間の中にその核を置く事でどうにかその鼓動を静謐の一部として取り扱おうと努めた。

 努力は報われると誰かが言っていたのだ。それがどの程度無謀な事に対してまで有効なのかは、僕ではなく神が慮るところなのだろう。僕はただ一心不乱に1LDKの部屋の中でノートパソコンのキーボードを叩き続ける。


 机の上のノートパソコンの画面には、もう少しで書き終わる『彼女を待ちながら』の二話目がその暗い内容とは違い、朝日のきらきらとした光を受けて明るく映し出されている。

 一話目を書き終えてから、二日しか経っていない――昨日が仕事だった事を考えると実質一日分より少ない作業量だ――が、書き残しているのは最後の繰り返した世界での、男と彼女のやりとりの部分のみとなっている。


「ろうちゃん。今日、用事ある?」

 妻が言った。

「いや、特にないけど」僕はノートパソコンから目を離して、妻の顔を見ながら答える。

「どうかした?」

 妻はちょっと申し訳なさそうな顔をして、携帯の画面を僕の方に向ける。そこには職場の同期からのメッセージが表示されていた。

 夜勤のある人間なら分かるかもしれないが、夜勤明けにそのまま飲みに行く事が多々ある。

 今日妻は休みなのだが、久し振りに同期が全員集まれるから来ないかという旨が書かれていた。


「なるほど、飲み会ね」僕はノートパソコンに目を向けて言う。

「いいよ。行っておいでよ。たまには息抜きだって必要だろうしね」

「怒ってない?」

 妻は様子を窺う様に、僕の顔を覗き込んでくる。

 確かにこのタイミングでノートパソコンに目を向けたら、怒っている様に思われても仕方がない。でも、実際に僕は怒っていなかったので、妻をもう一度見て言う。

「行っておいで。大丈夫。本当に怒ってないから」

 笑顔を作るのは苦手だが、こんな時に笑顔を作らないでいつ作るんだ。

 僕はにこりと笑った、つもりだ。

 そんな僕を見て妻は言った。

「相変わらず、笑顔が下手ね」

「昔からよく言われたけど、こればっかりは仕方ないだろ」

 そう言って気恥ずかしくなったので、僕は再びノートパソコンに目を向け執筆を続ける。


 娘が「ママ、ママ」と繰り返し妻を呼んでいるのが可愛らしいのだが、僕はその娘の姿を見ていても、やはり上手に笑えないのが自分自身で分かってしまう。それくらい僕は昔から笑うという行為が苦手だ。

 それに引き替え、妻はよく笑うし笑顔はしっかりと笑顔として成り立っている。こんな事が本当に関係しているのかどうかは分からないが、人間は自分に無いものを求めるという性質があると聞いた事がある。

 僕はこの笑顔と言う花の蜜を求めて飛ぶ虫の様に、妻から笑顔という良い部分を奪い去り自分のものにしたいのではないだろうかと偶に考える事がある。

 笑顔なんて奪えるものではないはずなのに、僕は何年もその笑顔を見る度にそんな妄想をし続けている。


 頭では別の事を考えているのに、何故か執筆を進める手は止まる事なくキーボードを叩き続けている。

 別の事に気を取られていてなかなかキーボードを叩く指が動かない、と言うのはよくある事だが、何故か今は自然にと言うより自分の意志とは無関係に『彼女を待ちながら』を書かなければならないという、強迫観念にも似た気持ちが迫り上がってきていた。

 それは社会的な体裁としての家庭や育児、仕事に留まらず、人間の本能としての食事や睡眠、排泄といった常識的に考えて優先度の高いものを既成概念に囚われずに、それどころか真逆の概念を正当化させようとする暴力的な思想を持ち合わせていて、まるでアマゾン川を勢いよく逆流していくポロロッカと比較してもおかしくないものの様に思えた。

 つまり僕は今、完全にその気持ちから逆らえない状態にあるのだ。構想上では七話に纏められた、この一つの物語に。


「おーい、ろうちゃん。聞いてる?」

 妻の声を聞いて、僕は我に返った。

「どうしたの?」

 そう尋ねながら妻を見ると、さっきから何回も声をかけているのにどうして返事をしないのと僕の顔に、顔を近付けて妻が言った。

 僕はすっかり思考の迷路に迷い込んでしまい、現代社会の中で迷子になっていたのだろう。それは少し大袈裟な表現だったかもしれないが、つまりは心というもの、意識というものが、どこか別の所であり別の次元へと放浪していたのだ。


 ごめんごめんと言う僕の謝罪を肯定も否定もしないで、妻はとりあえず話を続けた。

「どこまで聞いてたか知らないけど、みっちゃんのお昼ご飯は冷蔵庫にあるから、鍋のまま温めて食べさせてあげてね。あんかけになってて冷めにくいかもしれないから、しっかり冷ましてね。分かった?」

 了解と僕は言ったものの、先程上の空だった僕の態度の所為なのか、妻は心配した顔をしている。

 大丈夫大丈夫と付け加えるがそれが逆に不安を煽ったのか、本当に大丈夫かと尋ねてきた。

 僕だって何度も娘のご飯を作っているし、何度もご飯をあげているのだから、何がそんなに心配なのかが理解出来ない。

 そんな不満の感情が顔に出てしまっていたのかどうかは分からないが、妻は僕を見て首を横に振ってから言った。

「みっちゃんのご飯の事じゃなくて、ろうちゃんの方が大丈夫? なんだか疲れた顔してるけど」

 そんなに疲れている実感はないのになと思いながら、窓ガラスに薄く反射して映る顔を見る。


 そこに映っていたのは、生気が抜けてどこに焦点が合っているのか分からない程に眼窩が落ち窪んでいる様に見え、如何にも不健康ですと主張する隈が目の下にびっしりと蔓延っている顔であった。


