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彼女を待ちながら  作者: 斉賀 朗数
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第一話 青

「昨日、見た時から思ってたけど、その靴かっこいいね。なんて靴なの?」


 奇抜なデザインのその靴は、女の子が履くには無骨すぎる気がした。しかし見慣れてくると、彼女はとても美しく違和感なくその靴を履いているように感じる。

彼女は自分の履くその靴を愛おしそうに眺めながら教えてくれた。


「プーマのディスクブレイズっていうの。靴ひもが付いてないけど、甲の部分についたダイヤルを回転させて、アッパーに内蔵されたワイヤーを締める事で靴と足を密着させる画期的な機能を搭載したスニーカーなんだ。素敵でしょ」


 大人びた表情から一転して、少女のように笑う姿はとてもかわいらしい。本当に靴が好きなんだろう。

 好きな事について語る彼女の姿が、あの頃の自分に重なって見えた。

 あの頃は私もこんな風に笑っていたのかもしれない。


 改めて彼女を眺める。

 ライトグレーのシンプルなベースボールキャップに、スリーブの部分がレースを重ねたようになっている五分丈の白色プルオーバー、それを少しタイトめな膝上丈のインディゴブルーのデニムスカートにインして、くるぶしより少し上までの長さで丁度くるぶしを囲むように細いライトグレーのラインが入った靴下を履いている。

 甲の部分に付いているぐにゃりと曲がる矢印が二つ、円を描くようにデザインされた黒のダイヤル。

 靴の右側と左側を踵方向から、ぐるりと回りこむようについた黒のプラスチックパーツ。

 ミッドソールは汚れ一つない綺麗な白。

 そして、その上にあり全体を覆う鮮やかな青のカラーリングをアッパーに身に纏ったその靴は、近未来的な雰囲気で、彼女を別の世界の住人足らしめる要素を担っている、そんな気がした。


「そんな事聞いてくる余裕があるなら、もう答えは決まってそうね。一応、通過儀礼みたいなものだから聞いておくわね」彼女は居住まいを正すように、真剣な顔つきになり、言った。

「今の生活に満足している?」


 私は後悔ばかりの日々を振り返って心の底から強く兄の事を思いながら、映画について語り合った兄との日々を思い出しながら、目の前にいる彼女ではなく自分自身へ言い聞かせた。

「こんな生活、満足してる訳ない」

 その言葉を聞くと、彼女は今までの印象とはかけ離れたシニカルな表情を見せて言った。

「それじゃあ、こちらにいらっしゃい」



 私は昔から引っ込み思案で、小学校五年生の頃にいじめにあってから不登校になった。

 クラス全員からの無視。

 仲の良かった子達にも見放された。


 学校に行きたくない。そう言うと、汚いものを見るような目で、両親は私を見た。五歳年上の兄が賢く有名な進学校に通っていたので、両親は私にも期待していたのだろう。

 気付けば、私は両親にも見放された。

 しかし、兄だけは私の味方だった。

 兄は部活をしていなかったので、いつもすぐ家に帰ってきてくれた。

 毎回ではないがお菓子を買ってきてくれたし、好きな映画の話をしてくれて、嫌な生活の中でも退屈することなく楽しく過ごす時間を提供してくれた。


 その話の中でも特に気に入ったのが、アルフレッド・ヒッチコック監督の裏窓だった。

 物語は、主人公のカメラマンであるジェフが仕事中の事故で足を骨折してしまい、車椅子に乗って生活しなくてはならなくなるところから始まる。

 ジェフは我が家での退屈な車椅子生活の中で、唯一の楽しみを見つける。

 それはカメラの望遠レンズを使って、裏窓から隣のアパートメントに暮らす住人たちの人間模様を観察することだった。


 その冒頭部分だけで、私はジェフに共感した。

 仕事中の事故で足を骨折してしまい自宅にこもるジェフ。学校でのいじめにより病んでしまい自宅にこもる私。

 状況は違えど、不意の事態により自宅にこもる事になった二人。

 外との接触が希薄だった事、仲が良いと思っていた友人たちに裏切られた事、そんな状況だった為か、こんな些細な一致でとても共感してしまい、裏窓が気になって仕方がなくなった。