 その顔は、誰か分からない、僕自身が知らない僕だった。

 僕は軽く首を振ってから立ち上がり、妻の横を通って脱衣所にある洗面台の前へ向かう。

 蛇口のレバーを上げて――今時、捻るタイプの蛇口はあまり見ない――水を勢いよく出すとそれを手で掬う。

 冬のひんやりと言うよりは、肌にある細かな穴という穴に針が通る様なするどい冷たさが突き刺さる。

 その水で顔を洗うと皮膚がきゅっと縮み上がり、顔全体の神経に緊張感を与えた。

 僕は目の前の鏡を見る。突き刺さる様な冷たさの所為か、若干青白い肌と紫に近い唇が映し出されている。

 先程窓ガラスに映った僕自身――あれは本当に僕自身であったのだろうか――に比べると、幾分ましになった様に思うのは、鏡に映るその姿を僕自身が僕自身だとちゃんと認識出来るものであったからだろう。


 妻は、何も言わずにリビングを後にして洗面台で顔を洗った後に鏡で自分の顔を確認する僕の後ろに付いてきて、不安げな表情を鏡の向こうに作り出すと言った。

「今日、やっぱり行くの止めといた方がいい?」

「大丈夫だから行っといでよ」

 直接妻の顔を見ると余計な事を言ってしまいそうな気がしたので、間に鏡を挟む事で僕はその余計な言葉というやつを言わずに済んだ。

 鏡に映る世界はテレビに映る戦争やテロの映像と同様に、事実であっても虚構めいて見えるから、僕は鏡越しに会話が出来る洗面台前に移動した自分自身を褒めたくなった。

 妻は僕が言わなかった言葉の存在に気付いているのか気付いていないのか分からないが、それじゃあ行くねと小さな声で言うと僕と目も合わさずにリビングへと戻った。

 そんな妻を呼ぶ、娘のママ、ママと言う声が、今は何故か少し騒がしく、やたらと耳に残った。


 僕はもう一度手に水を掬うと、鏡にそれをかけてみた。すると水の多くは勢いよく洗面台に落ちていき、どべしゃっぷと普段聞き慣れない音を立てると周囲に分裂した小さなまとまりの幾つかに分かれ、その分かれた幾つかのまとまりの中の更に幾つかが壁や床でぴっちゃぷと惨めな音を立てる。

 一方鏡に目をやると、そこにもまだ少しの水が付着している。

 鏡は先程までとは違う様相で、こちらの世界を映していた。

 鏡に映る世界は水と鏡に差し込む光をお互いが反射しあって、そこにある像をゆがめていた。

 僕はそこに現れた歪な世界を見ながら思った。


 この世界に直接作用する様な大きな衝撃を与えなくても、表面に少しの異物を加える細やかな変化だけで世界は著しく体系を変化させるのだなと、壮大な考えに発展させていると、鏡に付いた水の中の世界に彼女が立っていた。

 僕はびちゃびちゃに濡れた顔をゆっくりと後ろに向けるが、そこには誰もいない。見間違いだ。

 彼女は僕自身が小説の中に作り出したキャラクターであって、実在している訳などないと自らに言い聞かせる。

 小説の事について脳の大半を使い過ぎているのかも知れない。

 僕は濡れた顔を洗面台の下の取っ手にぶら下げた緑色のストライプが入ったフェイスタオルで拭いて、そのタオルで鏡と壁や床に飛び散った水もさっと拭くと、そのタオルを直接洗濯機の中に放り込んだ。

 全ての水を拭き取った事で、鏡に映っていた世界と現実の僕が住む世界の境界は消失した。

 それで何故か安心感を覚えた僕は、鏡に向かって苦手な笑顔を作ってみせたが、やはりそこに映るのは下手くそな笑顔で、再度僕は、妻の笑顔を奪う妄想をしながら、平常通りの表情で妻と娘がいるリビングへと足を向けた。


 妻は娘を抱っこして笑い、娘はそれに喜んで、ぎゃはぎゃはと大袈裟な笑い声を上げている。

 僕はその幸せな家庭の円の中で一人だけ歪に笑っているので、どうにか家族に溶け込もうとしている道化の様な気がしてきたが、どうにかその負の感情を飲み下して、家族と言う円を綺麗な形で保とうと努力する。

 妻が抱っこしていた娘を床に降ろしたので、僕は娘に言った。

「みっちゃん。ママ、今日はお友達とご飯行くから、パパと二人ね。良い子でいれるひとー?」

「はーい」

 そう言われた娘はどれだけ僕が言った事を理解しているのかは分からないが、右手を挙げて返事をした。

「賢いねー、みっちゃん」

 妻が娘の頭を撫でるので、僕も真似して娘の頭を撫でる。娘は無邪気に足をばたばたとさせて喜びを表現していて、小さな内から上手に笑うものだなと妙に感心していた。

 僕が娘を見ているから大丈夫だと思ったのか妻は脱衣所の方に移動した。きっと化粧をしているのだろう。


 僕はその間娘と共に戯れていたのだが、どうしてもテーブルの上に置いたスクリーンセーバーが起動したノートパソコンの画面にちらちらと視線をやってしまう。

 僕はどうしたのだろうか。久し振りに小説を書き始めてから――小説全般と言うよりは『彼女を待ちながら』に限ってではあるが、それを書き始めた事により――というもの、自分でも何が起こっているのか詳しく分析出来ている訳ではないけれど、少しずつ僕という存在の表層が剥ぎ取られ、内側では彼女の核が成長を続ける事で、僕という存在がどんどんと風化していき、このままでは僕と言う存在は希薄になってしまい、その先には無が訪れるのだろうと言う妙に確信めいたものを心にそっと留めている。