 私はどうしても見てみたいと兄に頼み、裏窓のDVDを買ってきてもらった。

 そして有り余る時間で繰り返し裏窓を見た。観客の視点を映画の中に巧みに入れ込む作品作りに感動を覚えた。私は裏窓にどっぷりとはまりこんでいった。


 私はもう何年も使われているところを見ていない、父の、埃を被った一眼レフを引っ張り出してきて、ジェフの真似事を始めた。

 その時カメラに付いていたレンズにはたいした望遠機能はついていなかったが、それでも私は、そのカメラで外の様子を観察することに十分な充足感を得ていた。

 映画とは違い、部屋から見える家々の多くはカーテンをしっかりと閉めていて、ほとんどその中の様子を窺い知ることは叶わなかったが、家の近くの公園にカメラを向けると、犬の散歩をする老婆、子どもを砂場で遊ばせている間に井戸端会議をする主婦たち、仕事をさぼっているのかベンチに座って数時間本を読んでいるサラリーマン風の男性など、それなりに見ていて想像力を掻き立てられる材料は散りばめられていた。


 彼は何を考えているのだろうか。

 彼女は何を話しているのだろうか。

 彼は誰の事を思っているのだろうか。

 彼女はどんな話し方をするのだろうか。

 考えれば考えるだけ時間は過ぎていった。

 私は現実世界にいながら想像の世界にいた。

 こことは違う、私の思い描く、別の世界。

 この世界ではない別の世界に夢を見て。

 しかし、私の想像には限界があった。

 彼ら彼女らは同じ行動ばかりする。

 映画の様に特別な事は起きない。


 そのうち、どうしても、私は閉じられたカーテンの向こう側の世界を見てみたいと思った。しかし、そのカーテンの向こう側の世界が顔を覗かせることはなく、次第にジェフの真似事をする回数は減っていった。


 それから二年が経った九月の終わり頃。

 私の体も成長し、胸が出てきて、尻に肉がつきふっくらとしてきて女性らしさを手に入れると同時に、厄介な、女性特有のあれが始まった。

 症状は比較的軽い方だったのでまだましだったが、それでも、やはり面倒だし、痛むし、辛いものだった。

 そのせいもあってか、私は不機嫌になることが増えた。


 そんな私を、大学受験で忙しいはずの兄は優しく見守っていてくれた。まだ兄は私を見放さずにいてくれたのだ。

 映画の話も相変わらずしてくれるのだが、兄と違いずっと家にいるせいで、もう私の方が映画に詳しくなっていた。

 この頃には私が兄に映画の話をしてあげる事の方が多くなっていた。

 兄は話し上手だったが、それだけではなく聞き上手でもあった。

 私は話の流れで、ヒッチコック監督のサイコを久しぶりに見たくなり兄にレンタルしてきて欲しいと言ったら「お前は昔、ヒッチコックの裏窓にひどくのめりこんでいたな」と笑った。

 そういえば裏窓も長らく見ていないなと思って、兄が受験勉強をしに自分の部屋に戻った後、久しぶりに裏窓のDVDを引っ張り出してきてプレーヤーにセットした。


 テレビに流れる映像には、最初に見た時と変わらず、事故にあい車椅子に乗り、カメラのファインダーを覗き込むジェフの姿があった。

「懐かしい」

 私もジェフと同様、久し振りにカメラのファインダーを覗いてみようと思った。

 机の中に入れっぱなしになっていたカメラを出して、部屋のカーテンを開けて外の暗闇を見ると、ぽっと明かりが灯っている窓が見えた。


 カーテンが開いている。


 私は急に鼓動が早くなるのを感じた。

 当時、あれほど望んでも見ることが叶わなかったカーテンの向こうの世界。

 私は焦るように、急いでカメラをそちらに向け、ファインダーを覗いた。


 なんてことはない、ただの寝室だった。

 ベッドは濃い緑。掛布団は濃い緑と白のストライプ。そして枕は白のカバーが付いている。

 特に変哲のないその部屋の扉が見える。私は息を潜めるように、じっと身動き一つせず、その扉を見据えていた。


 どのくらい待ったか分からないが、その扉がついに開いた。

 男性が先に、そして後を追うように女性が少し照れくさそうに部屋に入ってきた。

 二人は下着姿だった。

 私ももう子どもじゃない。この後何が起こるのかは容易に想像できた。

 しかし、それは、映画で見る行為とは違って見えた。

 作りものじゃない、リアルがそこにはあった。それは汚らしく、人間の行為だとは到底思えなかった。

 それなのに、私はそれから目を離すことが出来なかった。醜悪で、悪夢のような、信じがたい現実から目を離すことが出来なかった。


 気付くと私はベッドに横になっていた。

 兄がベッドの端に腰かけている。

「お兄ちゃん」

 振り向いた兄はどこか興奮しているように顔が赤みがかっていて、息が荒い。そして、なぜか兄は下着姿だった。

 兄は何も言わず、ベッドの上に立ち上がってから、私に馬乗りになった。なぜか私は反抗することが出来ない。兄は、私の、シャツのボタンを、一つ一つ、ゆっくりと、じらすように、取っていく。最後の一つを取り終わると、兄は顔を私の顔に寄せ「大丈夫、大丈夫」と繰り返した。私は嫌なのに何も出来ない。シャツの袖から、ゆっくりと、私の腕を抜いて、シャツをベッドの脇に置いた。次いで私の肌着をさっと脱がし、先程ベッドの脇に置いたシャツと併せて床に落とした。先程までとは違い早くなった動作に、兄の興奮が高まっているのがわかる。次にズボンを脱がされた。この時にはもう、兄はがさつで、剥ぎ取るようにズボンを脱がし床に放った。私は下着姿になった。兄が私の首を舐める。妙にざらりとした感覚が首筋の神経を伝わり、脳に不快だという信号を送る。先程みたカーテンの向こうの光景が頭に浮かぶ。私はこれから、あの、醜悪で、汚らしく、悪夢のようなあの行為を、兄にされるのだろうか。兄が私の上で興奮したようになにかを言っているが、私には何を言っているのか分からない。