 娘が絵本を持って、胡座をかいた僕の足の上に座る。それは普段から娘がよくする行動で、絵本を読んで欲しい時にするものであるのを僕は知っている。

 それを知っているのに、僕は何故か娘に絵本を読む気がしない。それよりも僕は今小説を、あの彼女の物語を、七つに分かれた『彼女を待ちながら』と言う一つの作品を完成させたいと思う気持ちが飛躍的に、大きく膨張を続けていく。


「思ってたより時間ぎりぎりになっちゃったから、出るね」妻は脱衣所から戻って来ながら僕にそう言うと、娘の前にしゃがみこんで娘に言う。

「みっちゃん、ぎゅー」

 娘は妻に抱き着く。その小さな身体で目一杯に腕を伸ばして妻の身体にそれを回す姿を僕は見るともなしに見ていた。

 妻が身体を離しても、娘は存外愚図る事もなく機嫌良さそうにして、ばいばいと手を振る妻に手を振り替えしている。

 僕も釣られる様に妻に手を振って玄関口に向かう姿をぼんやりと眺めていた。

 玄関が控えめに閉まる、くわっちゃんという音がした後、その控えめな音の残響を掻き消す様に鍵を掛ける、じゃがぐと無粋な音が、空気だけでなく振動と共に鍵から玄関扉全体を伝って壁と床と天井を経由しリビングまで途切れる事なく駆け抜けてきた事で、今この場所が社会から隔絶された場所にある事実を僕に強く認識させた。


『別に読唇術を心得ている訳ではないが、何と言っているのかなぜだか分かる気がする。きっと彼女はこう言っているはずだ。今の生活に満足している?』

 僕は二話目を書き終えた。

 僕の脳と手は『彼女を待ちながら』を書きたくて仕方ないとでもいう様に、途切れる事なく物語を紡ぎ出していき、約一〇〇〇〇字の話をすんなりと書き上げた。

 推敲は必要になるだろうが、ひとまず『彼女を待ちながら』の第二話を書き終えた事に、僕は第一話を書き上げた時以上の充足感を得ていた。

 一気に書き上げたので肩が少し張っている様な気がして、一つ伸びをする。

 その時に視界に入った時計の時刻を確認して、僕はその事実に驚いた。時刻はだいたい昼の十二時半。

 プロットなど作っていないのに約二時間強で一話分を書き上げていた事にも当然驚いたが、それより二時間強も娘を放置していた事への驚きの方が大きかった。

 娘は僕の後ろで一人、絵本を眺めていて見た目変わった様子はない。


 まさかそんなに時間が経っていたなんてと思うと同時に、娘のおむつを交換しなければいけないし、娘にお昼ご飯を食べさせないといけない。それと娘に水分補給もさせなければと思い、椅子から立ち上がろうとする。

 しかし僕の中にある彼女の核の仕業なのか、ノートパソコンのキーボードを叩いて画面に文字の羅列を作り出す事で、彼女をもっと感じたいと思っている自分がいた。

 僕はやはりこの衝動に抗えない。僕は娘を放置して、再びノートパソコンへと目を向ける。


 僕の中にある時間と言うものの感覚や概念と、社会的な体裁や常識は、ポロロッカだけではなく世界で起きる全ての海嘯を掛け合わせた様に、全て逆流する波に押し流され攫われていく。

 今の僕には、ノートパソコンの画面に表示されるその文字の羅列こそが、世界の全てであり真理であるのだ。

 僕はまだ誰も見た事のない世界をこの両手で作り出し、自由に弄び、そして破壊と構築を幾度となく繰り返しながら、世界と言う中にある光と闇の二面性や、普段僕たちが知る事の適わない理や深淵と言ったものを俯瞰的に感じて、それを装飾し誇張して一つの世界を本物にしていく。

 再び僕の手は僕の意志とは無関係に、それでいて僕の無意識の内に意識している無意識の範疇で悠々と十本の指を駆使する事で、文章という世界の色彩を鮮明にしていく。

 僕は文章を用いているが、今この瞬間においては作家と言うよりは画家と言った方が適切なのではないだろうかと考えていた。


 その間にも僕は『彼女を待ちながら』の第三話の最後の一文までの道程を、キーボードを叩くたんたんと軽快な音を立てて、淡々と啓開していく。

 僕は創造主であり、そして神である事を強く、強く、実感しながら、第三話の最初の一文をもう一度見返した。

『誰かに愛されるという事は、こんなにも素晴らしい事だったのか』

 その様な書き出しで第三話は静かに始まっていた。


『俺の視界の右端に見えるのは、昨今若者の間でブームになっているスポーツサンダル。全体が黒色で、甲の部分と踝の前、踵の三点をベルクロでしっかりとホールドしていて、ソールの部分の少しいかついフォルムからすると、テバのハリケーンXLTだろう。彼女はそのスポーツサンダルに赤色の靴下を合わせて履いていた』

 第四話はその文で始まり、その文で終わっていた。

 終わっていたと他人事の様に言っても、この文は僕自身が書いたものだ。しかし、僕はこれを書いている途中で一度たりとも、この文を書いたという意識が無いので、やはりこれを表現しようとすると、他人事の様に言い表すしかない。