 私は兄に犯されるのだろうか。


 そこで、目が覚めた。

 何が起こったのか理解出来ずにいた。あの不快感は、とてもリアルで、夢の事とは思えなかったのだ。私はベッドの上で放心していた。


 何時間そうしていたのか分からないが、兄のただいまという声で我に返った。

 兄が帰ってきた。

 きっと兄は私の部屋に来るのだろう。ヒッチコック監督のサイコを持ってくるのだろう。昨日、それを借りてきてくれといったのは、私なのだから。


 靴を脱ぐ音。

 廊下を歩く音。

 階段を上がる音。

 鞄が壁に当たる音。

 扉の前には兄の気配。

 そしてドアノブが回る。

 扉がゆっくりと開く。

 そこにいたのは獣。

 獣の顔をした男。

 醜悪な顔の男。

 兄は死んだ。


「出て行って。お願いだから、こっちに来ないで」

 私は知らず、涙が零れた。好きだったはずの兄。私の唯一の味方の兄。

 しかし、もう兄の顔からは不快感しか感じない。

 カーテンの向こうの世界など見るべきではなかったのだ。


 私はその後、五年間自宅でひっそりと暮らしてから家を出た。

 両親も厄介払いが出来ていいと思ったのだろう。家を出ると言ったら、お金はたくさん渡してくれた。

 返す必要はないといわれたが、必ず返すと言い、私は家を決め、服とお金と裏窓のDVDだけを鞄に詰め込んで、家を後にした。

 裏窓のDVDは自分への戒めのつもりだ。それを見ると、いつも兄の事を思い出した。


 あの一件以来兄とは会話をしなかった。

 兄は何度か私に声をかけたが、あの夢を見てからというもの、兄を同じ人間だとは思えなくなっていたので、無視を貫いた。

 今思えばとても理不尽で、兄には不快な思いをさせたことだろう。私は最低だ。本当に申し訳ないと思っている。

 しかし、謝ろうと思っても兄に会うことは出来ないだろう。

 兄はあの後すぐに名門大学に合格し、家を出て一人暮らしを始めた。

 最初の内は、両親がよく電話をかけて近況を報告させていたようだが、いつからか近況報告は簡素なものになり、気付けば兄との連絡は途絶えた。

 心配になった両親が、兄が一人暮らしをしているアパートに出向くと、そこはもぬけの殻。


 兄は行方をくらましたのだ。


 これは直接両親から聞いた話ではないので、多少の違いはあるのかもしれないが、だいたいそんな風だったと警察から聞いた。

 兄はどこへ行ってしまったのだろうか。兄は今何をしているのだろうか。兄は私を恨んでいるだろうか。


 そんな事を考えながら、ベッドの上で裏窓のパッケージを眺めているとぴぃんぽぉーんんと間延びした玄関チャイムの音が鳴った。

 時刻は夜の八時五〇分。

 我が家には、モニターフォンといった便利なものが付いていないどころか、ドアスコープも付いていない。

「どちら様ですか?」

 扉を開けずに答えた。


「今の生活に満足している?」


 突然、若い女性というよりは少女のようなかわいらしい声で問われた。

「えっ?」

 突然投げかけられた質問の真意を図りかねて、次の言葉が出ないでいると、少女のようなかわいらしい声の持ち主は言った。

「明日、また、同じ時間に来るから、考えておいてね」

 刹那、私は恐怖と興味が綯い交ぜになった感覚を覚え、扉を開けるのを躊躇しながらも、その扉の先にいる人物の姿を見たくて仕方なくなった。


 この薄い扉一枚隔てた先にいる誰かの存在を。


「ちょっと、あなた誰なの?」

 私の中の恐怖と興味のバランスは恐怖の方が上回っていたようで、ドアノブに伸ばした手を捻ることが出来なくて、結局扉越しに相手を確認する言葉を言う事しか出来なかった。

 そして、もう返事は戻ってこなかった。

 私はそっと扉を開けたが、当然そこにはもう誰もいなかった。

 扉の外に身を乗り出して廊下の先を見てみると、見知らぬ少女が角を曲がるところだった。

 安アパート故に、電気が暗く、先を歩いている人物の全貌は見えないが、ちょうどライトの下の一番明るいところで照らされた奇抜な靴が目に入った。


 甲の部分に付いているぐにゃりと曲がる矢印が二つ円を描くようにデザインされた黒のダイヤル。

 靴の右側と左側を踵方向からぐるりと回りこむようについた黒のプラスチックパーツ。

 ミッドソールは汚れ一つない綺麗な白。

 そして、その上にあり全体を覆う鮮やかな青のカラーリングをアッパーに身に纏ったその靴は、近未来的な雰囲気で、まるで別の世界の住人が履いているようなデザインだった。

 その靴の持ち主の顔は見えなかったが、なぜか靴の持ち主は別の世界の住人なのではないかと思った。

 奇抜な靴のデザインのせいだろうか。

 今となってもよく分からない。ただその靴はとても、深く、深く、印象に残った。


 昨夜聞いた《今の生活に満足している?》というフレーズを、私はどこかで聞いたことがあるような気がして、インターネットで《今の生活に満足している?》というキーワードで検索をかけてみた。

 すると、都市伝説のサイトが複数ヒットした。その内の一つをクリックしてみる。

 すると、そこには、こんな話が載っていた。


 パラレルワールドへの誘い人。

 あなたは今の生活に満足していますか?

 大なり小なり、人は不満や後悔を抱えて生きているでしょう。

 あの時こうしていれば。あの時こうしていたら。

 そんな人生の分岐点で、違う選択をした世界、パラレルワールドへ連れていってくれる少女がいる事をあなたは知っていますか?

 彼女に出会うには、夜九時頃に、必ず一人で、あの時こうしていたらと思った瞬間を思い浮かべてください。

 ただそれだけで、彼女はやってきます。

 しかし、彼女は一人でパラレルワールドの管理をしているので、その日その日で、あの時こうしていたらと願った人の中から、一番面白く変化しそうな人のところにやってくるそうです。