 それに僕は今、僕自身ですらも俯瞰的に見えている気がしてならない。

 言っている意味が伝わるのかどうかは分からないが、ファーストパーソン・シューターのそれとは違いサードパーソン・シューターにおいての視点で自らを認識している様な妙な違和感が胸の奥に渦巻いていて、それは彼女の核と比例する様に大きくなり僕の身体を内から圧迫していて、先程まで感じていた高揚感や多幸感とは異なる、不安や抑鬱、寂寥、どこから生じたものかすら分からない恐怖、そう言ったものが体内に寄生して身体の隅々まで蹂躙し尽くそうと、まさに今侵攻を始めている。


 第四話を書き始めるまでの間、僕は幻覚剤で言うところのグッドトリップの状態とほぼ同等であった、だが第四話を書いている最中の僕は完全にバッドトリップの状態がやってきている。

 しかし僕はもう一度グッドを求めてしまい、再びノートパソコンに向かう。

 今はとても気分が悪いし、後ろで何か騒ぎ立てている娘が五月蠅い。僕は娘に構わず、ただ指先に力を入れる。

 今の僕には、指一本に力を入れる事でさえ、一人でピラミッドを築き上げろと言われている様な絶望感を感じる事にすら思えてしまう。

 いや、もうそんな事すら思うのも煩わしい。

 僕は指をM、E、N、Iと一つ一つ針に糸を通す時の様に慎重に押していく。キーボードの弱々しい反発ですら、今の僕には大きな壁となって眼前に聳え立つ。


『その時微かに声が聞こえた。今の生活に満足している? 魂が私の身体からぷつん』

 第五話を書き終えた。

 その時、微かに声が聞こえた。

「ただいま。えっ、二人ともいるの?」

 意識が僕の身体へとするん。

 部屋の中は真っ暗で、僕がずっと見続けていたノートパソコンの画面――見ていたと言う記憶が無いし、今その画面を見てもやはり何の感慨も湧く事はないが――のバックライトが部屋を薄ぼんやりと照らし、それはまるで深く掘られた穴の底を逆に上から覗き込んだ時に、上から覗いている自分自身の影を落とした先に貧しい光が届いてなんとか見える部分の最奥である様な、そんな薄気味悪さを伴っていた。


 妻の声の所為で、久方振りに僕のところへ時間というものの感覚や概念が戻ってきた。

 しかし社会的な体裁や常識は、先程の無意識下の最奥へ置き去りにしてしまい、それを再往取りに行く暇まではなかった。

 僕はそんな事より僕自身の保身を取って、娘を放置していた事への言い訳を考えながら、とりあえずノートパソコンを一旦閉じる。


 妻がリビングの扉を開けて電気を点けると、薄気味悪さを伴った薄ぼんやりとした視界が、冷たく暴力的な白色のLED電球により僕の瞳孔を無理矢理に小さくする。

「あっ、いたんだ。もしかして寝てた? ごめん」

「ああ、いいよいいよ。丁度起きたところだから」

 僕の口から嘘が零れてはじけた。

 その嘘は一度はじけると連鎖的に他の嘘もはじかせて活動を活発にしていき、この狭い1LDKの空間を嘘で満たした。

「たくさん遊んだから、みっちゃん寝ちゃって。それで僕も横になったんだけど、気付いたらうつらうつらしてきてね。まさか、こんなに暗くなるまで寝ちゃうとは思わなかったけどね」

 僕はそう言って笑った。


「ろうちゃん。何か嘘吐いてるでしょ」


 妻は表情を険しくして、僕の方へ一歩詰め寄る。

 僕は確かに嘘を吐いているが、何故それがこんなに早くばれてしまうのか、今の会話の流れで何か怪しい事があっただろうかと考えてはみるものの、それらしい要因は到底思いつかない。しかし妻は確実に、僕の行動の何かで嘘に気付いてしまった。

 僕は新しい嘘で、その嘘を上塗りしなければならない。

 このままでは先に待つのは家庭の崩壊、家族の倒壊であるのは目に見えている。

 それらしい小さな嘘をでっち上げてそれを認める事で、大きな嘘を覆い隠すのだと自らを奮い立たせようとしたのだが、それよりも早く妻は僕に釘を刺した。

「みっちゃんの事だったら、さすがに怒るよ」


 妻は僕の動きをしっかりと把握し妙な動きを取らない様に、神経を集中させながらも冷蔵庫に歩みを進める。

 その中には娘の昼ご飯が入っているのだが、妻はその事実をまだ知らない。そして、それを見付けてしまったら、もう僕らの関係は元に戻らないのだろうと、そんな気がする。

 でもそれは仕方のない事だ。

 僕は娘を放置して、つまらない小説の執筆にひたすら没頭していたのだから。


 妻は冷蔵庫の扉を開ける。

 一番目に付く下から二段目に乗せられた娘の昼ご飯だったそれは、冷蔵庫内の光に燦々と照らされていて、その光はリビングのLED電球とは違い、温かさを感じるオレンジ色の白熱電球で、冷たい空間の中にありながら妻が娘を思う気持ちで温かく包まれていた。

 僕にはこちらのリビングの白いLED電球がお似合いだ。

 娘を放置していながら、どうにか言い逃れ出来る手段が無いものかと、この段階においても画策している様な父親なのだから。


 僕を見る妻の目から愛情と言うものがぽろぽろと流れ落ちていき、口からは軽蔑と憤怒、敵意が飛び散る。

 一方僕はと言うと、その顔に下手くそな笑顔を張り付けて妻と娘を見た後に、ノートパソコンを見て彼女の核を俄に膨張させ、自らを彼女の支配下に置く事で自らの罪から逃亡を図った。