 彼女はやってくると、こう問います。

「今の生活に満足している?」

 この質問に満足していないと答えると、晴れて、パラレルワールドへと行くことが出来るそうです。

 でも、勘違いしてはいけません。

 今とは違う分岐先の世界が必ずしも幸せだとは限らないのです。

 当然、今より不幸で、辛い世界に行く可能性がある事を肝に銘じておいて下さい。

 パラレルワールドへは、一方通行で、戻ってくることは出来ません。

 そして、もう一点。

 彼女を呼んでおきながら、今の生活に満足していると答えた場合。

 時空の狭間で生き続ける事になるそうです。死ぬ事も出来ず、悠久の時が流れる、時空の狭間で、ずっと。

 くれぐれも、彼女を呼ぶ時はご注意下さい。


 なんとも下らない、子供騙しにもならないような内容だったので他のサイトも見てみたが、どこも似たような内容だった。

 しかし、そんな子供騙しのような話にも、気になる点はあった。

 どの話にも必ず、少女が「今の生活に満足している?」と聞いてくる事と、パラレルワールドに行けるという内容が組み込まれている点である。

 私の家にやってきた、あの奇抜な靴を履いた少女を別の世界の住人だと感じたのは、あの少女がパラレルワールドの人間だったからなのだろうか。

 でも、もし、あの少女がパラレルワールドに連れていってくれるなら、この生活に満足していないと答えてみるのも面白いかもしれない。


「いやいや、なにをバカな事を考えているんだ私は」


 笑うと、私しかいない部屋で笑い声は反響し、自分の声のはずなのに、その音が妙に耳にこびりついた。どうも居心地が悪い。ここは。


 私は午前午後と詰め込んでいたバイトを終え、帰路についていた。

 予定の時間よりバイトが終わるのが遅くなってしまい、電車に乗った時点で時刻はすでに夜の八時半になろうとしていた。

 昨日彼女が現れた時間までに家に帰れそうにないなと思ったが、別に昨日少女が指定した時刻に帰る必要もないじゃないか、私は何を期待しているんだ馬鹿らしくなった。

 たまにはのんびり帰ってみてもいいかもしれない。


 その時、丁度電車が止まり、ぷしゅうとエアーの抜ける音がして、扉が開いた。同じ駅で降りる人は少なく、私の他に五人程しかいなかった。

 ホームの階段を下りてコンコースに着くと改札機の上にある時計が目に入った。

 時刻は八時五〇分。

 昨日少女が現れた時間だ。

 今頃少女は私の家の玄関をノックしている事だろう。そこに私はいないのに。そう思うと少し面白くなって、ふふっと笑った。


「何笑ってるの?」


 若い女性というよりは少女のようなかわいらしい声。

 私は声のした方に目を向けた。

 そこには一人の女性が立っていた。

 少女のようなかわいらしい声とは裏腹に、大人びた表情をした女性。

 昨日、私の家のドアをノックして「今の生活に満足している?」と問うてきた、あの女性だと確信した。それは直感的なものであって、決して証拠がある訳ではない。

 しかし、その雰囲気だろうか、醸し出す空気感だろうか、言葉では表せないが、妙な迫力のようなものから、きっと昨日の彼女なのだろうと確信したのだ。


 私はどう答えるべきか迷った。

 長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いている目には強い目力があり、その視線から私は目を逸らす事が出来ず、どぅっくどぅっくと煩い心臓の鼓動がやけに大きく聞こえ始めて、自分が緊張している事に気付いた時、彼女が再び口を開いた。


「聞こえてますよね? あなたに言ってるんですけど」


 少し不満そうな顔で、唇を尖らすように、こちらを上目遣いに見てくる姿がかわいらしくて私の緊張は一気に和らいだ。

「ごめんなさい、何か御用?」

 なるべく笑顔で答えたつもりだが、普段から愛想が良い方ではないので、上手に笑顔を作れているかどうかは分からない。

「まあね」彼女は再び大人びた顔に戻り、続ける。

「昨日の質問の答えを聞きにきたの」


 今朝サイトで見た、パラレルワールドへの誘い人の事を私は思い出し、彼女をそれと見立ててみた。

 彼女のような人物が果たしてパラレルワールドの住人なのだろうか?

 別段変わったところがあるようには思えない。

 しかし私はなんとなくネットの情報を信じてみるかと思った。いや、信じてみるじゃない。信じてみたいと思った。


 兄の事が頭を過ぎる。

 もしあの時の兄を拒絶していなければ、今も私と兄の関係は良好であって、失踪などせずに二人で笑いあっていたかもしれない。

 今でも夢見るそんな世界。

 パラレルワールドがもしあるのなら。

 私がそちらの世界に行けるのなら。

 オカルトのような話で、誰も信じないような子供騙しのような話。

 ここ以外の世界があるのならば、この瞬間を無下にするべきではないだろう。


 私の答えは決まった。


 自らの答えを深く理解する確認の意味も込めて一度小さく頷いた。

 そんな姿を彼女は見逃さない。

「何を一人納得しているの?」そう言うと怪訝そうな顔をしてみせたが、彼女は私の返事を聞かないまま続けた。

「まあいいわ。もう決めた? 昨日の質問の答え。なにか気になる事とかあったら、質問してくれたら答えるけど」


 質問か。

 ここは「今の生活に満足していない」と答えてパラレルワールドにさっさと連れていってもらうべきだろうか。

 そう考えていると、私の視線に彼女の靴が飛び込んできた。奇抜なデザインの靴。


 深く、深く、印象に残ったあの青の靴。


 私はあの靴がなんという靴なのか知りたくなった。

 彼女がふざけてパラレルワールドの誘い人の真似事をしていようが、本当のパラレルワールドへの誘い人であろうが、ただの変な人であろうが――とはいっても私の中ではもう彼女は本物だと思っているけれど――「今の生活に満足していない」と答えるつもりなので、その前に素直に気になった事を聞いてみるのも一興だろう。

 このつまらない世界で私は言った。


「昨日、見た時から思ってたけど、その靴、かっこいいね。なんて靴なの?」


 兄のただいまという声で我に返った。

 私は帰ってきた。

 きっと兄は私の部屋に来るのだろう。ヒッチコック監督のサイコを持ってくるのだろう。


 靴を脱ぐ音。

 廊下を歩く音。

 階段を上がる音。

 鞄が壁に当たる音。

 扉の前には兄の気配。

 そしてドアノブが回る。

 扉がゆっくりと開く。

 そこにいたのは兄。

 懐かしい顔の兄。

 優しい顔の兄。

 兄は言った。


「千草、ごめん。全部借りられてたよ、サイコ」


 私は知らず、笑みが零れた。

 目の前には久し振りに会う兄。

 私の中にあった後悔という澱が、すっかり洗い流されたように心が澄んでいったのを今感じている。

 私はもう兄を拒絶しない。

 何故なら拒絶の先にある悔恨と寂寥をすでに知っていて、それに囚われた人生の長い悲愴を知っていて、そんなのはもうまっぴらごめんなのだ。


 そしてただ純粋に兄と映画の話をして笑っていたいのだ。


 すでに過ちを犯していながら図々しい考えだというのは分かっているが、この巡ってきた機会を無駄にはせず、次こそは過ちを犯さずにしっかりと人生を送っていきたいと思っている。

 その為にも、まずは兄に謝らなければならない。

 兄はなんの事か分からないだろう。

 私だけが知っている、もう一つの未来での出来事に対しての謝罪なんて、私の為の行為であり、エゴに他ならない。

 私は少し落ち着いて考える事にした。

 過ちを正す為に戻ってきたのに、その過ちをエゴで上塗りしてしまうのは間違っているのではないだろうか? 結局のところ私は自分の事しか考えていないのではないだろうか? 以前はどうだった?


 そうだ。


 私は以前から自分の事ばかりを考えて生きてきた。

 兄の状況について考えた事が、兄の近況について話を聞いた事があっただろうか?

 兄はいつも私に話をしてくれて、私の話を聞いてくれていたが、二人の会話には映画しかなく、そこに生活といったファクターは含まれていなかった。

 兄は学校生活をどの様にこなしていた?

 私が不登校だから気を使って学校の話をしなかったのか?

 目の前に立つ兄を見ているとどこか違和感を感じて、私は兄の全身を隈なく頭のてっぺんから足の先まで、舐めるようにじっくりと観察し、そして見つけた。

 着過ぎてゴムが伸びたTシャツの首の部分から覗く、赤っぽい、まだ出来てあまり時間が経っていないであろう痣。

 なにも言わず身体を見られた兄は不思議そうにこちらを見ている。

 私はそんな兄に言った。


「お兄ちゃん、いじめられてるの?」


 私は兄の話を聞きたいと思い、兄に一歩踏み込もうと思い、結果自分と兄は同じだと、兄もこちら側の人間だったのだと分かって私は嬉しくなっていてきっとそれが表情にも表れているのだろう。

 そんな私の顔を見て、兄は天敵を見付けた瞬間の小動物の様に自らを守るためにぐっと力を入れて、じっとそこに留まっている。


 何故。

 どうして。


 そんな必要はない。仲間なのだから。

 私は分かるよ。


 しかし兄は何も言わずに部屋を飛び出した。


 階段を転げ落ちるように降りていったかと思うと本当に転げ落ちている音がするが、兄は止まらずに廊下を進み、そのまま玄関を開けて外に出た様だ。

 扉の閉まる音が空気を伝って私の部屋に響いて、壁を、床を、天井を少しだけ揺らす。

 なんの物音も立てずに、私の部屋の開け放った扉から彼女が現れた。

 彼女は憐れむような眼差しで私を見ている。

 私は立ち上がり、そんな彼女の脇をすり抜けて兄が転げ落ちていった階段を降りて階段の下に滴っている血痕に指を這わす。


 こんなつもりじゃなかったのに。


 私はまた後悔と抑鬱を深めて、以前よりも深く重く強い自責の念を抱いた。

 背後から私とは対照的な軽い音を立てて彼女が階段を降りてきている。

 振り返り改めて彼女を眺める。

 長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いている目には強い目力があり、その視線から私は目を逸らす事が出来ずにいた。


 そして私は妙な感覚を覚えた。


 以前も同じ事があったような気がする。

 今更ではあるが彼女は一体何者なんだろうかという疑問が浮かんできた。


「あなたは何者なの?」


 彼女はシニカルな表情を浮かべたまま、質問には答えずに、逆に私に問うた。

「今の生活に満足している?」

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