『ムラサキカガミって知ってる? 誰が言ったのかは思い出せないが、確かに誰かがその言葉を言ったのは覚えている』

「ムラサキカガミって懐かしいな」

 僕は以前よりがらんとしたリビングで、執筆を続けながら一人ごちた。

 床にはコレクションの靴を資料として置いているが、もうこの家には僕しかいないので、いちいち靴に付着した砂を払ったりはしていない。それを気にする人間が誰もいないのだから、わざわざ綺麗にする必要もないだろう。

 僕はパソコンの画面から一旦目を離して、手前に置いてある靴を手に取った。

 オールブラックのインスタポンプフューリーは、そんなに頻繁に履く事もないので汚れは少なくて、まだまだ新品に近い艶を持っている。


 ハイテクスニーカーブームを牽引したと言っても過言ではない、この靴は何よりまずアッパーの上部、通常のスニーカーで言えばタンと呼ばれる部分に備え付けられたボタンに目がいく。

 これはザ・ポンプ・テクノロジーと言うもので、この靴の最たる特徴だ。

 靴を履いてからこのボタンを押すとアッパー内部、足の甲の辺りに空気が入り、靴紐を使う必要無しに靴と足とを密着させる事が出来る。

 そして前後に分かれた厚みのあるソール部分は、それぞれが独立する事でその厚みを感じさせる事なく利用者の足に馴染む、高度な作りになっている。

 そのソールの後方部分にはヘキサライトと呼ばれるハニカム構造を用いる事で衝撃吸収性度を高めていて、ランニングシューズとして開発されたインスタポンプフューリーの開発の妙が見て取れる。

 デザイン性も極めて高いこの靴はアッパー部分のギザギザとしたデザインと、そのアッパー部分に穴が空いていたりと僕が知る限り言葉では表現し尽くせない程の魅力を多く兼ね揃えている。

 しかし奇抜すぎるデザインとカラーリングが多いので、どんな服装にも合わせやすい靴とは言い難い。

 それでもオールブラックやオールホワイトといった色合いであれば比較的合わせやすいので、僕はオールブラックのインスタポンプフューリーを所持している。

 そして妻は僕のそれと対を成すオールホワイトのインスタポンプフューリーを所持していたが、今この家の中にはそれは存在していない。


 僕は感傷的な気分に浸っているのだろうか?

 実際の所、自分自身の感情が分からない。分からないと言うよりは、分からない振りをして心の安寧を維持しているだけなのかもしれないが、それすらも本当にそうなのか僕には分からない。

 家庭と家族が崩壊し決壊した事で、その中にあった僕自身にも亀裂が入ってしまい、その亀裂はどんどんと進み、進み、進み、そのまま進んでいって僕は真っ二つになってしまったのだ。

 真っ二つに割れた僕の中からは成長を続けていた彼女の核が剥き出しになって、それは小さく振動したかと思うと空気の僅かな揺らぎを感じ取り、その揺らぎに合わせて彼女の核自体もまた揺らぐ。

 そして彼女はこの世界、この空間と共振して、彼女を狂信する僕の前にありありと気配を漂わせ始めた。


 手に持ったオールブラックのインスタポンプフューリーを一旦床に置いて、ノートパソコンを見る。

 そこには書き出しの文章しか書かれていない『彼女を待ちながら』の第六話が、怪しい光を携えてこちらを眺めている。

 彼女の気配は濃厚になってきてこの空間を飛び交ってはいるが、存在はまだこのノートパソコンの中の文章という枠の中に留まっている。

 僕は彼女をこの文章という枠の外へ、誘う手助けをしなければならない。

 しなければならない?

 それは誰の為に?

 しなければならない?

 何の為に?

 僕はその答えと自分の人生というものの答えを見付ける為に『彼女を待ちながら』を書き続けなければならないのだろう。


 僕の左手を窓から差し込む陽光が、冬だというのにじりじりじりじり、じりじりじりと焼く。

 それは穏やかさを装いつつも、僕の事を「社会不適合者」とその底に軽蔑をびっしりと敷き詰めて詰る。


 僕はそんな太陽を不快に思う。

 すると僕の両手は、僕とはまた違う思考回路で活動しながらも同じ結論に至ったのか、陽光をあからさまに皮肉ってみせようと動き出して『彼女を待ちながら』の書き出しに続く文章を構成していく。

『その日雨は降っていなかったものの、空にはどんよりと重厚な雲が、山脈に連なる尾根を横から眺めた様に幾重にも重なり、そのムラサキカガミという言葉自体に、べたべたと油絵の様に重ね塗りした陰湿さと不快さを纏わせるには十分な要因となっていた』

 なるほど。太陽の存在を作品から抹消してやった訳だ。そうやって陽光を罵ってみせた。

 僕は僕の両手が構築したこの文章を、甚く気に入ってしまった。

 知らない間に笑顔が僕の顔に張り付いていたが、その笑顔はいつもより上手に作れている様な気がした。しかしそれを確認した所で、いったい何になるというのだろうか。


 その時彼女の核が大きく動いた。

 僕の手は先程陽光を罵った時以上に素早く文章を構築して、彼女を上から下へと形作っていく。

 まず最初に髪の毛を一本一本編み上げていき、次にその小さな頭を粘土の様に捏ね繰り回して形成した。

 華奢な肩から二の腕を通り抜けて指先までの妖艶なラインを一筆書きの勢いで描き出すと、蠱惑的な鎖骨に取りかかる。

 鎖骨はゆっくりと丁寧に、先程とは違い慎重に、その突起物に皮と筋肉を纏わせる。

 その下にある胸と臍はどちらも凹凸が少なく、凪いだ海で自然発生して静かに蠢く波程度の起伏がそこに出現する。

 その前後の凹凸の少なさとは異なり、左右に関しては腰の辺りで大きく括れていて、そこから臀部の方、骨盤の位置に至るまでのとても表情豊かなラインが男心を絶妙にくすぐる。

 その様な臀部から伸びる細すぎず太すぎないどっちつかずとも言える脚は、上から下まで傷一つ無く透明感のある綺麗な白色の光を発していて、それは鮮烈な光をもって怪しく輝いていた。


 僕はその一糸纏わぬ姿の彼女の顔を、文章の端々に潜ませる。

 どちらかと言うと若干上がり気味ではあるがほぼ横に一直線で、表情によってはきつそうにも優しそうにも見受けられる、そんな変化を幾度となく繰り返してきたのであろう、少しだけ太めの眉。

 長い上の睫毛は重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いているからなのか目力がある瞳。

 そこまで高い訳ではないが、決して醜いわけではなくそれなりに鼻筋が通っているのが分かる、少し低めではあるものの形が整っている上品な鼻。

 真っ赤ではあるが口紅で地の色を覆い隠しているわけではなく、元来持ち合わせた血色の良さを讃えている様な唇。

 丸顔でどちらかというと可愛らしく見えそうではあるが、それぞれの顔にあるパーツの均衡が取れているお陰なのか、気品と知性の香りを存分に周囲に振り撒いている。

 それだけ見た目においては普通の人間と大差がないのに――大差がないと言っても、一般的には美しい女性の部類に入るのだろうが――、彼女には人間として完全に欠如しているところがあった。


 それは希薄な存在感。


 彼女の事をいくら文章の端々に潜ませても、明確に文章として書き込もうとも、それは変わらなかった。

 何かが足りていないのだ。

 彼女の要素の何かが。


 僕は色々と考えを巡らせながら、僕の両手が紡ぎ出す『彼女を待ちながら』の第六話を一万八〇〇〇字程書き進めている様子を眺めていた。

 彼女の核はどくどくと言うよりはじゅくじゅくと、何か不純物が入り込んだり血栓の所為でしっかりと循環していない時の異音が交ざった血液の様な音をさせながら、徐々に、徐々にではあるが確実に僕を蝕んでいく。

 しかし、僕はそれを嬉しく思う。

 彼女ともう少しで一緒になれるのだと思うと僕は興奮した。

 ボクハコウフンシタ。

 

『とりあえず一話目は、こんな感じでいいか。僕はそう言って、ノートパソコンに打ち込んだ文章を保存する』

 僕の両手は『彼女を待ちながら』の第七話を書き進めている。

 僕は気付いてしまった。

 この両手は僕の両手ではなく彼女の両手であって、僕はもう後戻り出来ない所まで来てしまったと言う事実に。

 今現在僕は彼女に取り込まれている、若しくは彼女の意識下にあって、それは彼女だけでなく『彼女を待ちながら』と言う作品に取り込まれている、若しくは意識下にあるとも言えるものである。

 とどのつまり『彼女を待ちながら』と言う作品は彼女自身であって、それを書いている僕は自分を創造主であり作品における神であると思っていたのだが、それは誤った認識で、彼女と言う神によって命じられた任務を忠実に遂行する『彼女を待ちながら』の作成における代筆者でしかなかったのだ。

 神は信者の存在が不可欠であり、僕は彼女と言う存在の狂信者であったので盲目的になっており、彼女の存在の絡繰りに気付けなかったのだ。

 しかし、それが答えであると意識しながらも、いくつか不自然な点がある事に僕は疑問を抱く。


 神と言うのは誰かが最初に作り出したものであり、自然発生的に現れるものでは無いはずなのだ。


 それなのに彼女は僕が彼女を認識してすらいないはずの時から、しっかりとこの世に気配を置いていたのだ。

 そうでないと、この物語を僕が書く事は無かったはずだろう。

 彼女の存在は希薄であり、本当にいるのかどうかあやふやで曖昧でありながらも、気配はあったのだ。

 存在していなくても、確かに彼女はいる。

 作品の中に取り込まれた僕の存在を認知し受け入れてくれるのは、神――それは彼女でもある――と言う存在と、今僕がいる次元を超越した所に存在する、僕が取り込まれている『彼女を待ちながら』と言う作品を読む事が出来る誰かだけなのだろう。


 しゅしししす。

 すししししゅ。

 衣擦れの音が僕の背後から聞こえる。

 しゅしししす。

 すししししゅ。

 繰り返す衣擦れの音の微かな違いは、身体の左右のバランスが僅かに違うからだろうか。

 しゅす。

 僕の背後から漂う気配は僕に喰らいつく。

 ざんむり。

 聞いた事もない音が脳内に直接響くと、僕は朦朧としてくるが、どうにか首から上だけでもと思い後ろを振り返ろうと首を回す。


 目の前に彼女の顔があった。


 何度も書いたシニカルな表情が現実――僕の感じる現実は作品の中に取り込まれてしまっているので、実際には現実とは呼べないのかもしれないが――のものとして僕の前にある。

 その時僕の中にあった彼女の核は、もうすでに無くなっていた。

 彼女は遂に現れてしまったのだ。

 この世界に。

 僕は彼女に、畏敬の念を抱く事を禁じ得なかった。

 僕は『彼女を待ちながら』に取り込まれた事で、その作品と彼女の意思に触れる事が出来る様になったのだが、それは僕の脳のキャパシティを大きく上回っていて、文章として表すことが出来るとは到底思えないし、まず僕の理解を超えていてその考え自体の意味が分からない。


 僕の目の前に置かれているノートパソコンの文章は、今この瞬間とシンクロしている様に僕が体験したのとほぼ同時にその体験を文章の羅列に並べていく。

 しかし、今までの入力のスピードを考えると、僕が体験するより未来の体験をタイプしだすのも時間の問題だろう。

 そう考えている間にも、もう先に先に先に先に先に。

 彼女は文章の中で揺蕩い漂う尊い人物で、僕はそれを神として狂信するあまり、本来創造主であり――実際は代筆者でしかなかったが――作品における神であるはずの僕を超越するだけではなく、その神を取り込んだ作品というものを読む誰かの存在すらも凌駕しようとしているのだ。

 そしてこの世界における一つの臨界点を突破していく。


「とりあえず一話目は、こんな感じでいいか」

 僕はそう言って、ノートパソコンに打ち込んだ文章を保存する。

 小説を書くのは何度目だろう。

 僕は並行世界に迷い込んで幾度となく『彼女を待ちながら』を執筆している。

 一つの並行世界で彼女を出現させて、また別の並行世界で彼女を出現させるのを繰り返す。


 彼女はいつも僕に付き纏う。

「今の生活に満足している?」「ああ、満足しているよ」「娘を見放し妻に見放され、わたしを形作る為に幾度も同じ作品を書いて、それでもあなたは満足しているの?」「ああ満足しているよ」「これでも?」「どうして……君が」「別に靴なんて、この世に一足しか存在しないって訳じゃないんだから」「それもそうか」「どう? 本当に今の生活に、今の人生に満足している?」「どうなんだろうね、僕にはもう分からない」

「そうやって思考を停止させるのは簡単な事ね。ただ流れに身を任せていれば、敷かれたレールの上を黙々と進んでいけるし、そのまま粛々と物事を終えていくだけで良いのだから」

 僕は彼女が履いているオールホワイトのインスタポンプフューリーを眺めながら、知らず目に涙を溜めて、彼女の存在の様に希薄な説教を聞いている。


 今になっても僕は彼女が何者なのか理解出来ない。

 都市伝説であり、特異点であり、悪魔であり、存在していないものであり、ただそこにいるものであり、神である彼女。

「結局のところ」僕は声を震わせ――この震えが恐怖、憤怒、悲愴のどれから生じたものかは分からない――、後悔を身体に染み込ませながら、妻と娘の顔を思い浮かべて言った。

「君は何者なんだ?」


 彼女は、何故か美しくそれでいて儚さを纏った笑顔をして言った。

「私は後藤みか。あなたの娘よ」

「ろうちゃん。今日用事ある?」

 彼女の声に覆い被さるように聞こえてきたその声は妻のものだった。


 僕は知らない内にノートパソコンの画面を見ていた。そしてその目を妻に向ける。

 僕は目に溜めた涙を溢れさせる。

「ちょっと、何泣いてるの?」

 突然泣き出した僕を見て、妻が狼狽しているが、止めようと思っても涙は止まるどころかますます溢れ出していき、その涙の中に彼女であり後藤みかであり僕の娘であるものの核が混じって溶け出していく。

 幾度も並行世界を渡り歩いた僕は、ここが一番最初に僕が存在していた世界である事に気付いていた。


 僕は戻っていた。


 僕は急いでノートパソコンの画面に映し出されていた文章の羅列を消す。

 妻がそんな僕の様子を見て不思議そうにしてから、ノートパソコンの画面を覗き込む。

 その時すでに書き終わっていた『彼女を待ちながら』の第一話のファイルを、僕は消去しようとしていた。

 妻が驚いた表情をして言った。

「せっかく書いたのに、消しちゃっていいの?」

「僕には才能が無いから、書いたところで仕方ないよ」

 僕は椅子から立ち上がりながら妻に言うと、玄関に向かった。

 そこに置かれた妻のオールホワイトのインスタポンプフューリーを手に取る。先程彼女――後藤みか――が履いていたのは、この靴だった。

 それは同じ種類同じカラーであるオールホワイトのインスタポンプフューリーという意味ではなくて、妻の所有するオールホワイトのインスタポンプフューリーを彼女――後藤みか――が履いていたという意味であって、今僕の手にあるものに比べると彼女が履いていたそれはかなり薄汚れてはいたが、それが一層その事実を真実だと伝えのるに一役買っている様に思えた。

 彼女の気配の端くれがこびりついているその靴を、再び玄関に置き直して、僕はリビングに戻った。


 妻は娘に絵本を読んでいたが、僕の不審な様子が気になっているのか、目線だけをこちらに向けた。

 僕は幾度も並行世界を渡り歩いた所為なのか身体が怠く、今すぐにでも寝たいくらいで足取りもふらふらとして不安定かもしれないが、それでももう一度僕は妻と娘とやり直したい、いや、やり直せると信じている。

 娘は絵本を読んでもらって嬉しいのか、笑いながら手をぱちぱちと叩いている。

 もう僕は大丈夫だという意味を込めて、妻に下手くそな笑顔を作る。


 そんな僕を見て妻は言った。

「相変わらず、笑顔が下手ね」

「私は後藤みか。あなたの――」

 妻の声に覆い被さるように聞こえてきた彼女の声は、ノイズでも入った様に最後まで聞き取ることが出来なかった。


 さっきのはなんだったんだ?

 サッキノハナンダッタンダ?

「あなたはまだ分かっていないのね」

 なにが分かっていないのだろうか。


「私は特異点であるが故に、この並行世界の中に接する地点を幾つも持ち合わせている、若しくはどこにも属していないという二つの可能性のどちらかの性質の下で活動していて、それは並行世界を移動する度に変化する事になるの。わたしが幾つかの並行世界に存在していると言う一つ目の性質の下で活動している時、わたしの存在は当然幾つかの世界に分かれている訳だから、人間一人分の存在と言う概念がその幾つかに分断されてしまう。そうするとあなたと対峙するわたしは、その人間一人分が発する存在よりも必然的に小さな存在となってしまい結果希薄になってしまう。二つ目、これは簡単ね。わたしがどこの並行世界にも存在していない性質の下で活動している場合、そこには当然わたしは存在していないので、ただわたしが居た頃の気配と言うものの残滓を漂わせているだけ。それに感化された人間が脳の中にわたしという虚像を作り出して、そこにわたしが存在していると錯覚しているだけの事。そしてもう一つが大事。特異点と言うことは私はブラックホールと同義で、重力の大きさが無限大になってしまう一つの点でもあるの。あなただけじゃないけれど、この本の中の登場人物が読者にどう観測されていると思う? 答えは簡単、ブラックホールに落ち込んだ時と同様に見られてるの。二つに分裂してその内の一つは灰になり、もう一つはブラックホールの中に半永久的に落ち続ける。その中で登場人物は歪んだり、伸びたり、縮んだりして見える。そして落ちて落ちて落ちていけば落ちていくほど、その落ちていくスピードは遅くなっていく。スピードが遅くなるって言っても落ちるスピードがただ遅くなる訳じゃなくて、時間の概念自体が捻じ曲げられて観測者からすると落ちていくもの、つまり登場人物であるあなたたち自体の動きの全てが遅くなっていくって事。そしてあなたたち登場人物が事象の地平面に到達しようとするその瞬間、ほとんど停止したといって言い程に遅くなったあなたたちはものすごくゆっくりと灰になっていく。それが真理であり、この世界の理ってやつらしいわ。つまり、あなたたち登場人物は『彼女を待ちながら』の中で半永久的に生きていく。そしてその様子は観測者である読者に娯楽として半永久的に見られ続ける事になる。何度も藻搔いて、現実と信じたこの作品の中で、歪んで伸びて縮む程度の変化を観測者に提供していくの。因みにわたし自信、その半永久的に続く時間がどの程度のものかは分からない。それこそ神のみぞ知るって言葉の通り。もしかしたら、五億七千六百万年。一説には五十六億七千万年っていうのもあるけど、それが事象の地平面に到達するまでの時間なのかもしれないわね。釈迦牟尼仏の入滅後、弥勒菩薩が下生するまでの期間である、この時間を過ごせばあなたはやっと役目を終えられるのかもしれない。とりあえずそれまでは、あなたはこの世界に囚われ続けて生きていく事ね」


 彼女はそう言うと、もう僕には興味がないとでも言う様にリビングを出る。開け放った扉の先をふらふらと独特の歩調で行く彼女の背中に、僕は少しだけでもと、道端に落ちている小さな石ころ程の希望の光を探し藻掻いてみせる。

「さっきの、君が僕の娘だって言うのは」

「並行世界のどこかの一つにくらい、そういう世界があってもおかしくないんじゃない。あなたの希望の光の世界。でもそれはここではない」

 彼女は僕が最後まで言い切る前に答えた。

 僕の心にも脳にも、絶望というものが堂々と腰を据えた。


「あと一つだけいいかな?」

 僕は言った。

「なに?」

 面倒くさそうにこちらに顔だけを、それもしっかりとこちらは向かず聞いているというのをわざわざアピールする為だけに少しだけ傾けて彼女は言う。

 僕はそんな姿に不快感すら覚える余裕もなく言う。

「最後に妻の声に覆い被せて言った、あの言葉。あれは何て言ってたんだ?」

 彼女は気怠げにこちらを振り返ると、あのシニカルな表情をして言った。

「そんな事、もう忘れたわ。それとこれだけは言っといてあげる。あなたはわたしの事を神だと思っているみたいだけど、わたしはこの世界の神では無いから」

 彼女は再びゆらりと揺蕩うと玄関から姿を消していった。


 残されたのは、ノートパソコンと、僕と、流動しない陰気な空気に包まれたこの1LDKの部屋にある無機物たちだけだった。

 僕は無機物の一つに腰掛けると、自らの両手で文章を構築していく。

 僕がいくらか父親らしく振る舞い、家族の時間を大切に過ごして、成長した大切な娘と少し年を取って顔に皺が増えた愛する妻と共に歩む未来を、一時の間|紡ぎ出す。いつか再び、僕の希望の世界という並行世界に行けるとそう信じて。

 淡い泡沫に包まれた考えだと言われてしまうかもしれないが、その並行世界に行く時に僕を迎えに来るのが、僕の娘であって欲しいと願った。

 絶望の淵に垂らされた蜘蛛の糸だったり、繰り返す世界を象徴する作品の中に立つ力強い一本の木の様な希望を、絶望の核に隠す。

 今ここの並行世界にはいない、彼女を待ちながら。

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